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第2話 追放の果てに残った誇り
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風がひゅうと吹き抜け、乾いた土の匂いを運んできた。リディアが王国の境を越えてから、すでに十日が過ぎていた。辺境の国境地帯には、雪ではなく乾いた砂混じりの風が吹いていた。見渡す限りの荒野と、遠くに霞む山脈。貴族として生まれ育った彼女にとって、この地はあまりにも厳しく、無慈悲な現実の象徴のように感じられた。
だが、それでもリディアの背筋はまっすぐだった。アシュフォードの名を失っても、彼女は自分の誇りを捨ててはいなかった。王国から唯一持ち出した魔導書を抱えて、彼女は辺境の町アルガナの小さな宿へと歩みを進める。
旅の途中、護送役を買って出た騎士が一人いた。
黒い外套のフードを目深にかぶり、無駄な言葉を発しない青年。名はゼノ。王立騎士団に籍を置いていたらしいが、リディアは詳しくは聞かなかった。彼の瞳は深い灰色をしており、冷たく見えるが、不思議と真っすぐだった。
「ここまででよろしいのですか。」
小さな町を前に、ゼノが問う。
リディアは頷いた。
「ええ。あとは自分でどうにかいたしますわ。」
「……辺境には、貴族が身を置ける場所などない。」
「私はもう貴族ではありません。追放者ですもの。」
彼女は穏やかに笑う。だがその笑みの奥にある硬い決意を、ゼノは見逃さなかった。
「本当に、後悔しておられないのですか。あの王太子を──信じたことを。」
リディアは少しだけ目を伏せた。荒んだ風が金の髪を舞い上げる。
「後悔は、していません。ただ……もう、信じることは二度としませんわ。」
その答えに、ゼノは何も言えずに黙り込んだ。リディアが宿屋の扉を開けると、外の光に照らされた彼の横顔が一瞬だけ哀しげに揺れた。それが彼女との別れの瞬間になることを、どちらも理解していた。
アルガナの宿は、木造の古びた建物で、清潔とは言い難かった。しかし暖炉に火が灯り、優しい匂いのスープが煮込まれていた。宿の女将は気のいい中年の女性で、リディアの姿を見るなり目を丸くした。
「まあ、こんな綺麗なお嬢さんが一人で。盗賊に狙われたらどうするのさ。泊まっていきな。」
「ありがとうございます。身分証は……ただの旅人としてで構いませんわ。」
「旅人?まあ、いいけどね。」
市場で手に入れた安いマントを羽織り、リディアは名前を「リナ」と名乗った。それが偽名としての最初の名前になった。リディア・アシュフォードという名を捨てた瞬間、彼女の中で何かがすっと溶けていくような気がした。
夜、宿の部屋でランプを灯し、古い机の上に魔導書を広げる。王国では禁術とされていた古代言語の詠唱。彼女は幼いころから魔法理論に秀でていた。だが今、その才能をどう使うかは彼女自身の意志に委ねられている。
「私は罪人。けれど、真実を知る力があるなら、それはきっと誰かを守るために使うべきもの……」
そう呟きながら、リディアは古代文献を指でなぞる。すると、魔導書がほのかに青白く光を放った。
「……反応、した?」
息をのんだ瞬間、ランプの炎が揺れ、窓の外で風が鳴った。彼女の手のひらに紋様のような光が浮かび上がる。まるで契約の印のように、淡く脈打ちながら消えていった。
次の瞬間、ドアを叩く音。
リディアが身構えると、扉の向こうから女将の声がした。
「リナさん、大丈夫かい?いま、なんだか光が……」
「ええ、大丈夫です。少し魔道具の調整をしていただけですわ。」
女将は首をかしげつつも、それ以上は追及しなかった。
