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第1話 婚約破棄の夜
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煌びやかなシャンデリアが、社交界の夜会を眩しく照らしていた。
青い絹のドレスを身にまとった伯爵令嬢リリアナ・フェンリースは、彼の隣で微笑んでいた。彼――エドモンド・クラヴィス侯爵家の嫡男であり、彼女の婚約者。幼い頃から未来を誓い合い、両家の誰もが当然のように二人の結婚を祝福するものだと思っていた。少なくとも、つい数時間前までは。
だが今、その笑顔は崩れ落ちようとしていた。
「リリアナ・フェンリース。俺は――君との婚約を破棄する。」
ざわめきが、音を立てて広がった。
絹の裾がはためき、噂好きの婦人たちの扇が一斉に止まる。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かがクスクスと笑い声を漏らした。
リリアナは一瞬、自分の耳を疑った。
だがエドモンドの眼差しは真剣で、彼の口が次に続ける言葉をはっきりと紡ぐ。
「君の身勝手な行いには、もう我慢できない。俺は新たにベルティナ嬢を未来の伴侶とするつもりだ。」
部屋の空気が凍りついた。
ベルティナ――それは彼女の親友だった。何度もお茶会を共にし、悩みを打ち明け合った少女。まさか、その名がこのような形で出てくるとは思ってもいなかった。
「……どういう、ことですの? エドモンド様」
喉が乾き、声が掠れる。
エドモンドは眉をひそめ、冷ややかな目で見下ろした。
「とぼけるのか。君が社交界で我が家を見下し、ベルティナを侮辱したと、皆が噂している。そんな女性とは、とても結婚できない。」
リリアナは立ち尽くす。
確かに、ベルティナに嫉妬されたことは何度かあった。けれど、それを表立って責めたことなどないはずだった。
「噂、ですの? そんな事実はありませんわ。誰が、そんなことを――」
言いかけたとき、背後で扇を手にした令嬢の集団がざわめいた。
「見苦しい」「あれが伯爵家の娘?」「哀れね」と、侮蔑の囁きが降り注ぐ。
彼女の視線の先、ベルティナは涙を滲ませながら、エドモンドの袖をつまんでいた。
「ああ……やめてください、エドモンド様。わたくしのせいで、リリアナ様が……」
まるで芝居のような仕草。
それを見た瞬間、リリアナの胸の奥で何かが崩れた。
「納得いかないなら、父上に訴えるといい。だが俺の気持ちは変わらない。」
エドモンドはそう言い捨て、ベルティナを伴って背を向ける。
周囲で人々の視線が鋭く交錯し、リリアナ一人を取り残して夜会は再び音楽を再開した。
まるで彼女が、初めから存在しなかったかのように。
*
屋敷へ戻ったリリアナは、誰にも声をかけられなかった。
馬車の揺れの中で、ただ無音の涙が頬を伝う。
エドモンドの言葉が耳から離れない。
「身勝手」「侮辱」「婚約破棄」。
何一つ、身に覚えのない罪状。
なのに、すべてを信じた社交界は、たった一晩で彼女を笑い者に変えた。
「リリアナお嬢様……その……侯爵家から、書状が……」
使用人のナンシーが差し出した封書を受け取る。
その封は乱暴に押され、筆致も荒い。
震える指で開くと、短い一文が目に飛び込んだ。
“フェンリース伯爵家との縁談を、ここに破棄する。以降の一切の交際を禁ずる。”
それは彼の父――侯爵本人の署名だった。
涙が零れ、封筒を握りつぶす音が響いた。
「……わたくしは、何もしていませんのに……」
膝が崩れ落ちた。ドレスの裾が床に広がり、立ち上がる気力さえ湧かない。
いつのまにか侍女たちは部屋に入ってこない。屋敷中に噂が広まり、誰も彼女に関わろうとしない空気が漂っていた。
もう、すべてを失ったのだ。
*
数日後、伯爵家の応接間。
父と母の視線は重く沈んでいた。
「お前の軽率な行いが、家の名誉を傷つけたのだ」と父は冷たく言い放つ。
「今や誰もお前をかばえぬ。しばらく領地に下がり、事が静まるのを待て」と。
「ですが、お父様、わたくしは――」
「言い訳は聞かん!」
その声は、リリアナの最後の拠り所を砕く音だった。
