婚約破棄された伯爵令嬢は冷酷公爵に見初められ、今さら縋る元婚約者に“ざまぁ”を告げる

nacat

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第2話 嘲笑の舞踏会

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アレクシス・ヴァルディウス公爵。その名は社交界の誰もが知るものでありながら、誰も真実の姿を知らない。それほどに彼は謎めき、そして恐れられていた。冷血、無慈悲、感情を持たぬ男——そんな噂がまことしやかに囁かれている。

リリアナは目の前に立つその男を見つめながら、ひとつ呼吸を飲み込んだ。夜風が彼の黒い髪を揺らし、月光が灰のような瞳を照らす。その冷たい光に、不思議と怖さは感じなかった。

「……迎えに来た、とはどういう意味ですの?」

リリアナの声は震えていなかった。すべてを失った後の人間には、もはや失うものはない。その静かな諦めが、彼女の中にわずかな強さを与えていた。

公爵は少し表情を緩め、低く穏やかな声で言った。

「貴女が婚約破棄を受けたという話を聞きました。……いえ、あの晩に社交界で起きた騒動を、私は偶然目にしました。」

「目に……?」

「ええ。あの男——クラヴィス侯爵家の嫡男が貴女を公衆の面前で辱めたあの時、私は階段の上から見ていたのです。」

リリアナの息が止まる。彼の声が夜の静寂を裂くように続いた。

「馬鹿げた芝居でしたね。真実も証拠もなく、噂ひとつで貴女を断罪する。しかも、あの女の泣き真似一つに騙されて。」

彼の灰の瞳に、微かな怒りが宿っているように見えた。その温度差に、リリアナは一瞬戸惑う。冷血公爵と呼ばれる男が、なぜ彼女のためにそんな怒りを見せるのか。

「わたくしに、何のご用ですの……?」

「簡単です。あなたを、公爵領へとお連れしたい。安全な場所で、静かに暮らすといい。」

「……突然そのようなことを言われましても」

リリアナは眉を寄せた。彼の優しさの裏に何か考えがあるのではないかと、自然に警戒してしまう。それでも、公爵の眼差しには打算や欲がひと欠片も感じられなかった。

「とはいえ、信じられるはずもありませんね」とアレクシスは苦笑する。  
「ひとまず同行だけしてくれればいい。君が望めば、すぐにでも自由に帰してやる。」

その言葉に、リリアナの胸の奥で小さな灯がともった。誰も味方してくれなかった世界の中で、彼だけが違った。

——一時の逃避でも構わない。少しだけ、息ができる場所がほしい。

彼女は小さく頷いた。

「……わかりました。お世話になります。」

アレクシスの口元に、微かに安堵の笑みが浮かんだ。



ヴァルディウス公爵領までは、王都から二日ほどの距離があった。馬車が進むたびに、街の灯が遠ざかり、開けた大地と森が広がっていく。霧が流れ、夜明けの光が淡く世界を染めた頃、リリアナは初めて深い眠りから目を覚ました。

窓の外には雄大な山々、白く霞む湖、整然とした街並み。その景観の中心に、公爵邸がそびえていた。黒い石造りの建物は威厳に満ちていて、冷たさよりも静かな気高さがあった。

「ここが……公爵領……」

呟くと、隣の席のアレクシスが静かに微笑む。

「歓迎します、リリアナ嬢。ここには誰も、あなたを笑う者はいません。」

その言葉が、思いがけず胸に沁みた。涙が出そうになるのを、彼女は必死に堪える。  
馬車が止まり、扉が開く。出迎えた執事が恭しく頭を下げた。銀髪の老齢の男性、その動作ひとつでこの家の格が伝わる。

「公爵様、ようこそお戻りくださいました。そして……お客様も。」

「アラン。この方が、しばらく我が屋敷に滞在されるリリアナ・フェンリース嬢だ。」

「承知いたしました。お嬢様、何なりとお申し付けください。」

リリアナは小さく会釈し、玄関をくぐった。  
屋敷の中は想像以上に温かい雰囲気だった。広間には大理石の柱が並び、整然とした美が漂う。だがその一方で、暖炉の火が柔らかく灯り、木の香りが広がっている。

自分を受け入れようとしてくれる空間。たったそれだけのことが、これほど有難く感じられるとは思わなかった。



着替えと休息を勧められた後、リリアナは一人、応接室でお茶を飲んでいた。  
昨日までの悪夢の出来事が、嘘のように静かな時間。  
そんな中で、胸の奥に沈んでいた疑問が再び顔を出す。

——なぜこの公爵は、私を助けたのだろう?