ひとり残された部屋で、リディアはそっと拳を握る。
──私は死なない。この程度の追放では終わらせない。
翌朝、町の広場には物乞いや旅商人が集まっていた。リディアは市場の露店で立ち止まり、ひとりの老人の魔道具屋を覗き込む。
「すごいね嬢ちゃん、魔法の流れを見抜けるのかい?」
「ええ。回路の紋が欠けていますね。だから動かないのです。」
小さな道具を手早く直すと、光石が再び輝きを放った。老人は目を丸くし、そして笑った。
「これはびっくりだ。魔導師様じゃないか。どこの出だい?」
「ただの旅の修理屋ですわ。」
リディアは微笑みながら、わずかな報酬を受け取る。彼女はこの日から街の片隅で、生計のため魔道具の修理屋を始めた。高貴な手に傷が増え、指先が煤けても、彼女の瞳はくすまなかった。
数か月が経ち、リディアの名前は「優れた魔道具技師リナ」として辺境の中では有名になっていた。気難しい職人たちも一目置き、困窮者にも分け隔てなく仕事を請け負う彼女のもとには、人々が次第に集うようになっていった。
彼女の過去を知る者はいない。だが、真摯で気高いその姿に、人々は自然と敬意を抱いた。
そんなある夜、町に流れ者の傭兵隊が現れた。金で仕事を請け負う粗暴な連中。その中には魔導技術を狙って辺境を荒らす者も多かった。
彼らが飲み屋で暴れる音が夜空に響く中、ふとリディアの店にも足音が近づいた。
「おい、リナとかいう魔導師はここか。魔道具の核を作れるらしいじゃねえか。」
粗野な声に、リディアは静かに振り返る。
「申し訳ありません。もう休業ですわ。」
「冗談言うな。金なら出す。」
男が机を乱暴に叩く。見知らぬ町で、誰もが見て見ぬふりをする中、リディアの表情は凪いだ湖のように静かだった。
「金で買えるのは物だけです。誇りは売り物ではありません。」
その一言に、男の顔が歪む。手を上げかけた瞬間、外から声が響いた。
「やめろ、ロザーク!」
現れたのは、かつて見送った騎士ゼノだった。彼の剣が鞘ごと相手の腕を制し、わずかな間に傭兵たちは逃げ出した。
驚くリディアを見て、ゼノは息を整えながら言った。
「貴女がここで噂になっていると聞いた。『金髪の女魔導師が、人を救う光を使う』と。」
「噂など、辺境の風が運んだ幻ですわ。」
「幻にしては、美しすぎる。」
静かな声。リディアの胸が、わずかに波打つのを感じた。
ゼノは王国を離れ、放浪の身になっていた。かつて守るべき主君に失望したのだという。
「……おまえの断罪の日、俺は何も言えなかった。守るべき人を見捨てた自分に耐えきれなかった。」
「もう過去ですわ。誰でも間違うものです。」
「それでも、償いたい。せめて、お前がもう二度と傷つかぬように。」
夜風が二人の間を抜けた。リディアはしばらく黙り、やがて小さく首を振る。
「私を守る必要はありません。私はもう、誰にも壊されないから。」
そう告げる彼女の瞳には確かに炎が宿っていた。
王城で奪われた誇り。偽りの断罪。
そのすべてを糧にするように、リディアは静かに自らの力を磨いていく。
ゼノはただその背を見つめ、言葉なく剣の柄を握った。
月が高く昇り、アルガナの街の屋根が銀に光る。
リディアは窓辺で、時折空を見上げた。どんなに遠く離れても、あの王国の塔が見えない夜を選びたいと思っていた。
それでも、あの断罪の言葉は耳から離れない。
「リディア・アシュフォード、お前を婚約破棄とする」──。
「今に見ていますわ、殿下。」
小さく呟く声は、夜風に紛れて消える。
「わたくしを切り捨てたその報い、いずれあなた自身の手で思い知ることになるでしょう。」