母の目には涙が浮かんでいたが、娘の肩に触れることはなかった。
リリアナは深く礼をし、静かに退室した。
背を向ける瞬間、父の机の上から一枚の新聞が落ちるのが見えた。
見出しにはこうあった。
『ベルティナ嬢、侯爵家次期当主との婚約を正式発表』
ああ、本当に全てを奪われたのだと悟った。
*
その夜、フェンリース領へと続く街道を、一台の馬車が音を立てて走っていた。
車窓の外に広がる夜の街は、まるで遠い別世界のように霞んで見えた。
家の灯はもうない。待つ人もいない。
ただ冷たい風が頬を刺す。
「これでよかったのですわね……」
リリアナは自分に言い聞かせるように呟き、胸に抱えた白い指輪箱を開いた。
そこには、エドモンドから贈られた婚約指輪が光を失って転がっていた。
「どうか……二度と、あの人の前では泣きませんように。」
月明かりが窓から彼女を照らし、銀の瞳に決意の煌めきを宿した。
その瞬間、馬車がふいに止まった。
御者のざらついた声が外から響く。
「申し訳ありません、お嬢様……道の先に他家の馬車が止まっておりまして……」
リリアナは首を傾げ、カーテンをそっと開いた。
街道の中央に、黒い紋章を掲げた重厚な馬車が立ち塞がっている。
その扉が静かに開かれ、黒衣の男が降り立った。
整った顔立ち。闇のような漆黒の髪。
そして、冷たく光る灰色の瞳。
「フェンリース伯爵令嬢、リリアナ殿ですね。」
「……はい。どなた、ですの?」
「私は、アレクシス・ヴァルディウス。ヴァルディウス公爵家の当主です。」
その名を聞いた瞬間、御者が息を呑む。
リリアナの胸にも動揺が走った。社交界でも“冷血公爵”として恐れられる、若き実力者の名だった。
「どうして……わたくしなどに、公爵閣下が?」
アレクシスはゆっくりと歩み寄り、月光の下に立つ。
そして彼女の目をまっすぐに見つめ、静かに言った。
「あなたを迎えに来ました。リリアナ・フェンリース嬢。――どうか、私のもとへ。」
彼女は息をするのも忘れ、ただその言葉を聞いていた。
まるで、運命の針が音を刻む瞬間のように。
夜風の中で、黒衣の公爵と堕ちた令嬢が向かい合う。
その出会いが、やがて二人の未来をまるごと変えていくことを、このときのリリアナはまだ知らなかった。
青い絹のドレスを身にまとった伯爵令嬢リリアナ・フェンリースは、彼の隣で微笑んでいた。彼――エドモンド・クラヴィス侯爵家の嫡男であり、彼女の婚約者。幼い頃から未来を誓い合い、両家の誰もが当然のように二人の結婚を祝福するものだと思っていた。少なくとも、つい数時間前までは。
だが今、その笑顔は崩れ落ちようとしていた。
「リリアナ・フェンリース。俺は――君との婚約を破棄する。」
ざわめきが、音を立てて広がった。
絹の裾がはためき、噂好きの婦人たちの扇が一斉に止まる。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かがクスクスと笑い声を漏らした。
リリアナは一瞬、自分の耳を疑った。
だがエドモンドの眼差しは真剣で、彼の口が次に続ける言葉をはっきりと紡ぐ。
「君の身勝手な行いには、もう我慢できない。俺は新たにベルティナ嬢を未来の伴侶とするつもりだ。」
部屋の空気が凍りついた。
ベルティナ――それは彼女の親友だった。何度もお茶会を共にし、悩みを打ち明け合った少女。まさか、その名がこのような形で出てくるとは思ってもいなかった。
「……どういう、ことですの? エドモンド様」
喉が乾き、声が掠れる。
エドモンドは眉をひそめ、冷ややかな目で見下ろした。
「とぼけるのか。君が社交界で我が家を見下し、ベルティナを侮辱したと、皆が噂している。そんな女性とは、とても結婚できない。」
リリアナは立ち尽くす。
確かに、ベルティナに嫉妬されたことは何度かあった。けれど、それを表立って責めたことなどないはずだった。
「噂、ですの? そんな事実はありませんわ。誰が、そんなことを――」
言いかけたとき、背後で扇を手にした令嬢の集団がざわめいた。
「見苦しい」「あれが伯爵家の娘?」「哀れね」と、侮蔑の囁きが降り注ぐ。