考えれば考えるほど、答えは見つからない。  
権力者が失墜した伯爵家の娘を庇う理由など、どこにもない。

戸惑いの渦を断ち切ったのは、静かな扉の音だった。  
振り返ると、アレクシスが再び部屋に姿を現した。

「休めましたか?」

「ええ……ありがとうございます。」

「よかった。実は、ひとつお願いがあるのです。」

彼は向かいに腰を下ろし、視線を真っ直ぐに合わせる。その表情は柔らかいが、何か決意を含んでいた。

「あなたに、ある舞踏会に同行してほしい。」

「舞踏会……ですの?」

「三日後、王都で伯爵派と公爵派の合同舞踏会が開かれます。そこに私が出席することになっており、正式な婚約者を同伴するのが慣例です。」

リリアナは息を呑む。  
「お、婚約者……?」

「形式上の話です。貴女に恥をかかせることは決してしません。ただ、少しばかり見せつけてやりたい人間がいるだけです。」

「……まさか、クラヴィス侯爵家?」

アレクシスの口角がゆるりと上がった。

「聡明ですね。その通りです。」

沈黙のあと、リリアナはゆっくりと口を開く。

「……わたくしが、あの者たちの前に出るのですか?」

「もし嫌なら、やめましょう。しかし、あなたの名誉を取り戻す機会でもある。」

信じがたいほどにまっすぐな言葉だった。  
嘘も同情も感じられない。  
——ただ、彼は本心でそう言っている。  
なぜなのかはわからない。それでも、その眼差しを疑うことができなかった。

「……わかりました。出席いたします。」

「ありがとう。」  
公爵は短く答えた。それだけで充分だった。



舞踏会の夜。  
会場に入った瞬間、ざわめきが広がった。  
リリアナの姿を見た者たちの目が驚愕に見開かれる。  
数週間前、断罪の夜会で笑い者にされたはずの令嬢が、公爵の隣を歩いているのだ。

彼女のドレスは、アレクシスの命で仕立てられた深紅のシルク。  
白い肌を引き立て、視線を惹きつける。  
その堂々とした立ち姿に、誰もが息を呑んだ。

「見て……フェンリース伯爵令嬢、あれは……!」  
「嘘でしょう?あの令嬢が、今度は公爵の腕を?」

噂は瞬時に広がる。  
だが、彼女はもう怯えなかった。  
隣に立つ公爵の存在が、不思議と背を支えてくれていた。

やがて、会場の奥から見覚えのある声がした。  
「リリアナ……?」

顔を上げると、そこにはかつての婚約者エドモンド。  
その腕には美しく着飾ったベルティナが寄り添っている。  
だが彼の表情は、どこか曇っていた。

「ずいぶん……変わったな。」

「ええ。おかげさまで。」

リリアナは微笑んだ。冷たくも、凛とした笑み。  
その横でアレクシスが軽くリリアナの手を取った。

「ご紹介にあずかろう、クラヴィス侯爵家のご子息。私はヴァルディウス公爵、リリアナの――婚約者だ。」

会場が静まり返る。  
誰もが理解できずに息を呑む中、ベルティナが顔を真っ青にした。

「こ、婚約者……っ!?そ、そんな……!」

アレクシスは淡々と言葉を続ける。  
「そうだ。君たちは知らなかったのか?リリアナ嬢が私の庇護下にあることを。」

完全に面食らったエドモンドは、何も言えずに立ちすくんだ。  
リリアナはその横顔を一瞥し、穏やかに口を開く。

「お気になさらないで、エドモンド様。あなたのおかげで、ようやく自分にふさわしい場所を見つけられましたわ。」

言い終えた瞬間、会場中の視線が一斉に彼女に注がれた。  
誰もが、数日前まで笑い者だった令嬢の堂々たる姿に息を呑んでいた。

音楽が流れ、アレクシスが手を差し出す。  
「次は、私に一曲踊ってもらえますか?」

「喜んで。」

二人が舞踏の輪の中に入ると、人々の囁きがやがて静まり、拍手が起こった。  
赤と黒が夜会を彩り、彼女の新しい人生が、静かに幕を開けた。
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