その決意だけが、彼女の心を支えていた。燃えるような誇りが、再び彼女を立たせていた。
過酷な辺境の空の下、リディア──いや、リナはひとり目を閉じ、静かに眠りについた。
遠く、王都を覆う雲の切れ間に、一筋の光が射した。
(第2話 追放の果てに残った誇り 終)
だが、それでもリディアの背筋はまっすぐだった。アシュフォードの名を失っても、彼女は自分の誇りを捨ててはいなかった。王国から唯一持ち出した魔導書を抱えて、彼女は辺境の町アルガナの小さな宿へと歩みを進める。
旅の途中、護送役を買って出た騎士が一人いた。
黒い外套のフードを目深にかぶり、無駄な言葉を発しない青年。名はゼノ。王立騎士団に籍を置いていたらしいが、リディアは詳しくは聞かなかった。彼の瞳は深い灰色をしており、冷たく見えるが、不思議と真っすぐだった。
「ここまででよろしいのですか。」
小さな町を前に、ゼノが問う。
リディアは頷いた。
「ええ。あとは自分でどうにかいたしますわ。」
「……辺境には、貴族が身を置ける場所などない。」
「私はもう貴族ではありません。追放者ですもの。」
彼女は穏やかに笑う。だがその笑みの奥にある硬い決意を、ゼノは見逃さなかった。
「本当に、後悔しておられないのですか。あの王太子を──信じたことを。」
リディアは少しだけ目を伏せた。荒んだ風が金の髪を舞い上げる。
「後悔は、していません。ただ……もう、信じることは二度としませんわ。」
その答えに、ゼノは何も言えずに黙り込んだ。リディアが宿屋の扉を開けると、外の光に照らされた彼の横顔が一瞬だけ哀しげに揺れた。それが彼女との別れの瞬間になることを、どちらも理解していた。
アルガナの宿は、木造の古びた建物で、清潔とは言い難かった。しかし暖炉に火が灯り、優しい匂いのスープが煮込まれていた。宿の女将は気のいい中年の女性で、リディアの姿を見るなり目を丸くした。
「まあ、こんな綺麗なお嬢さんが一人で。盗賊に狙われたらどうするのさ。泊まっていきな。」
「ありがとうございます。身分証は……ただの旅人としてで構いませんわ。」
「旅人?まあ、いいけどね。」
市場で手に入れた安いマントを羽織り、リディアは名前を「リナ」と名乗った。それが偽名としての最初の名前になった。リディア・アシュフォードという名を捨てた瞬間、彼女の中で何かがすっと溶けていくような気がした。
夜、宿の部屋でランプを灯し、古い机の上に魔導書を広げる。王国では禁術とされていた古代言語の詠唱。彼女は幼いころから魔法理論に秀でていた。だが今、その才能をどう使うかは彼女自身の意志に委ねられている。
「私は罪人。けれど、真実を知る力があるなら、それはきっと誰かを守るために使うべきもの……」
そう呟きながら、リディアは古代文献を指でなぞる。すると、魔導書がほのかに青白く光を放った。
「……反応、した?」
息をのんだ瞬間、ランプの炎が揺れ、窓の外で風が鳴った。彼女の手のひらに紋様のような光が浮かび上がる。まるで契約の印のように、淡く脈打ちながら消えていった。
次の瞬間、ドアを叩く音。
リディアが身構えると、扉の向こうから女将の声がした。
「リナさん、大丈夫かい?いま、なんだか光が……」
「ええ、大丈夫です。少し魔道具の調整をしていただけですわ。」
女将は首をかしげつつも、それ以上は追及しなかった。
ひとり残された部屋で、リディアはそっと拳を握る。
──私は死なない。この程度の追放では終わらせない。
翌朝、町の広場には物乞いや旅商人が集まっていた。リディアは市場の露店で立ち止まり、ひとりの老人の魔道具屋を覗き込む。
「すごいね嬢ちゃん、魔法の流れを見抜けるのかい?」
「ええ。回路の紋が欠けていますね。だから動かないのです。」
