令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって

真好

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「こんばんは」

 廊下の淡い光を背負って佇む彼の姿に、私は慌てて椅子から立ち上がる。

 その勢いで椅子が倒れ、室内に無粋な衝撃音が響き渡ったが、私にもクロエにも、それを気にする余裕などなかった。

 酷く場違いで愚かなことだが、この時の私は驚きよりも先に、眼前の男性の美しさに心を奪われていた。

 彫刻のように端正な容貌、知性を湛えた深い眼差し。
 そんな男が至近距離に突然現れた衝撃に、私たちはあまりにも無防備だった。

「入ってもいいかな?」

 低く、滑らかな質感を持った心地よい声が、部屋の中に溶け込むように響く。

「も、も、も、もちろんでございます、侯爵様! ど、どうぞ、中へ……」
クロエがひどく狼狽しながら、招き入れる。

「お邪魔するよ」

 アルフォンス様が足を踏み入れると、その後ろから、先ほど入り口で見かけた老執事――デインも姿を現した。

 デインが静かに中へ入り、背後のドアを閉める。

「すまないね」

 開口一番、アルフォンス様は謝罪を口にした。

 まさか、今になって私を追い出すと言い出すのではないか。
 そういった予測が頭をよぎり、私は心の準備を整えようとした。

 だが、彼の言葉は意外な方向へと続いた。

「実はここに入る直前、廊下で君たちの会話が少し聞こえてしまってね。どうやら二人は旧知の仲だそうじゃないか」

 深海のような紺色の瞳を向けられ、私とクロエはおずおずと視線を交わすばかり。

「は、はい。左様にございます」

 私は震える声で説明を続けた。

「……かつての主従という関係ではありましたが、私にとって、クロエは妹のような存在でした」

「そうか。それは重畳だ」

 彼は穏やかに微笑み、手にしていた銀盆を机の上に静かに置いた。

 アルフォンス様が微かな微笑みを湛えて視線を向けると、クロエは無礼を承知で、まじまじと彼の顔を見つめたまま彫像のように固まってしまう。

 うん。
 その気持ち、痛いほどよく分かる。

 彼の眼差しを真っ向から受けたクロエの瞳には、今にも陶酔の輝きが溢れ出しそうだった。

 それにしても、と私はふと想像してみる。
 ドアの向こうで、食事の載った銀盆を自ら捧げ持ち、背後に老執事を従えたまま、一介のメイドの部屋に聞き耳を立てている高貴な侯爵様の姿を。

 あまりにも不釣り合いで、滑稽ですらあるその光景を思い浮かべると、喉の奥から笑いがこみ上げてきた。
 私はその唐突な笑意を押し殺すため、慌てて深刻な表情を繕う。

 すると、彼は私の変化を敏感に感じ取ったようだった。

「……やはり、邪魔だったかな?」
「「と、とんでもございません!」」

 私とクロエの声が重なる。
 私はあたふたとした様子で言葉を継ぐ。

「お疲れのところを、わざわざ直々にお越しいただいて……。ただただ、感謝の念に堪えません」

 本心だった。
 彼の類まれなる美貌を眺めているだけで、これまでの疲労がいくらか霧散していくような、不思議な心地がしていたから。

 アルフォンス様はトレイを机に置くと、私とクロエを交互に見つめた。

「心配だったんだよ。あいにく個室を用意してあげられなかったことが、ずっと気にかかっていてね。同室の子がもし怖い子だったら、すぐにでも部屋を変えさせようと思っていたけれど……。その心配はなさそうだ。何よりだよ」

「さ、左様でございましたか……」

「では、この部屋で落ち着くということで、異論はないかな?」

「はい。申し分ございません。ありがとうございます」

 アルフォンス様は満足げに頷くと、改めてクロエの私室を見渡した。

「可愛い部屋だね」

 短くそう告げてから、彼は机の上の食事に視線を促す。

「さあ、冷めないうちに食べるといい」

 促されるまま、私は深々とお辞儀をしてから椅子に腰を下ろした。

「何から何まで、本当にありがとうございます……」

 私の言葉に、彼はこの上なく優雅な微笑みを返した。

「では……クロエ君、だったかな。エルナのことをよろしく頼むよ」

 彼が部屋を後にしようとした瞬間、凍りついていたクロエの魔法が解けた。
 彼女は去りゆく背中に向かって、叫ばんばかりの勢いで深いお辞儀をする。

「お、お任せくださいませ、侯爵様!」

「声が大きいぞ、クロエ!」

 直後、アルフォンス様の後ろに控えていたデインの鋭い叱咤が飛ぶ。

 クロエは「しまった」と言わんばかりに両手で自分の口を塞いだ。

 デインは恐ろしい形相で彼女を一睨みしてから、静かにドアを閉めた。
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