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第2話 涙の淑女は笑わない
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北方の国境を越えて間もなく、リディアの新しい日々が始まった。
そこは王都から遠く離れた商業の街、スレイン。雪深い土地だが、交易が盛んで、多くの外国人商人や工匠が集う活気ある場所だった。
白い息を吐きながら、リディアは見慣れない街並みに目を細める。灰色の石造りの建物が並び、香辛料の香りや馬の足音が入り混じっていた。
「伯爵令嬢が商会で働きたいなんて、珍しいことですな。」
リディアを出迎えたのは、年配の商会長バルド・クレイルだった。白いひげを撫でながら笑い、その目には商売人らしい鋭さが光る。
「そうでしょうね。でも、私、本当の意味で“働く”ということを学びたいのです。」
リディアはまっすぐに答えた。
華やかな舞踏会もドレスも、今の彼女には必要なかった。必要なのは新しい知恵、そして自立の力。
バルドはその強い意志を見て、にやりと口の端を上げた。
「いい目だ。なら、明日から働いてもらおう。うちの商会は香水と織物を扱っておる。最初は経理と在庫の整理だ。」
「ありがとうございます、クレイル様。」
「堅苦しいな。バルドでいい。うちは貴族の家じゃないからな。」
リディアの唇に、かすかに笑みが浮かんだ。
王都では考えられない気安さだが、この温もりが今の彼女には心地よかった。
*
翌朝、リディアは夜明けとともに商会へ向かった。
倉庫いっぱいに並んだ木箱、帳簿に書き込まれる数字、従業員の声――貴族社会とはまったく別の世界だった。
だが、彼女は臆することなく、黙々と作業に取りかかった。整理された記録の精密さは、かつて社交書類を完璧にこなしてきたその経験が活きていた。
「バルド様、こちらの出荷伝票に誤記があります。ここ、単価が違っております。」
「本当か?どれ……おお、確かに。よく気づいたな。」
褒められてもリディアは驚いたように瞬きをした。
誰かに認められたこと、その言葉が胸の奥を温める。
婚約者の隣で微笑むだけの自分とは、もう違う。
彼女は自分の手で、確かに何かを築こうとしていた。
日毎に商会での仕事に慣れるにつれて、リディアは社員たちから少しずつ信頼を得た。
昼食時に仲間の女性たちとパンを分け合いながら笑う様子を見て、バルドは満足げに頷いた。
かつて「涙の淑女」と呼ばれた王都の令嬢が、もう過去の弱さを見せることはなかった。
しかし夜になると、静かな宿の一室で、時折彼女の瞳が遠くを見つめることがあった。
月明かりの下、その奥にはまだ消えない記憶がうごめいている。
婚約破棄の場面、あの冷たい声、そして笑っていた別の令嬢の顔。
痛みは少しずつ薄れていくはずなのに、ふとした瞬間に胸を締めつけた。
「もう泣くのはやめたのに……」
小さく呟きながら、彼女は手を重ねて目を閉じた。
心の奥で、いつか自分自身として堂々と笑える日を願って。
*
半月ほどが過ぎた頃。
商会にひとつの大きな取引依頼が舞い込んだ。
それは王国の南部にある名門商会――グランディール商会との共同出荷だった。
書類にその名を見た瞬間、リディアの手がぴたりと止まる。
グランディール。
その名を聞かずに過ごせたのは、奇跡のような日々だったのかもしれない。
彼女は深呼吸をして、何事もなかったかのように筆を取った。
数字を間違えぬように、書類を整え、印を押す。
それが彼女の“けじめ”であり、“強さ”だった。
「リディア、南部へひとり派遣を頼む。うちの代表が行けん代わりに、現地で書類の確認をしてきてくれ。」
「わかりました、バルド様。」
彼女は淡々と返事をした。
だが胸の奥では、別の感情が静かに波打っていた。
グランディール――あの家の名を再び口にしても、もう涙を流さない、それを確かめたい。
そして、心から本当に“過去”にできるのかどうか。
