3 / 6
第3話 冷徹公爵の残酷な宣告
しおりを挟む
王都に戻ったレオンハルトは、書斎の椅子に腰を下ろしたまま、何度目か分からないため息をついていた。
手元にはバルド商会との契約書。そして、その署名欄に整然と並ぶ筆跡。
リディア・バートン。
その文字を見ただけで、胸の奥がざらりと痛む。
――あのときの彼女は、まるで別人だった。
毅然として、目を逸らさず、ただ任務をこなす冷静な商人の顔。
あの夜会で見せた涙も、震える声も、もうどこにもなかった。
「公爵様。」
控えめなノックとともに、執事のモーゼスが入ってくる。
その老執事は、かつてリディアを屋敷に迎え入れた当人でもあった。
静かにお茶を差し出しながら、何かを言いかけて口を噤んだ。
レオンハルトはそんな彼の気配を察して、目を閉じたまま言葉を発した。
「言いたいことがあるなら言え。」
「……お言葉ですが、あの方をあのように退けられたこと、今もお悔やみになっておられるのでは。」
「違う。」
即座に返った否定の言葉には、少しの迷いも含まれていた。
レオンハルトは自嘲するように唇を歪める。
「俺は、あのとき正しいと思った。……そうするしかなかった。」
「しかし、リディア様は何も――」
「わかっている!」
その叫びが重苦しい沈黙を破った。
彼は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
理性では理解している。誤解だった可能性があることも。
けれど、あの場で誰かの策にはまったと知っていても、もう何も変えられなかった。
「俺が信じなかった。いや、信じようともしなかった。」
天井を仰ぐレオンハルトの瞳に、苦い影が宿る。
リディアを罠に陥れたのは、侯爵令嬢エミリアの甘く巧妙な罠だった。
噂を広げ、「リディアが男爵家の放蕩息子と密会している」と囁いたのも彼女の取り巻きだ。
それを信じたのは、レオンハルト自身――冷徹だと呼ばれる自分の、愚かさゆえだった。
「後で真実を知ったところで、何の意味もない。」
彼は痛みを噛み締めながらそう呟く。
執事はただ静かに頭を下げ、部屋を出ていった。
*
その頃、南部港町では、リディアが商会の新たな支店設立の準備に追われていた。
港の倉庫を視察し、契約書の文面を確認し、夜更けまで灯りを絶やさない。
彼女の勤勉さは評判となり、現地の取引先も信頼を寄せるようになった。
しかし、どれほど忙しくしても、ふとした瞬間に青い瞳の男の影が脳裏をよぎる。
それを無理やり押し込め、再び羽ペンを握る。
「リディアさん、こちらに署名をお願いできますか!」
「ええ、すぐに。」
部下の声に優しく応じながらも、手の震えは止まらなかった。
*
夜。
その書斎の窓から見える港の光が、どこか懐かしさを誘った。
あの人も、似たように夜の帳で仕事をしているのだろうか――そんな考えを振り払うように、リディアは肩をすくめた。
「過去を引きずるなんて、まだ子供ね……」
笑いながら、自分を叱るように呟く。
そのとき、扉がコツンと叩かれた。
警備員かと思い、「どうぞ」と言った次の瞬間、背筋が固まる。
目の前に立っていたのは、見間違えるはずもない男――レオンハルト・グランディール。
「なぜ……ここに。」
声は驚きと警戒の入り混じったものだった。
リディアは立ち上がり、机を挟んで距離を取る。
レオンハルトは深く息を吸い、わずかに頭を下げた。
「今日、取引の関係で視察に来た。君にどうしても伝えたいことがある。」
「取引上の打ち合わせでしたら、明日バルド様が――」
「違う。」
その一言に、リディアの唇が凍りついた。
彼の青い瞳が、逃れようもないほど真剣に彼女を見つめている。
「俺は、君に謝りたい。」
静かな言葉。
だがその一言は、リディアにとってもっとも聞きたくなかったものだった。
彼が差し出す後悔は、彼女の努力でやっと覆い隠した過去を暴き出してしまう。
「謝罪など……もう必要ありません。私はただの商会員です。公爵閣下とは、なんの関係もありません。」
「関係がない? 本当にそう思っているのか?」
レオンハルトの低い声に、心臓が跳ねる。
彼は一歩踏み出し、机に手を置いた。
「俺はあの日、自分の立場と噂ばかりを信じ、君を傷つけた。だが、理由があったわけじゃない。
ただ臆病だったんだ。貴族の名誉という名の鎧に隠れて、君を疑うことで自分を守った。――それが、どんな愚かだったか、ようやく気づいた。」
「……今さらそんなことを言っても、何が変わるのですか。」
リディアの声は震えていた。
それを察した彼は、苦しげに唇を噛んだ。
「変わらない。だが、せめて伝えたかった。君がどれほど立派に生きているか、王都でも噂になっている。誰もが君を尊敬している。俺は、君の……幸せを願っている。」
「それなら、この場を去ってください。」
きっぱりと放たれた言葉に、レオンハルトの視線が揺れた。
しばしの沈黙。
やがて、彼はゆっくりと背を向ける。
扉を開ける手が震えていることを、リディアは見逃さなかった。
「リディア。」
最後に振り返ったとき、その顔には哀しみの影が差していた。
「君は強くなったな。だが――その強さの下に、今もあの笑顔があることを祈っている。」
バタン、と扉が閉まる音が響いた。
