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第5話 別れの言葉と、最後の微笑み
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王都を離れた翌朝、リディアは人気のない街道を馬車で進んでいた。
夜会の騒動から一晩も経たぬというのに、もう城下では噂が駆け巡っているはずだ。
冷徹公爵がかつての婚約者を陥れた令嬢を糾弾し、全貴族の前で沈黙を貫いた彼女が潔白であったこと。
その事実は人々の興味を掻き立てる、けれどリディアにとってはただの終焉だった。
「これで、本当に終わったのね。」
窓の外に視線を向け、吐息のように呟く。
冬の名残の風が冷たく、空はまだ色を変えない早朝の灰。
彼女は肩を包むショールを少し引き寄せた。
夜会のあと、宿にも戻らず、荷をまとめてそのまま王都を発った。
バルド商会には手紙を残した。
──自分はこの国を離れたい、と。
どれほど働いても、どこにいても、王都の公爵という影は彼女の背中から離れない。
だったら、いっそ海の向こうへ。貴族の権威も噂も届かない場所で、生まれ直したいとさえ思った。
*
「リディア!」
その声が響いたのは、宿場町を抜けたあたりだった。
馬車が止まり、御者が振り返る。
振り向いた先に、乗馬服姿の男が立っていた。
誰も見間違えようがない。
レオンハルト・グランディール、公爵その人。
「……なぜ、ここに?」
呆然と立ち上がるリディアの瞳に、彼の姿が映る。
夜風に乱れた金の髪。長旅のせいか外套は泥にまみれていたが、それでもその姿は威厳を失っていなかった。
「君が王都を離れたと聞いた。放っておけるわけがない。」
「私の行く道に、あなたが関わる理由はありません。」
「ある。俺が、まだ君に伝えていない言葉がある。」
その言葉に、胸の奥が微かに軋む。
叶うはずのない感情の名残が、まだ身体のどこかに残っている。
けれど、それを表に出すことは許されなかった。
「……あの夜、私を疑い、傷つけたこと。あれで私たちは終わったはずです。謝罪なら、もう受け取りません。」
リディアの声は静かだが、決して柔らかくはなかった。
レオンハルトは苦しげに視線を落とし、それでも一歩近づく。
「違う。あの夜の君を見て……ようやく気づいた。俺は君を失ってようやく、何を持っていたかを理解したんだ。」
「それは後悔でしょう。」
「いや、愛だ。」
その言葉を聞いた瞬間、空気が震えたように感じた。
リディアの指先がわずかに震える。
笑い出したくなる自分と、泣き出したくなる自分が同時に胸の奥でせめぎ合う。
今さら、そんなことを言ってどうするの。
あのとき信じてくれなかった人が、どうして今さら。
「愛していると……言えば、何かが戻ると思っているの?」
低く吐き出した声は、風に消えていった。
「レオンハルト様。あなたの愛がどんなに本物でも、私にはもう必要ありません。信じられなかった瞬間に、すべては終わったんです。」
その表情には涙ひとつ浮かばない。
だが彼女の細い指が握りしめたスカートの裾が、小さく震えていることをレオンハルトは見逃さなかった。
「それでも、君に伝えたかったんだ。君がどれほど遠くへ行こうと、俺は君を心から……」
「言わないで!」
鋭い声が彼の言葉を断ち切った。
リディアの瞳に、ついに涙が光る。
「そんな言葉……一年前に聞きたかった!」
沈黙。風の音だけが残る。
馬の蹄が土を踏む音が遠くに響き、通り過ぎる。
リディアは俯いたまま、息を整えた。
「私はもう誰かの“婚約者”ではなく、一人の人間として歩いていきます。あなたの赦しも、愛も、いらない。」
「リディア……」
「……ありがとうございました。あなたがあの夜、私を突き放したおかげで、私は強くなれました。過去の私を終わらせてくれたのは、あなたなんです。」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、痛いほど美しかった。
それは哀しみでも怒りでもない、ただの別れの顔。
すべてを赦した人間だけが浮かべられる微笑だった。
レオンハルトは一度、言葉を失う。
彼女の前で何一つ言い訳できない自分が、滑稽なほど惨めに思えた。
ただ、静かに彼女の手を取る。
それでも彼女の指は優しくも毅然として、彼の手を振り解いた。
「お元気で、公爵閣下。」
その呼び方が、最後の楔のように胸に刺さる。
リディアは馬車に再び乗り込み、御者に小声で指示をした。
鞭が鳴り、車輪が動き出す。
レオンハルトはただ立ち尽くす。
馬車の後ろ姿が遠ざかっていく。
灰色の空の下、あの牡丹色のドレスの裾のようなカーテンが一瞬風に揺れて、そして完全に見えなくなった。
どれほどその場に立っていたのか、わからない。
ただ、胸の奥に残るのは静かな痛みと、どうしようもない愛情の残響。
彼は空を仰ぎ、低く呟いた。
「さよなら、リディア。」
「――次は、きっと君の笑顔を遠くから祈るだけにしよう。」
*
その後、バルド商会にはひとつの手紙が届いた。
差出人の名は記されていないが、封には見慣れたグランディール家の紋章。
中には簡素な言葉だけが綴られていた。
“彼女の未来を邪魔しない。ただ、どうか見守ってほしい。”
バルドはその文を読んで、苦笑した。
そして外を見上げる。
市場の方から、馬車に乗ったリディアが部下と共に出発していく姿が見えた。
どこへ行くのか、誰も知らない。
だがその背中は迷いなく、まっすぐに前を向いていた。
