婚約破棄されたので公爵令嬢やめます〜私を見下した殿下と元婚約者が膝をつく頃、愛を囁くのは冷酷公爵でした〜

nacat

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第3話 涙のかわりに微笑みを

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エルシャルトの地に入った翌朝、リリアナは冷たい風に頬を撫でられながら、馬車の窓を開けた。  
見渡す限りの雪景色。王都の喧騒とは違い、この場所には静けさがあった。  
山々が白く輝き、遠くの森には薄い霧がかかっている。  
厳しい冬の大地。それでもどこか、張りつめた心を洗うような清冽さがあった。

「エルシャルト公爵邸までは、あと半刻ほどでございますよ。」  
老御者の声にリリアナは頷き、小さく微笑んだ。  
ここが、これからの彼女の新しい居場所になる――その実感がまだ掴めない。  
名門アーデルハイト家の令嬢から一転、今は行き場を失った身。  
けれど、逃げてきたのではないと、自分に言い聞かせたかった。

「やり直すのよ……私は。」

鳥の鳴き声にかき消されたその囁きに、リリアナ自身が少し驚く。  
声に出せば、ほんの僅かでも心に火が灯る気がした。

***

公爵邸の門は、雪に覆われながらも威厳を保っていた。  
黒鉄の装飾が施された重厚な門扉。その奥には、冬の光を反射するような白い大理石の建物がそびえている。  
厳格な美しさ――まさしくこの地の主を表すような姿だった。

「まさか、公爵邸に滞在を許されるなんて……。」  
リリアナは小さく息を整えた。  
父の旧友というだけで、こんな恩恵を与えられるとは思っていなかったのだ。  
使者からの手紙には、“一時的な滞在の許可”としか書かれていなかったが、それでも十分だった。

門番の兵士に案内され、彼女は玄関ホールへ通された。  
磨き抜かれた御影石の床。高い天井。  
しかし、豪奢というよりは、研ぎ澄まされているという印象だ。  
絢爛さではなく、無駄のない静けさが支配している。

やがて、足音が響く。  
現れたのは、灰色の髪に穏やかな笑みを浮かべた初老の執事だった。  
「お初にお目にかかります、リリアナ様。私は執事長のロイと申します。公爵閣下に代わり、お迎えさせていただきました。」

「こちらこそ、お世話になります。ご迷惑をおかけいたします……。」

リリアナが頭を下げると、ロイは優しく微笑んだ。  
「いいえ。どうかお気になさらず。閣下は本日お戻りが遅れるとのことで、まずはお部屋をご案内いたします。」

公爵閣下――その名が心の中で響いた瞬間、リリアナの胸が妙にざわついた。  
もしかして、あの昨夜の男が……?  
いや、まさかそんな偶然があるはずもない。  
そう思いながらも、リリアナの足取りはほんの少しだけぎこちなかった。

通された部屋は、淡いクリーム色の壁に大きな窓が設えられた、落ち着いた空間だった。  
暖炉の火が燃え、外の寒気を遮っている。  
「短い滞在になるでしょうが、ごゆっくりお休みくださいませ。お食事はお部屋までお持ちいたします。」

リリアナは丁寧に礼を言い、ロイが部屋を出ると、ようやく深く息を吐いた。

この場所の空気は不思議だった。  
厳しい寒さのなかにあるのに、どこか安心できる温度。  
圧倒されるほどの静寂なのに、孤独を感じない。  
リリアナは窓辺に立ち、外の光に手を伸ばした。  

「……きれい。」

凍てつく空気の向こうに、雪原がきらきらと輝いている。  
王都では決して見られない、世界の静謐な美しさ。  
ふと、瞼の裏に浮かんだのは、あの夜の銀の瞳だった。  
あの人も、この空気のように冷たく、美しかった。

(もし、もう一度会ったら――何を話せばいいのかしら。)

けれど願いは、案外すぐに叶うのだった。

***

「……おや、これは。」

扉の音に顔を上げると、そこに立っていたのは他ならぬ、昨夜の男だった。  
黒の外套を脱ぎ、今は深緑の軍服をまとっている。  
その胸には、公爵家の紋章が輝いていた。

「君か。……ずいぶん偶然だな。」

低い声が響く。  
リリアナは息を飲んだ。間違いない、この瞳――鋭い銀の光を宿した目。  
「昨夜の……! あの、助けていただいた宿での……!」

「宿の女将から聞いた。君が今日ここに来ると。どうやら命の恩人に、正式に挨拶ができそうだな。」

男は軽く口元をゆがめた。冗談のようでいて、その声音には柔らかい響きがない。  
リリアナは緊張を隠せずに一礼した。

「リリアナ・フォン・アーデルハイトと申します。このたびは……お世話になります。」

「セドリック・エルシャルト。ここの主だ。」

頭が真っ白になった。  
冷徹公爵――そう呼ばれる人物の名を、何度も耳にしていた。  
彼が、この人なのだ。

「おどろいたか?」

「え、ええ……昨夜お会いしたときは、まさか……。」

「人は見かけによらんということだ。」

表情は冷ややかなのに、どこか皮肉を含む声音だった。  
リリアナは動揺しながらも、礼を崩さぬように言葉を探した。

「改めて、助けていただきありがとうございました。」

セドリックはわずかに肩をすくめ、視線を窓へと向けた。  
「たまたま通りかかっただけだ。礼などいらない。ああいう輩は、この辺りでは珍しくもない。」

「それでも……命を救われたのです。感謝しています。」

その言葉に、セドリックは一瞬だけ目を細めた。  
静かな空気が流れる。リリアナの瞳が、真っ直ぐに彼を見つめていた。

「……君は、王都の令嬢らしからぬな。」

「?」

「普通はもっと、虚勢を張るか、泣き言を言うものだ。だが君は違う。……面白い。」

セドリックはくるりと踵を返し、扉の方へ歩いた。  
「体を休めろ。気候に慣れるまでは無理をしない方がいい。」

そう言い残して出ていこうとするその背中に、リリアナは声をかけた。  
「公爵様。」

「なんだ。」

「私……もう誰も信じたくないと思っていました。でも、あなたに会って……少しだけ、救われた気がします。」

わずかな沈黙のあと、セドリックは静かに振り向く。  
冷たい光の中に、ほんの一瞬、柔らかい影が浮かんだ。

「……そう思うなら、せいぜい強く生きろ。」

その言葉だけを残して、彼は去っていった。  
扉が閉じる音がやけに静かに響く。  
リリアナは胸に手を当て、息を吸い込んだ。

(強く、生きる……私にも、できるでしょうか。)

暖炉の火が、明るく燃える。  
彼の言葉が、凍りついた心の奥をわずかに温めていた。  
目を閉じ、リリアナは小さく微笑んだ。涙は、もう出なかった。

続く
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