残された静寂の中、リディアはその場に崩れ落ちそうになる。
彼女の胸の奥で、何かが溶けていくような感覚。
けれど、泣かなかった。泣けなかった。
むしろ、心のどこかで妙にほっとしている自分に気づいて、苦笑する。
「ああ……また、ずるい人。」
小さく呟いた声が、誰にも聞こえない夜の中に消えた。
そしてその翌日、レオンハルトのもとに一通の報告書が届く。
――バルド商会、リディア・バートンを新支店の責任者に昇格。
その文面を見た瞬間、彼は無意識に微笑んでいた。
「もう俺の庇護など必要ない、か。」
その声には、悔恨よりもどこか誇らしげな響きがあった。
だがその誇りの裏で、彼の中に芽生えたのは、抑えがたい焦燥だった。
――あの手を、やはり離すべきではなかった。
自分の心が、もう一度彼女を求めていることを悟った瞬間でもあった。
続く
手元にはバルド商会との契約書。そして、その署名欄に整然と並ぶ筆跡。
リディア・バートン。
その文字を見ただけで、胸の奥がざらりと痛む。
――あのときの彼女は、まるで別人だった。
毅然として、目を逸らさず、ただ任務をこなす冷静な商人の顔。
あの夜会で見せた涙も、震える声も、もうどこにもなかった。
「公爵様。」
控えめなノックとともに、執事のモーゼスが入ってくる。
その老執事は、かつてリディアを屋敷に迎え入れた当人でもあった。
静かにお茶を差し出しながら、何かを言いかけて口を噤んだ。
レオンハルトはそんな彼の気配を察して、目を閉じたまま言葉を発した。
「言いたいことがあるなら言え。」
「……お言葉ですが、あの方をあのように退けられたこと、今もお悔やみになっておられるのでは。」
「違う。」
即座に返った否定の言葉には、少しの迷いも含まれていた。
レオンハルトは自嘲するように唇を歪める。
「俺は、あのとき正しいと思った。……そうするしかなかった。」
「しかし、リディア様は何も――」
「わかっている!」
その叫びが重苦しい沈黙を破った。
彼は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
理性では理解している。誤解だった可能性があることも。
けれど、あの場で誰かの策にはまったと知っていても、もう何も変えられなかった。
「俺が信じなかった。いや、信じようともしなかった。」
天井を仰ぐレオンハルトの瞳に、苦い影が宿る。
リディアを罠に陥れたのは、侯爵令嬢エミリアの甘く巧妙な罠だった。
噂を広げ、「リディアが男爵家の放蕩息子と密会している」と囁いたのも彼女の取り巻きだ。
それを信じたのは、レオンハルト自身――冷徹だと呼ばれる自分の、愚かさゆえだった。
「後で真実を知ったところで、何の意味もない。」
彼は痛みを噛み締めながらそう呟く。
執事はただ静かに頭を下げ、部屋を出ていった。
*
その頃、南部港町では、リディアが商会の新たな支店設立の準備に追われていた。
港の倉庫を視察し、契約書の文面を確認し、夜更けまで灯りを絶やさない。
彼女の勤勉さは評判となり、現地の取引先も信頼を寄せるようになった。
しかし、どれほど忙しくしても、ふとした瞬間に青い瞳の男の影が脳裏をよぎる。
それを無理やり押し込め、再び羽ペンを握る。
「リディアさん、こちらに署名をお願いできますか!」
「ええ、すぐに。」
部下の声に優しく応じながらも、手の震えは止まらなかった。
*
夜。
その書斎の窓から見える港の光が、どこか懐かしさを誘った。
あの人も、似たように夜の帳で仕事をしているのだろうか――そんな考えを振り払うように、リディアは肩をすくめた。
「過去を引きずるなんて、まだ子供ね……」
笑いながら、自分を叱るように呟く。
そのとき、扉がコツンと叩かれた。
警備員かと思い、「どうぞ」と言った次の瞬間、背筋が固まる。
目の前に立っていたのは、見間違えるはずもない男――レオンハルト・グランディール。
「なぜ……ここに。」
声は驚きと警戒の入り混じったものだった。
リディアは立ち上がり、机を挟んで距離を取る。
レオンハルトは深く息を吸い、わずかに頭を下げた。
「今日、取引の関係で視察に来た。君にどうしても伝えたいことがある。」
「取引上の打ち合わせでしたら、明日バルド様が――」
「違う。」
その一言に、リディアの唇が凍りついた。
彼の青い瞳が、逃れようもないほど真剣に彼女を見つめている。
「俺は、君に謝りたい。」
静かな言葉。
だがその一言は、リディアにとってもっとも聞きたくなかったものだった。
彼が差し出す後悔は、彼女の努力でやっと覆い隠した過去を暴き出してしまう。
「謝罪など……もう必要ありません。私はただの商会員です。公爵閣下とは、なんの関係もありません。」
「関係がない? 本当にそう思っているのか?」
レオンハルトの低い声に、心臓が跳ねる。
彼は一歩踏み出し、机に手を置いた。
「俺はあの日、自分の立場と噂ばかりを信じ、君を傷つけた。だが、理由があったわけじゃない。
ただ臆病だったんだ。貴族の名誉という名の鎧に隠れて、君を疑うことで自分を守った。――それが、どんな愚かだったか、ようやく気づいた。」
「……今さらそんなことを言っても、何が変わるのですか。」
リディアの声は震えていた。
それを察した彼は、苦しげに唇を噛んだ。
