16 / 28
第16話 初めての口づけ
しおりを挟む
夜の帳が落ち、エルシャルトの屋敷に静寂が訪れていた。
外では風が唸り、窓に雪が叩きつけられている。
まるで世界そのものが凍りついてしまったかのような、冷たい夜だった。
その中で、リリアナは暖炉の前に座っていた。
膝の上には分厚い本。けれど文字は目に入らない。
頭の中にはただ、彼――セドリックの姿ばかりが浮かんでいた。
廊下で見た、疲れを滲ませた背中。
王都の使者を前に、誰よりも誇り高く立っていた姿。
そして、あの夜に口にした言葉。
――お前が俺の傍にいる限り、俺は戦える。
思い出すたびに胸が灼けるように熱くなった。
その想いが何なのか、今ならもうわかっていた。
だが、それを自分の口で認めることが怖い。
「私は……何を望んでいるんだろう。」
自問する声が、火のはぜる音に掻き消された。
彼のように強くはなれない。
それでも、彼の隣にいる資格がほしかった。
***
やがてドアの向こうからノックの音。
「入れ。」
何気なく許可の声を出すと、ドアが静かに開く。
立っていたのはセドリックだった。
「こんな時間にすまない。」
「いえ……眠れなくて、暖を取っていたところです。」
彼は暖炉の光を背にゆっくりと部屋へ入る。
その影が長く伸び、リリアナの足元に重なる。
「さっき、伝令が来た。」
「王都からですか?」
「いいや。北の関所の部隊からだ。偵察兵が戻り、王太子配下の動きが確認された。おそらく、春を待たずしてこの地に来るつもりだ。」
リリアナの指が震える。
「戦……に、なるのですか?」
「そうさせはしない。」
短く答えるその声は冷たく堅い。
けれどその奥には、何よりも深い覚悟があった。
「俺がいる限り、この領は、君は――誰にも奪わせない。」
そのまま沈黙。
暖炉の炎の音が微かに響く。
セドリックが一歩、近づいた。
リリアナの鼓動が早くなる。
これまで彼に向けてきた感情が、抑えられずに溢れてしまいそうだった。
「……顔色が悪いな。」
「大丈夫です。少し緊張しているだけ……。」
「緊張?」
「もし本当に戦になったら、私にできることなどないから……。」
その言葉に、セドリックは少しだけ眉を寄せた。
彼女の手を取り、掌を包み込む。
「お前は、自分を卑下しすぎる。」
「でも事実ですわ。私は何も――」
「君がいるだけで、俺の心は静まる。それが、何よりの力になっている。」
耳を疑った。
彼の声はいつになく穏やかで、火の温度よりも柔らかかった。
「……そんな言葉、ずるいです。」
「ずるい?」
「だって……そんな風に言われたら、離れられなくなってしまう。」
勇気を振り絞って口にした途端、胸の奥が熱くなった。
セドリックの視線が、彼女を捉える。
その目は、いつもの冷徹な光を完全に失っていた。
「……離れたいと思うのか。」
「思えません。」
「なら、それでいい。」
次の瞬間、彼の腕が伸び、彼女を静かに抱き寄せた。
リリアナの頭が彼の胸に触れる。
鼓動の音が聞こえた。
戦場でさえ乱れぬはずの心臓の鼓動が、確かに彼の胸で高鳴っていた。
「ずっと……誰かを守るばかりだった。
感情を持てば、それが弱さになると信じていた。
けれど、お前と出会って初めて思った。――守りたいと思うことは、弱さじゃない。」
その言葉が胸に深く沈む。
リリアナは震える手で彼の服の裾を掴んだ。
「公爵様……。」
「セドリック、と呼べ。」
「……せ、セドリック様。」
「様はいらない。」
「で、でも――」
「リリアナ。」
低く、名前を呼ぶ声。
世界の音が止まったようだった。
彼の手が頬に触れ、指先が髪をすくう。
細い指が耳の後ろをなぞり、顎先を軽く持ち上げた。
「……少し、目を閉じていろ。」
「え?」
その意味を理解した瞬間、息が止まる。
唇が触れた。
それは、触れるだけの優しい口づけ。
雪よりも冷たく、けれど燃えるように熱い。
短い瞬間のはずなのに、永遠に感じるほど長かった。
リリアナは目を閉じたまま、涙がひとつ零れるのを感じた。
それは悲しみの涙ではなかった。
唇が離れると、セドリックが静かに囁いた。
「……これでようやく、伝えられた気がする。」
「伝えた……?」
「言葉では言えなかった。だが、俺は――」
彼はそこで言葉を止めた。
代わりに、リリアナの手の甲にそっと唇を触れさせる。
その仕草は誓いのようで、美しく、哀しいほどに優しかった。
「俺の生き方は、これで変わる。
今まで“国のため”に剣を振るってきたが、もう違う。
――これからは“君のため”に戦う。」
その宣言を聞きながら、リリアナは何も言えなかった。
ただ彼を見つめ、胸の奥で熱く燃えるものを感じる。
怖かったのは、恋ではない。
彼と同じ場所に立ちたいという、強い願いそのものだった。
「セドリック……私も、貴方の隣を歩ける人になりたい。」
小さく呟いた言葉に、彼の瞳が一瞬だけ柔らかく光る。
「そばにいろ。どんな運命でも構わない。
――この手は決して離さない。」