*
南部の街に着いたのは数日後。
港町らしく潮の香りが漂い、陽光が輝いていた。北の雪国とは正反対の明るさだ。
リディアは風にドレスの裾を揺らしながら、取引先の建物へと歩を進めた。
会議室に通された瞬間、彼女の心臓が一瞬止まりそうになった。
そこにいたのは、燦然とした金の髪と青い瞳――間違いなく、レオンハルト・グランディール公爵本人だった。
「……リディア、なのか。」
驚きと後悔が入り混じった声。
その表情を見た瞬間、胸の奥の古傷が痛んだ。
しかしリディアは毅然と首を垂れ、礼儀正しく挨拶する。
「ご無沙汰しております、公爵閣下。バルド商会より、書類確認の任を仰せつかっております。」
その声は冷静で、まるで他人のようだった。
レオンハルトは何かを言いかけて、言葉を飲み込む。
彼は、あの日の夜会で見た涙を一度も忘れたことがなかった。
後悔が、いつの間にか彼の心を蝕んでいたのだ。
だがリディアは淡々と業務をこなした。
書類の確認、署名、必要な印の受領。
彼が何かを言おうとしても、彼女は一切視線を合わせない。
完璧な淑女の態度――けれど、笑わない。
「リディア。少し、話を――」
「申し訳ございませんが、公務中ですので。」
静かな拒絶。その声音は、かつて彼が別れを告げた時の冷たさよりもはるかに痛烈だった。
レオンハルトの喉が詰まり、何も言えなくなる。彼女が去っていく背中を、ただ見ることしかできなかった。
*
港の風が吹く。
波の音がリディアの耳を撫でた。
胸の奥で、何かがようやく終わりを告げるように静まっていくのを感じる。
会わなければずっと引きずっていただろう。だが、彼のあの表情を見たことで、ようやく過去を置けた気がした。
「涙の淑女は、もういない。」
彼女はそっと自分に言い聞かせ、風に髪を揺らした。
再び新しい街へ、次の取引地へ向かうため馬車の扉を閉める。
車輪が回り始め、彼女の新しい人生の音が響いた。
そしてレオンハルトは静かに呟いた。
「……リディア、俺は君を見誤った。」
その呟きは誰にも届かず、海風に溶けて消えていった。
続く
そこは王都から遠く離れた商業の街、スレイン。雪深い土地だが、交易が盛んで、多くの外国人商人や工匠が集う活気ある場所だった。
白い息を吐きながら、リディアは見慣れない街並みに目を細める。灰色の石造りの建物が並び、香辛料の香りや馬の足音が入り混じっていた。
「伯爵令嬢が商会で働きたいなんて、珍しいことですな。」
リディアを出迎えたのは、年配の商会長バルド・クレイルだった。白いひげを撫でながら笑い、その目には商売人らしい鋭さが光る。
「そうでしょうね。でも、私、本当の意味で“働く”ということを学びたいのです。」
リディアはまっすぐに答えた。
華やかな舞踏会もドレスも、今の彼女には必要なかった。必要なのは新しい知恵、そして自立の力。
バルドはその強い意志を見て、にやりと口の端を上げた。
「いい目だ。なら、明日から働いてもらおう。うちの商会は香水と織物を扱っておる。最初は経理と在庫の整理だ。」
「ありがとうございます、クレイル様。」
「堅苦しいな。バルドでいい。うちは貴族の家じゃないからな。」
リディアの唇に、かすかに笑みが浮かんだ。
王都では考えられない気安さだが、この温もりが今の彼女には心地よかった。
*
翌朝、リディアは夜明けとともに商会へ向かった。
倉庫いっぱいに並んだ木箱、帳簿に書き込まれる数字、従業員の声――貴族社会とはまったく別の世界だった。
だが、彼女は臆することなく、黙々と作業に取りかかった。整理された記録の精密さは、かつて社交書類を完璧にこなしてきたその経験が活きていた。
「バルド様、こちらの出荷伝票に誤記があります。ここ、単価が違っております。」
「本当か?どれ……おお、確かに。よく気づいたな。」
褒められてもリディアは驚いたように瞬きをした。
誰かに認められたこと、その言葉が胸の奥を温める。
婚約者の隣で微笑むだけの自分とは、もう違う。