「変わらない。だが、せめて伝えたかった。君がどれほど立派に生きているか、王都でも噂になっている。誰もが君を尊敬している。俺は、君の……幸せを願っている。」
「それなら、この場を去ってください。」
きっぱりと放たれた言葉に、レオンハルトの視線が揺れた。
しばしの沈黙。
やがて、彼はゆっくりと背を向ける。
扉を開ける手が震えていることを、リディアは見逃さなかった。
「リディア。」
最後に振り返ったとき、その顔には哀しみの影が差していた。
「君は強くなったな。だが――その強さの下に、今もあの笑顔があることを祈っている。」
バタン、と扉が閉まる音が響いた。
残された静寂の中、リディアはその場に崩れ落ちそうになる。
彼女の胸の奥で、何かが溶けていくような感覚。
けれど、泣かなかった。泣けなかった。
むしろ、心のどこかで妙にほっとしている自分に気づいて、苦笑する。
「ああ……また、ずるい人。」
小さく呟いた声が、誰にも聞こえない夜の中に消えた。
そしてその翌日、レオンハルトのもとに一通の報告書が届く。
――バルド商会、リディア・バートンを新支店の責任者に昇格。
その文面を見た瞬間、彼は無意識に微笑んでいた。
「もう俺の庇護など必要ない、か。」
その声には、悔恨よりもどこか誇らしげな響きがあった。
だがその誇りの裏で、彼の中に芽生えたのは、抑えがたい焦燥だった。
――あの手を、やはり離すべきではなかった。
自分の心が、もう一度彼女を求めていることを悟った瞬間でもあった。
続く
0
あなたにおすすめの小説
完結 冗談で済ますつもりでしょうが、そうはいきません。
音爽(ネソウ)
恋愛
王子の幼馴染はいつもわがまま放題。それを放置する。
結婚式でもやらかして私の挙式はメチャクチャに
「ほんの冗談さ」と王子は軽くあしらうが、そこに一人の男性が現れて……
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
悪役令嬢は断罪の舞台で笑う
由香
恋愛
婚約破棄の夜、「悪女」と断罪された侯爵令嬢セレーナ。
しかし涙を流す代わりに、彼女は微笑んだ――「舞台は整いましたわ」と。
聖女と呼ばれる平民の少女ミリア。
だがその奇跡は偽りに満ち、王国全体が虚構に踊らされていた。
追放されたセレーナは、裏社会を動かす商会と密偵網を解放。
冷徹な頭脳で王国を裏から掌握し、真実の舞台へと誘う。
そして戴冠式の夜、黒衣の令嬢が玉座の前に現れる――。
暴かれる真実。崩壊する虚構。
“悪女”の微笑が、すべての終幕を告げる。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
愛を騙るな
篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」
「………」
「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」
王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。
「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」
「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」
「い、いや、それはできぬ」
「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」
「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」
途端、王妃の嘲る笑い声が響く。
「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」
わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい
よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。
王子の答えはこうだった。
「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」
え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?!
思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。
ショックを受けたリリアーナは……。
「お幸せに」と微笑んだ悪役令嬢は、二度と戻らなかった。
パリパリかぷちーの
恋愛
王太子から婚約破棄を告げられたその日、
クラリーチェ=ヴァレンティナは微笑んでこう言った。
「どうか、お幸せに」──そして姿を消した。
完璧すぎる令嬢。誰にも本心を明かさなかった彼女が、
“何も持たずに”去ったその先にあったものとは。
これは誰かのために生きることをやめ、
「私自身の幸せ」を選びなおした、
ひとりの元・悪役令嬢の再生と静かな愛の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる