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第6話 新たな決意――私は逃げない
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海沿いの街、アルステル。
王都から遠く離れたこの場所では、潮風と鐘の音が日常の旋律だった。
港には多国籍の船が並び、耳慣れぬ言葉が飛び交い、香辛料や織布、宝石が取引されている。
リディアはその喧騒の中に立っていた。
高鳴る潮の音が、まるで彼女の新しい人生を歓迎するように響く。
荷物は最小限、心は軽い。
どれほど捨ててきたか、数えることもできない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
全てを失くした代わりに、ようやく手にしたものがある――自分自身の人生だ。
「リディアさん、こちらの倉庫の契約、確認お願いします!」
バルド商会から同行してきた青年が、書類を差し出す。
彼女は素早く目を通し、印章を押す。
「契約条件は問題なし。ただ、初回納品分は半分にして。新しい市場の反応を見てから調整しましょう。」
「了解です!」
青年が走り去っていく。
その背を見送りながら、リディアは無意識に空を見上げた。
眩しい太陽。潮の匂い。遠くに見える群青の水平線。
「……ここから、私はやり直すの。」
小さく呟くその声は、かつて誰かのために生きた令嬢のものではない。
誇り高く、一人で立つ女性の声だった。
*
日が暮れるころ、港の喧騒が静まり、オレンジに染まる空気の中で、リディアは机に向かって帳簿を開いていた。
取引や支出、人員の調整。どれひとつとして楽ではないが、不思議と楽しい。
疲労や不安はあっても、後ろを振り返りたいとは思わなかった。
彼女は自分の世界を、少しずつ、確かな形で作り出していた。
ドアがノックされ、幼い声が響く。
「リディアさん、お客さんが来ました!」
「今夜?この時間に?」
首を傾げながら立ち上がり、店の入口へ向かう。
異国の男たちが立っているのかと思えば、彼女の予想は外れていた。
そこにいたのは、見覚えのある顔。
蜂蜜色の髪に快活な笑みを浮かべた青年――バルド商会の新支店から転属してきたと聞いていたアルバートだ。
王都では彼女の下で事務を学び、その人柄に憧れを抱いていた若き商人の卵だった。
「アルバート?どうしてここへ?」
「上司の命令で、補佐として派遣されました!……それに、リディアさんのお役に立ちたくて。」
勢いの良い声に、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そう。助かるわ。でも、ここは王都みたいな甘い場所じゃないのよ。」
「わかってます!全力で働きます!」
まっすぐな笑顔に、リディアの口元が自然とほころぶ。
いつの間にか、こうして他人の真剣さを受け入れる余裕を取り戻していた。
*
数週間後。
アルステルの市場におけるバルド商会の支店は、短期間で評判を得ていた。
リディアの緻密な経営方針が功を奏し、他国商人たちとの独占契約も次々と成立していく。
その姿は、もはや「婚約破棄された令嬢」ではなく、「辣腕の女性商人」として人々に認識されつつあった。
「バルド商会の“氷の令嬢”か……なるほど、ぴったりの二つ名だな。」
港の片隅で誰かがそう冗談めかして言い、誰かが笑った。
けれど本当の彼女は冷たくなんてない。
ただ、もう誰にも揺らされないだけだ。
*
ある夜。
書類整理を終え、窓辺で紅茶を飲んでいた時、不意に足音が近づいてきた。
ノックの音とともに、扉の向こうからアルバートの声。
「リディアさん、少しお話があります。」
「入って。」
彼は書簡を一通手に持っていた。
その封に刻まれた紋章を見た瞬間、リディアの笑みが凍る。
グランディール家の印章。
「……どうして、ここにそれを?」
「王都の本部から回ってきました。開封許可はあなたにあります。ですが――読まずに僕に処分を命じることもできます。」
静かな沈黙。
リディアはしばし封書を見つめたまま動かない。
やがて小さく息を吐き、「いいえ、読むわ。」と呟いた。
封を切る音。ロウが砕け、手触りのよい羊皮紙が広がる。
そこに記された文字を目で追ううちに、リディアの表情が少しずつ変わっていった。
“私の罪を償うことはできない。だが、あなたが歩む未来のため、南方の交易路を開放する。
君の商会の船が我が家の港を経由することを正式に承認する。
もはや敵対ではなく、協力の証として。
どうかこれからも前を向いてほしい。”
読み終えたあと、手紙を握る指先がわずかに震えた。
怒りではなく、涙でもなく、ただ心が静かに波打っていた。
かつての彼がこんな言葉を綴るなど、想像だにしていなかった。
「……まるで、あの人じゃないみたい。」
低く笑う声には、苦味と懐かしさが混じる。
アルバートが意を決して尋ねた。
「返事、出しますか?」
一瞬の迷いの後、リディアは首を横に振る。
「いいえ。返事はいりません。あの人の優しさを受け取れるほど、私はまだ赦していない。」
「でも――」
「それでも、もう嫌いではないわ。」
小さな微笑がこぼれた。
その笑顔は薄い灯のもとで柔らかく輝く。
未練ではなく、区切りの笑顔。
「アルバート、準備して。明日から新しい海路を視察に行くわ。」
「了解です!」
彼女は立ち上がり、港の方角を見やる。
潮風がカーテンを揺らし、遠くで波の音が響いた。
王都の煌びやかさとは違い、ここには厳しくも誠実な日々がある。
これが今の自分の世界――そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
「私は逃げない。
もう誰の影にも、恐れにも、嘘にも縋らない。」