風が吹き、春を告げる白い花びらがひとひら馬車の窓辺を舞った。
それはまるで、別れの花のように静かに、彼女の髪へ降りた。
続く
夜会の騒動から一晩も経たぬというのに、もう城下では噂が駆け巡っているはずだ。
冷徹公爵がかつての婚約者を陥れた令嬢を糾弾し、全貴族の前で沈黙を貫いた彼女が潔白であったこと。
その事実は人々の興味を掻き立てる、けれどリディアにとってはただの終焉だった。
「これで、本当に終わったのね。」
窓の外に視線を向け、吐息のように呟く。
冬の名残の風が冷たく、空はまだ色を変えない早朝の灰。
彼女は肩を包むショールを少し引き寄せた。
夜会のあと、宿にも戻らず、荷をまとめてそのまま王都を発った。
バルド商会には手紙を残した。
──自分はこの国を離れたい、と。
どれほど働いても、どこにいても、王都の公爵という影は彼女の背中から離れない。
だったら、いっそ海の向こうへ。貴族の権威も噂も届かない場所で、生まれ直したいとさえ思った。
*
「リディア!」
その声が響いたのは、宿場町を抜けたあたりだった。
馬車が止まり、御者が振り返る。
振り向いた先に、乗馬服姿の男が立っていた。
誰も見間違えようがない。
レオンハルト・グランディール、公爵その人。
「……なぜ、ここに?」
呆然と立ち上がるリディアの瞳に、彼の姿が映る。
夜風に乱れた金の髪。長旅のせいか外套は泥にまみれていたが、それでもその姿は威厳を失っていなかった。
「君が王都を離れたと聞いた。放っておけるわけがない。」
「私の行く道に、あなたが関わる理由はありません。」
「ある。俺が、まだ君に伝えていない言葉がある。」
その言葉に、胸の奥が微かに軋む。
叶うはずのない感情の名残が、まだ身体のどこかに残っている。
けれど、それを表に出すことは許されなかった。
「……あの夜、私を疑い、傷つけたこと。あれで私たちは終わったはずです。謝罪なら、もう受け取りません。」
リディアの声は静かだが、決して柔らかくはなかった。
レオンハルトは苦しげに視線を落とし、それでも一歩近づく。
「違う。あの夜の君を見て……ようやく気づいた。俺は君を失ってようやく、何を持っていたかを理解したんだ。」
「それは後悔でしょう。」
「いや、愛だ。」
その言葉を聞いた瞬間、空気が震えたように感じた。
リディアの指先がわずかに震える。
笑い出したくなる自分と、泣き出したくなる自分が同時に胸の奥でせめぎ合う。
今さら、そんなことを言ってどうするの。
あのとき信じてくれなかった人が、どうして今さら。
「愛していると……言えば、何かが戻ると思っているの?」
低く吐き出した声は、風に消えていった。
「レオンハルト様。あなたの愛がどんなに本物でも、私にはもう必要ありません。信じられなかった瞬間に、すべては終わったんです。」
その表情には涙ひとつ浮かばない。
だが彼女の細い指が握りしめたスカートの裾が、小さく震えていることをレオンハルトは見逃さなかった。
「それでも、君に伝えたかったんだ。君がどれほど遠くへ行こうと、俺は君を心から……」
「言わないで!」
鋭い声が彼の言葉を断ち切った。
リディアの瞳に、ついに涙が光る。
「そんな言葉……一年前に聞きたかった!」
沈黙。風の音だけが残る。
馬の蹄が土を踏む音が遠くに響き、通り過ぎる。
リディアは俯いたまま、息を整えた。
「私はもう誰かの“婚約者”ではなく、一人の人間として歩いていきます。あなたの赦しも、愛も、いらない。」
「リディア……」
「……ありがとうございました。あなたがあの夜、私を突き放したおかげで、私は強くなれました。過去の私を終わらせてくれたのは、あなたなんです。」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、痛いほど美しかった。
それは哀しみでも怒りでもない、ただの別れの顔。
すべてを赦した人間だけが浮かべられる微笑だった。
レオンハルトは一度、言葉を失う。
彼女の前で何一つ言い訳できない自分が、滑稽なほど惨めに思えた。
ただ、静かに彼女の手を取る。
それでも彼女の指は優しくも毅然として、彼の手を振り解いた。
「お元気で、公爵閣下。」
その呼び方が、最後の楔のように胸に刺さる。
リディアは馬車に再び乗り込み、御者に小声で指示をした。
鞭が鳴り、車輪が動き出す。
レオンハルトはただ立ち尽くす。
馬車の後ろ姿が遠ざかっていく。
灰色の空の下、あの牡丹色のドレスの裾のようなカーテンが一瞬風に揺れて、そして完全に見えなくなった。
どれほどその場に立っていたのか、わからない。
ただ、胸の奥に残るのは静かな痛みと、どうしようもない愛情の残響。
彼は空を仰ぎ、低く呟いた。
「さよなら、リディア。」
「――次は、きっと君の笑顔を遠くから祈るだけにしよう。」
*
その後、バルド商会にはひとつの手紙が届いた。
差出人の名は記されていないが、封には見慣れたグランディール家の紋章。
中には簡素な言葉だけが綴られていた。
“彼女の未来を邪魔しない。ただ、どうか見守ってほしい。”
バルドはその文を読んで、苦笑した。
そして外を見上げる。
市場の方から、馬車に乗ったリディアが部下と共に出発していく姿が見えた。
どこへ行くのか、誰も知らない。
だがその背中は迷いなく、まっすぐに前を向いていた。
風が吹き、春を告げる白い花びらがひとひら馬車の窓辺を舞った。
それはまるで、別れの花のように静かに、彼女の髪へ降りた。
続く
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