婚約破棄されたので公爵令嬢やめます〜私を見下した殿下と元婚約者が膝をつく頃、愛を囁くのは冷酷公爵でした〜

nacat

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第16話 初めての口づけ

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夜の帳が落ち、エルシャルトの屋敷に静寂が訪れていた。  
外では風が唸り、窓に雪が叩きつけられている。  
まるで世界そのものが凍りついてしまったかのような、冷たい夜だった。  

その中で、リリアナは暖炉の前に座っていた。  
膝の上には分厚い本。けれど文字は目に入らない。  
頭の中にはただ、彼――セドリックの姿ばかりが浮かんでいた。  

廊下で見た、疲れを滲ませた背中。  
王都の使者を前に、誰よりも誇り高く立っていた姿。  
そして、あの夜に口にした言葉。  

――お前が俺の傍にいる限り、俺は戦える。  

思い出すたびに胸が灼けるように熱くなった。  
その想いが何なのか、今ならもうわかっていた。  
だが、それを自分の口で認めることが怖い。  

「私は……何を望んでいるんだろう。」  
自問する声が、火のはぜる音に掻き消された。  

彼のように強くはなれない。  
それでも、彼の隣にいる資格がほしかった。  

***

やがてドアの向こうからノックの音。  
「入れ。」  
何気なく許可の声を出すと、ドアが静かに開く。  
立っていたのはセドリックだった。  

「こんな時間にすまない。」  
「いえ……眠れなくて、暖を取っていたところです。」  

彼は暖炉の光を背にゆっくりと部屋へ入る。  
その影が長く伸び、リリアナの足元に重なる。  

「さっき、伝令が来た。」  
「王都からですか?」  
「いいや。北の関所の部隊からだ。偵察兵が戻り、王太子配下の動きが確認された。おそらく、春を待たずしてこの地に来るつもりだ。」  

リリアナの指が震える。  
「戦……に、なるのですか?」  
「そうさせはしない。」  
短く答えるその声は冷たく堅い。  
けれどその奥には、何よりも深い覚悟があった。  

「俺がいる限り、この領は、君は――誰にも奪わせない。」  

そのまま沈黙。  
暖炉の炎の音が微かに響く。  

セドリックが一歩、近づいた。  
リリアナの鼓動が早くなる。  
これまで彼に向けてきた感情が、抑えられずに溢れてしまいそうだった。  

「……顔色が悪いな。」  
「大丈夫です。少し緊張しているだけ……。」  
「緊張?」  
「もし本当に戦になったら、私にできることなどないから……。」  

その言葉に、セドリックは少しだけ眉を寄せた。  
彼女の手を取り、掌を包み込む。  
「お前は、自分を卑下しすぎる。」  
「でも事実ですわ。私は何も――」  
「君がいるだけで、俺の心は静まる。それが、何よりの力になっている。」  

耳を疑った。  
彼の声はいつになく穏やかで、火の温度よりも柔らかかった。  

「……そんな言葉、ずるいです。」  
「ずるい?」  
「だって……そんな風に言われたら、離れられなくなってしまう。」  

勇気を振り絞って口にした途端、胸の奥が熱くなった。  
セドリックの視線が、彼女を捉える。  
その目は、いつもの冷徹な光を完全に失っていた。  

「……離れたいと思うのか。」  
「思えません。」  
「なら、それでいい。」  

次の瞬間、彼の腕が伸び、彼女を静かに抱き寄せた。  

リリアナの頭が彼の胸に触れる。  
鼓動の音が聞こえた。  
戦場でさえ乱れぬはずの心臓の鼓動が、確かに彼の胸で高鳴っていた。  

「ずっと……誰かを守るばかりだった。  
感情を持てば、それが弱さになると信じていた。  
けれど、お前と出会って初めて思った。――守りたいと思うことは、弱さじゃない。」  

その言葉が胸に深く沈む。  
リリアナは震える手で彼の服の裾を掴んだ。  

「公爵様……。」  
「セドリック、と呼べ。」  
「……せ、セドリック様。」  
「様はいらない。」  
「で、でも――」  
「リリアナ。」  

低く、名前を呼ぶ声。  
世界の音が止まったようだった。  

彼の手が頬に触れ、指先が髪をすくう。  
細い指が耳の後ろをなぞり、顎先を軽く持ち上げた。  

「……少し、目を閉じていろ。」  
「え?」  

その意味を理解した瞬間、息が止まる。  
唇が触れた。  

それは、触れるだけの優しい口づけ。  
雪よりも冷たく、けれど燃えるように熱い。  
短い瞬間のはずなのに、永遠に感じるほど長かった。  

リリアナは目を閉じたまま、涙がひとつ零れるのを感じた。  
それは悲しみの涙ではなかった。  

唇が離れると、セドリックが静かに囁いた。  
「……これでようやく、伝えられた気がする。」  
「伝えた……?」  
「言葉では言えなかった。だが、俺は――」  
彼はそこで言葉を止めた。  
代わりに、リリアナの手の甲にそっと唇を触れさせる。  

その仕草は誓いのようで、美しく、哀しいほどに優しかった。  

「俺の生き方は、これで変わる。  
今まで“国のため”に剣を振るってきたが、もう違う。  
――これからは“君のため”に戦う。」  

その宣言を聞きながら、リリアナは何も言えなかった。  
ただ彼を見つめ、胸の奥で熱く燃えるものを感じる。  
怖かったのは、恋ではない。  
彼と同じ場所に立ちたいという、強い願いそのものだった。  

「セドリック……私も、貴方の隣を歩ける人になりたい。」  
小さく呟いた言葉に、彼の瞳が一瞬だけ柔らかく光る。  

「そばにいろ。どんな運命でも構わない。  
――この手は決して離さない。」  

その声に、心が解けていく。  
リリアナは頷き、彼の胸に顔を埋めた。  

暖炉の炎が静かに揺らめく。  
外の雪はまだ降り続けているのに、この部屋だけは春のように温かかった。  

けれど、この温もりを知った夜こそが、  
次の嵐を呼ぶ予兆であることを、二人はまだ知らなかった。  

続く
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