小さな道具を手早く直すと、光石が再び輝きを放った。老人は目を丸くし、そして笑った。
「これはびっくりだ。魔導師様じゃないか。どこの出だい?」
「ただの旅の修理屋ですわ。」
リディアは微笑みながら、わずかな報酬を受け取る。彼女はこの日から街の片隅で、生計のため魔道具の修理屋を始めた。高貴な手に傷が増え、指先が煤けても、彼女の瞳はくすまなかった。
数か月が経ち、リディアの名前は「優れた魔道具技師リナ」として辺境の中では有名になっていた。気難しい職人たちも一目置き、困窮者にも分け隔てなく仕事を請け負う彼女のもとには、人々が次第に集うようになっていった。
彼女の過去を知る者はいない。だが、真摯で気高いその姿に、人々は自然と敬意を抱いた。
そんなある夜、町に流れ者の傭兵隊が現れた。金で仕事を請け負う粗暴な連中。その中には魔導技術を狙って辺境を荒らす者も多かった。
彼らが飲み屋で暴れる音が夜空に響く中、ふとリディアの店にも足音が近づいた。
「おい、リナとかいう魔導師はここか。魔道具の核を作れるらしいじゃねえか。」
粗野な声に、リディアは静かに振り返る。
「申し訳ありません。もう休業ですわ。」
「冗談言うな。金なら出す。」
男が机を乱暴に叩く。見知らぬ町で、誰もが見て見ぬふりをする中、リディアの表情は凪いだ湖のように静かだった。
「金で買えるのは物だけです。誇りは売り物ではありません。」
その一言に、男の顔が歪む。手を上げかけた瞬間、外から声が響いた。
「やめろ、ロザーク!」
現れたのは、かつて見送った騎士ゼノだった。彼の剣が鞘ごと相手の腕を制し、わずかな間に傭兵たちは逃げ出した。
驚くリディアを見て、ゼノは息を整えながら言った。
「貴女がここで噂になっていると聞いた。『金髪の女魔導師が、人を救う光を使う』と。」
「噂など、辺境の風が運んだ幻ですわ。」
「幻にしては、美しすぎる。」
静かな声。リディアの胸が、わずかに波打つのを感じた。
ゼノは王国を離れ、放浪の身になっていた。かつて守るべき主君に失望したのだという。
「……おまえの断罪の日、俺は何も言えなかった。守るべき人を見捨てた自分に耐えきれなかった。」
「もう過去ですわ。誰でも間違うものです。」
「それでも、償いたい。せめて、お前がもう二度と傷つかぬように。」
夜風が二人の間を抜けた。リディアはしばらく黙り、やがて小さく首を振る。
「私を守る必要はありません。私はもう、誰にも壊されないから。」
そう告げる彼女の瞳には確かに炎が宿っていた。
王城で奪われた誇り。偽りの断罪。
そのすべてを糧にするように、リディアは静かに自らの力を磨いていく。
ゼノはただその背を見つめ、言葉なく剣の柄を握った。
月が高く昇り、アルガナの街の屋根が銀に光る。
リディアは窓辺で、時折空を見上げた。どんなに遠く離れても、あの王国の塔が見えない夜を選びたいと思っていた。
それでも、あの断罪の言葉は耳から離れない。
「リディア・アシュフォード、お前を婚約破棄とする」──。
「今に見ていますわ、殿下。」
小さく呟く声は、夜風に紛れて消える。
「わたくしを切り捨てたその報い、いずれあなた自身の手で思い知ることになるでしょう。」
その決意だけが、彼女の心を支えていた。燃えるような誇りが、再び彼女を立たせていた。
過酷な辺境の空の下、リディア──いや、リナはひとり目を閉じ、静かに眠りについた。
遠く、王都を覆う雲の切れ間に、一筋の光が射した。
(第2話 追放の果てに残った誇り 終)
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