彼女は自分の手で、確かに何かを築こうとしていた。
日毎に商会での仕事に慣れるにつれて、リディアは社員たちから少しずつ信頼を得た。
昼食時に仲間の女性たちとパンを分け合いながら笑う様子を見て、バルドは満足げに頷いた。
かつて「涙の淑女」と呼ばれた王都の令嬢が、もう過去の弱さを見せることはなかった。
しかし夜になると、静かな宿の一室で、時折彼女の瞳が遠くを見つめることがあった。
月明かりの下、その奥にはまだ消えない記憶がうごめいている。
婚約破棄の場面、あの冷たい声、そして笑っていた別の令嬢の顔。
痛みは少しずつ薄れていくはずなのに、ふとした瞬間に胸を締めつけた。
「もう泣くのはやめたのに……」
小さく呟きながら、彼女は手を重ねて目を閉じた。
心の奥で、いつか自分自身として堂々と笑える日を願って。
*
半月ほどが過ぎた頃。
商会にひとつの大きな取引依頼が舞い込んだ。
それは王国の南部にある名門商会――グランディール商会との共同出荷だった。
書類にその名を見た瞬間、リディアの手がぴたりと止まる。
グランディール。
その名を聞かずに過ごせたのは、奇跡のような日々だったのかもしれない。
彼女は深呼吸をして、何事もなかったかのように筆を取った。
数字を間違えぬように、書類を整え、印を押す。
それが彼女の“けじめ”であり、“強さ”だった。
「リディア、南部へひとり派遣を頼む。うちの代表が行けん代わりに、現地で書類の確認をしてきてくれ。」
「わかりました、バルド様。」
彼女は淡々と返事をした。
だが胸の奥では、別の感情が静かに波打っていた。
グランディール――あの家の名を再び口にしても、もう涙を流さない、それを確かめたい。
そして、心から本当に“過去”にできるのかどうか。
*
南部の街に着いたのは数日後。
港町らしく潮の香りが漂い、陽光が輝いていた。北の雪国とは正反対の明るさだ。
リディアは風にドレスの裾を揺らしながら、取引先の建物へと歩を進めた。
会議室に通された瞬間、彼女の心臓が一瞬止まりそうになった。
そこにいたのは、燦然とした金の髪と青い瞳――間違いなく、レオンハルト・グランディール公爵本人だった。
「……リディア、なのか。」
驚きと後悔が入り混じった声。
その表情を見た瞬間、胸の奥の古傷が痛んだ。
しかしリディアは毅然と首を垂れ、礼儀正しく挨拶する。
「ご無沙汰しております、公爵閣下。バルド商会より、書類確認の任を仰せつかっております。」
その声は冷静で、まるで他人のようだった。
レオンハルトは何かを言いかけて、言葉を飲み込む。
彼は、あの日の夜会で見た涙を一度も忘れたことがなかった。
後悔が、いつの間にか彼の心を蝕んでいたのだ。
だがリディアは淡々と業務をこなした。
書類の確認、署名、必要な印の受領。
彼が何かを言おうとしても、彼女は一切視線を合わせない。
完璧な淑女の態度――けれど、笑わない。
「リディア。少し、話を――」
「申し訳ございませんが、公務中ですので。」
静かな拒絶。その声音は、かつて彼が別れを告げた時の冷たさよりもはるかに痛烈だった。
レオンハルトの喉が詰まり、何も言えなくなる。彼女が去っていく背中を、ただ見ることしかできなかった。
*
港の風が吹く。
波の音がリディアの耳を撫でた。
胸の奥で、何かがようやく終わりを告げるように静まっていくのを感じる。
会わなければずっと引きずっていただろう。だが、彼のあの表情を見たことで、ようやく過去を置けた気がした。
「涙の淑女は、もういない。」
彼女はそっと自分に言い聞かせ、風に髪を揺らした。
再び新しい街へ、次の取引地へ向かうため馬車の扉を閉める。
車輪が回り始め、彼女の新しい人生の音が響いた。
そしてレオンハルトは静かに呟いた。
「……リディア、俺は君を見誤った。」
その呟きは誰にも届かず、海風に溶けて消えていった。
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