彼女の視線の先、ベルティナは涙を滲ませながら、エドモンドの袖をつまんでいた。
「ああ……やめてください、エドモンド様。わたくしのせいで、リリアナ様が……」
まるで芝居のような仕草。
それを見た瞬間、リリアナの胸の奥で何かが崩れた。
「納得いかないなら、父上に訴えるといい。だが俺の気持ちは変わらない。」
エドモンドはそう言い捨て、ベルティナを伴って背を向ける。
周囲で人々の視線が鋭く交錯し、リリアナ一人を取り残して夜会は再び音楽を再開した。
まるで彼女が、初めから存在しなかったかのように。
*
屋敷へ戻ったリリアナは、誰にも声をかけられなかった。
馬車の揺れの中で、ただ無音の涙が頬を伝う。
エドモンドの言葉が耳から離れない。
「身勝手」「侮辱」「婚約破棄」。
何一つ、身に覚えのない罪状。
なのに、すべてを信じた社交界は、たった一晩で彼女を笑い者に変えた。
「リリアナお嬢様……その……侯爵家から、書状が……」
使用人のナンシーが差し出した封書を受け取る。
その封は乱暴に押され、筆致も荒い。
震える指で開くと、短い一文が目に飛び込んだ。
“フェンリース伯爵家との縁談を、ここに破棄する。以降の一切の交際を禁ずる。”
それは彼の父――侯爵本人の署名だった。
涙が零れ、封筒を握りつぶす音が響いた。
「……わたくしは、何もしていませんのに……」
膝が崩れ落ちた。ドレスの裾が床に広がり、立ち上がる気力さえ湧かない。
いつのまにか侍女たちは部屋に入ってこない。屋敷中に噂が広まり、誰も彼女に関わろうとしない空気が漂っていた。
もう、すべてを失ったのだ。
*
数日後、伯爵家の応接間。
父と母の視線は重く沈んでいた。
「お前の軽率な行いが、家の名誉を傷つけたのだ」と父は冷たく言い放つ。
「今や誰もお前をかばえぬ。しばらく領地に下がり、事が静まるのを待て」と。
「ですが、お父様、わたくしは――」
「言い訳は聞かん!」
その声は、リリアナの最後の拠り所を砕く音だった。
母の目には涙が浮かんでいたが、娘の肩に触れることはなかった。
リリアナは深く礼をし、静かに退室した。
背を向ける瞬間、父の机の上から一枚の新聞が落ちるのが見えた。
見出しにはこうあった。
『ベルティナ嬢、侯爵家次期当主との婚約を正式発表』
ああ、本当に全てを奪われたのだと悟った。
*
その夜、フェンリース領へと続く街道を、一台の馬車が音を立てて走っていた。
車窓の外に広がる夜の街は、まるで遠い別世界のように霞んで見えた。
家の灯はもうない。待つ人もいない。
ただ冷たい風が頬を刺す。
「これでよかったのですわね……」
リリアナは自分に言い聞かせるように呟き、胸に抱えた白い指輪箱を開いた。
そこには、エドモンドから贈られた婚約指輪が光を失って転がっていた。
「どうか……二度と、あの人の前では泣きませんように。」
月明かりが窓から彼女を照らし、銀の瞳に決意の煌めきを宿した。
その瞬間、馬車がふいに止まった。
御者のざらついた声が外から響く。
「申し訳ありません、お嬢様……道の先に他家の馬車が止まっておりまして……」
リリアナは首を傾げ、カーテンをそっと開いた。
街道の中央に、黒い紋章を掲げた重厚な馬車が立ち塞がっている。
その扉が静かに開かれ、黒衣の男が降り立った。
整った顔立ち。闇のような漆黒の髪。
そして、冷たく光る灰色の瞳。
「フェンリース伯爵令嬢、リリアナ殿ですね。」
「……はい。どなた、ですの?」
「私は、アレクシス・ヴァルディウス。ヴァルディウス公爵家の当主です。」
その名を聞いた瞬間、御者が息を呑む。
リリアナの胸にも動揺が走った。社交界でも“冷血公爵”として恐れられる、若き実力者の名だった。
「どうして……わたくしなどに、公爵閣下が?」
アレクシスはゆっくりと歩み寄り、月光の下に立つ。
そして彼女の目をまっすぐに見つめ、静かに言った。
「あなたを迎えに来ました。リリアナ・フェンリース嬢。――どうか、私のもとへ。」
彼女は息をするのも忘れ、ただその言葉を聞いていた。
まるで、運命の針が音を刻む瞬間のように。
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