終わりから始まる恋――冷徹公爵に婚約破棄された令嬢は、愛されすぎて逃げられません!

nacat

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第1話 婚約破棄は突然に

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王都の中心にある大広間は、今夜もまばゆいばかりの光で満たされていた。煌びやかなシャンデリアが光を反射し、カーテンに縫い込まれた金糸がきらめく。貴族たちが笑い、グラスの音が鳴り響き、音楽隊が優雅に奏でる調べが全体を包み込む。  
それは、誰もが夢に見るような美しい社交の場だった――少なくとも、つい数分前までは。

「リディア・バートン伯爵令嬢。君との婚約を、ここで破棄する。」

その瞬間、音楽が一瞬にして止まり、場にいた全員の息が凍りついた。  
貴族たちの視線が、一斉に壇上の二人へと向けられる。  
冷たい声の主――レオンハルト・グランディール公爵は、王国でも指折りの名門貴族であり、冷徹な判断力と完璧な容姿で知られる男だった。  
その彼が、公衆の面前で、婚約者に別れを突きつけたのだ。

「……なん、ですって……?」

リディアの唇が震える。琥珀色の瞳が大きく見開かれ、喉が声を出すのを拒むかのように、うまく言葉にならない。  
何かの冗談だと思いたかった。だが、レオンハルトの眼差しには一欠片の冗談も浮かんでいない。むしろ、冷たく、突き放すようだった。

「理由を、お聞かせいただけますか、公爵閣下。」

声を絞り出すように、リディアは問う。  
彼女の背筋はぴんと伸びている。顔色は青ざめていたが、貴族の娘としての矜持を保っていた。

レオンハルトは周囲を見渡した後、静かに告げた。  
「君には、婚約者としての品位がない。立場に見合う行動も、言葉も。最近では男爵家の息子と密会しているという噂も届いている。」

「それは――!」  
リディアは反射的に否定しかけたが、レオンハルトの視線に遮られた。

「言い訳は聞かない。これ以上、私の名を汚すような真似はしないでくれ。」

冷酷な宣告。その言葉は、刃物のように彼女の胸を切り裂いた。  
周囲から小さなざわめきが生まれ、それが波のように広がっていく。さっきまで彼女に話しかけていた令嬢たちが一歩、また一歩と離れていく気配を感じた。  
リディアの指先は、震えていた。けれど、涙は落とさなかった。

――泣いては、負けだ。

彼女はそう自分に言い聞かせて、静かに息を吐く。  
レオンハルトの背後には、新たな噂の主――侯爵令嬢エミリアの姿があった。  
黄金の髪を揺らし、薄く笑みを浮かべている。嫉妬に満ちたその眼差しは、あえてリディアを見下すような角度だった。

「……理由は、わかりました。」

リディアは小さく頭を下げる。そして声を震わせないよう努めながら、会場全体に響くように言った。

「私は、公爵閣下のご判断を尊重いたします。ただ、ひとつだけ申し上げます。――私は、決して裏切りなどしておりません。」

誰もが息を呑む中、リディアは微笑みを浮かべた。その笑顔は、どこか儚く、けれど誇り高かった。  
そしてドレスの裾を翻し、踊るようにその場を後にする。  
会場の扉が重く閉じられると同時に、彼女の胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。



夜の街を、リディアは一人で歩いていた。  
冬の空気が冷たく頬を刺す。通り過ぎる馬車から漏れる明かりの向こうで、王都はいつも通りの華やかさを保っている。  
だが、そんな世界が、妙に遠く感じられた。

「……婚約破棄、ね。」

口にしてみても、現実感がない。あの瞬間の視線、ささやく声、嘲笑――すべてが幻だったかのように思える。  
彼女の手は、冷たくなっていた。ガラスのように透明な夜気が、心の奥まで染み込んでくる。

伯爵家の令嬢リディアは、努力の人だった。  
誰よりも学び、誰よりも気品を磨き、婚約者である公爵に恥じぬ存在であろうとした。  
だが、結果はこの有様。努力を重ねても、信じた愛は一瞬で崩れ去る。  
それでも涙を見せないのは、彼女の誇りゆえだった。

家の扉を開けると、父のバートン伯爵が待っていた。白髪の混じる穏やかな紳士で、だが今は表情が硬い。

「リディア……噂は本当なのか。婚約が……」

「ええ。私から申し上げるつもりでした。」

彼女は淡々と答える。そうすることで、父を心配させたくなかった。  
伯爵は一瞬、目を伏せたあと、静かに頷いた。

「お前が何も悪くないことは、父が一番知っている。だが、公爵との縁が切れた以上、これからは自分の道を歩むしかないな。」

「はい。」

短い返事に込めたのは、悲しみではなく決意だった。  
リディアはもう、レオンハルトを待つことはしない。  
泣いても、嘆いても、彼は戻らない。ならば――進むしかない。

その夜、彼女は机に向かい、手紙を書いた。  
王都を離れ、国外で商会に関わる仕事を学びたいという旨を綴る。  
貴族の娘が社交以外の才能を追うのは珍しいことだが、リディアにとってそれが唯一の救いだった。  
何かを築くことでしか、自分を守れないと思ったのだ。



数日後。  
荷物を積んだ馬車が、邸を出発した。  
北の国境を越えれば、そこは見知らぬ土地。  
空気は冷たいが、どこか清々しかった。

街の喧騒から遠く離れ、リディアは窓越しに空を見上げる。  
あの日と同じ冬の星が瞬いている。だが、心の中の痛みは少しだけ薄らいでいた。

「きっと、これで良かったの。」

自分に言い聞かせるように呟く。  
彼女の中で、何かが確かに変わっていくのを感じた。  
それは諦めではなく、再生への始まりだ。

一方その頃、王都の公爵邸では。  
レオンハルトがひとり、書斎に立ち尽くしていた。  
机の上には、リディアが残していった花飾り。淡いピンク色の小さなバラが乾きかけている。  
手に取った瞬間、胸の奥に微かな痛みが走った。

「……あれで良かったんだ。」

そう言い聞かせながら、彼の声はどこか震えていた。  
本当に“良かった”のか――その答えを知るのは、もう少し先のこと。

王都の夜は更けていく。  
誰も知らない場所で、誰も予想しなかった運命の軌跡が、静かに動き始めていた。

続く
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