小さく呟いて、窓を閉めた。
外では次の朝を告げる鐘の音が、ゆっくりと海に溶けていった。
続く
王都から遠く離れたこの場所では、潮風と鐘の音が日常の旋律だった。
港には多国籍の船が並び、耳慣れぬ言葉が飛び交い、香辛料や織布、宝石が取引されている。
リディアはその喧騒の中に立っていた。
高鳴る潮の音が、まるで彼女の新しい人生を歓迎するように響く。
荷物は最小限、心は軽い。
どれほど捨ててきたか、数えることもできない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
全てを失くした代わりに、ようやく手にしたものがある――自分自身の人生だ。
「リディアさん、こちらの倉庫の契約、確認お願いします!」
バルド商会から同行してきた青年が、書類を差し出す。
彼女は素早く目を通し、印章を押す。
「契約条件は問題なし。ただ、初回納品分は半分にして。新しい市場の反応を見てから調整しましょう。」
「了解です!」
青年が走り去っていく。
その背を見送りながら、リディアは無意識に空を見上げた。
眩しい太陽。潮の匂い。遠くに見える群青の水平線。
「……ここから、私はやり直すの。」
小さく呟くその声は、かつて誰かのために生きた令嬢のものではない。
誇り高く、一人で立つ女性の声だった。
*
日が暮れるころ、港の喧騒が静まり、オレンジに染まる空気の中で、リディアは机に向かって帳簿を開いていた。
取引や支出、人員の調整。どれひとつとして楽ではないが、不思議と楽しい。
疲労や不安はあっても、後ろを振り返りたいとは思わなかった。
彼女は自分の世界を、少しずつ、確かな形で作り出していた。
ドアがノックされ、幼い声が響く。
「リディアさん、お客さんが来ました!」
「今夜?この時間に?」
首を傾げながら立ち上がり、店の入口へ向かう。
異国の男たちが立っているのかと思えば、彼女の予想は外れていた。
そこにいたのは、見覚えのある顔。
蜂蜜色の髪に快活な笑みを浮かべた青年――バルド商会の新支店から転属してきたと聞いていたアルバートだ。
王都では彼女の下で事務を学び、その人柄に憧れを抱いていた若き商人の卵だった。
「アルバート?どうしてここへ?」
「上司の命令で、補佐として派遣されました!……それに、リディアさんのお役に立ちたくて。」
勢いの良い声に、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そう。助かるわ。でも、ここは王都みたいな甘い場所じゃないのよ。」
「わかってます!全力で働きます!」
まっすぐな笑顔に、リディアの口元が自然とほころぶ。
いつの間にか、こうして他人の真剣さを受け入れる余裕を取り戻していた。
*
数週間後。
アルステルの市場におけるバルド商会の支店は、短期間で評判を得ていた。
リディアの緻密な経営方針が功を奏し、他国商人たちとの独占契約も次々と成立していく。
その姿は、もはや「婚約破棄された令嬢」ではなく、「辣腕の女性商人」として人々に認識されつつあった。
「バルド商会の“氷の令嬢”か……なるほど、ぴったりの二つ名だな。」
港の片隅で誰かがそう冗談めかして言い、誰かが笑った。
けれど本当の彼女は冷たくなんてない。
ただ、もう誰にも揺らされないだけだ。
*
ある夜。
書類整理を終え、窓辺で紅茶を飲んでいた時、不意に足音が近づいてきた。
ノックの音とともに、扉の向こうからアルバートの声。
「リディアさん、少しお話があります。」
「入って。」
彼は書簡を一通手に持っていた。
その封に刻まれた紋章を見た瞬間、リディアの笑みが凍る。
グランディール家の印章。
「……どうして、ここにそれを?」
「王都の本部から回ってきました。開封許可はあなたにあります。ですが――読まずに僕に処分を命じることもできます。」
静かな沈黙。
リディアはしばし封書を見つめたまま動かない。
やがて小さく息を吐き、「いいえ、読むわ。」と呟いた。
封を切る音。ロウが砕け、手触りのよい羊皮紙が広がる。
そこに記された文字を目で追ううちに、リディアの表情が少しずつ変わっていった。
“私の罪を償うことはできない。だが、あなたが歩む未来のため、南方の交易路を開放する。
君の商会の船が我が家の港を経由することを正式に承認する。
もはや敵対ではなく、協力の証として。
どうかこれからも前を向いてほしい。”
読み終えたあと、手紙を握る指先がわずかに震えた。
怒りではなく、涙でもなく、ただ心が静かに波打っていた。
かつての彼がこんな言葉を綴るなど、想像だにしていなかった。
「……まるで、あの人じゃないみたい。」
低く笑う声には、苦味と懐かしさが混じる。
アルバートが意を決して尋ねた。
「返事、出しますか?」
一瞬の迷いの後、リディアは首を横に振る。
「いいえ。返事はいりません。あの人の優しさを受け取れるほど、私はまだ赦していない。」
「でも――」
「それでも、もう嫌いではないわ。」
小さな微笑がこぼれた。
その笑顔は薄い灯のもとで柔らかく輝く。
未練ではなく、区切りの笑顔。
「アルバート、準備して。明日から新しい海路を視察に行くわ。」
「了解です!」
彼女は立ち上がり、港の方角を見やる。
潮風がカーテンを揺らし、遠くで波の音が響いた。
王都の煌びやかさとは違い、ここには厳しくも誠実な日々がある。
これが今の自分の世界――そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
「私は逃げない。
もう誰の影にも、恐れにも、嘘にも縋らない。」
小さく呟いて、窓を閉めた。
外では次の朝を告げる鐘の音が、ゆっくりと海に溶けていった。
続く
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