その声に、心が解けていく。
リリアナは頷き、彼の胸に顔を埋めた。
暖炉の炎が静かに揺らめく。
外の雪はまだ降り続けているのに、この部屋だけは春のように温かかった。
けれど、この温もりを知った夜こそが、
次の嵐を呼ぶ予兆であることを、二人はまだ知らなかった。
続く
外では風が唸り、窓に雪が叩きつけられている。
まるで世界そのものが凍りついてしまったかのような、冷たい夜だった。
その中で、リリアナは暖炉の前に座っていた。
膝の上には分厚い本。けれど文字は目に入らない。
頭の中にはただ、彼――セドリックの姿ばかりが浮かんでいた。
廊下で見た、疲れを滲ませた背中。
王都の使者を前に、誰よりも誇り高く立っていた姿。
そして、あの夜に口にした言葉。
――お前が俺の傍にいる限り、俺は戦える。
思い出すたびに胸が灼けるように熱くなった。
その想いが何なのか、今ならもうわかっていた。
だが、それを自分の口で認めることが怖い。
「私は……何を望んでいるんだろう。」
自問する声が、火のはぜる音に掻き消された。
彼のように強くはなれない。
それでも、彼の隣にいる資格がほしかった。
***
やがてドアの向こうからノックの音。
「入れ。」
何気なく許可の声を出すと、ドアが静かに開く。
立っていたのはセドリックだった。
「こんな時間にすまない。」
「いえ……眠れなくて、暖を取っていたところです。」
彼は暖炉の光を背にゆっくりと部屋へ入る。
その影が長く伸び、リリアナの足元に重なる。
「さっき、伝令が来た。」
「王都からですか?」
「いいや。北の関所の部隊からだ。偵察兵が戻り、王太子配下の動きが確認された。おそらく、春を待たずしてこの地に来るつもりだ。」
リリアナの指が震える。
「戦……に、なるのですか?」
「そうさせはしない。」
短く答えるその声は冷たく堅い。
けれどその奥には、何よりも深い覚悟があった。
「俺がいる限り、この領は、君は――誰にも奪わせない。」
そのまま沈黙。
暖炉の炎の音が微かに響く。
セドリックが一歩、近づいた。
リリアナの鼓動が早くなる。
これまで彼に向けてきた感情が、抑えられずに溢れてしまいそうだった。
「……顔色が悪いな。」
「大丈夫です。少し緊張しているだけ……。」
「緊張?」
「もし本当に戦になったら、私にできることなどないから……。」
その言葉に、セドリックは少しだけ眉を寄せた。
彼女の手を取り、掌を包み込む。
「お前は、自分を卑下しすぎる。」
「でも事実ですわ。私は何も――」
「君がいるだけで、俺の心は静まる。それが、何よりの力になっている。」
耳を疑った。
彼の声はいつになく穏やかで、火の温度よりも柔らかかった。
「……そんな言葉、ずるいです。」
「ずるい?」
「だって……そんな風に言われたら、離れられなくなってしまう。」
勇気を振り絞って口にした途端、胸の奥が熱くなった。
セドリックの視線が、彼女を捉える。
その目は、いつもの冷徹な光を完全に失っていた。
「……離れたいと思うのか。」
「思えません。」
「なら、それでいい。」
次の瞬間、彼の腕が伸び、彼女を静かに抱き寄せた。
リリアナの頭が彼の胸に触れる。
鼓動の音が聞こえた。
戦場でさえ乱れぬはずの心臓の鼓動が、確かに彼の胸で高鳴っていた。
「ずっと……誰かを守るばかりだった。
感情を持てば、それが弱さになると信じていた。
けれど、お前と出会って初めて思った。――守りたいと思うことは、弱さじゃない。」
その言葉が胸に深く沈む。
リリアナは震える手で彼の服の裾を掴んだ。
「公爵様……。」
「セドリック、と呼べ。」
「……せ、セドリック様。」
「様はいらない。」
「で、でも――」
「リリアナ。」
低く、名前を呼ぶ声。
世界の音が止まったようだった。
彼の手が頬に触れ、指先が髪をすくう。
細い指が耳の後ろをなぞり、顎先を軽く持ち上げた。
「……少し、目を閉じていろ。」
「え?」
その意味を理解した瞬間、息が止まる。
唇が触れた。
それは、触れるだけの優しい口づけ。
雪よりも冷たく、けれど燃えるように熱い。
短い瞬間のはずなのに、永遠に感じるほど長かった。
リリアナは目を閉じたまま、涙がひとつ零れるのを感じた。
それは悲しみの涙ではなかった。
唇が離れると、セドリックが静かに囁いた。
「……これでようやく、伝えられた気がする。」
「伝えた……?」
「言葉では言えなかった。だが、俺は――」
彼はそこで言葉を止めた。
代わりに、リリアナの手の甲にそっと唇を触れさせる。
その仕草は誓いのようで、美しく、哀しいほどに優しかった。
「俺の生き方は、これで変わる。
今まで“国のため”に剣を振るってきたが、もう違う。
――これからは“君のため”に戦う。」
その宣言を聞きながら、リリアナは何も言えなかった。
ただ彼を見つめ、胸の奥で熱く燃えるものを感じる。
怖かったのは、恋ではない。
彼と同じ場所に立ちたいという、強い願いそのものだった。
「セドリック……私も、貴方の隣を歩ける人になりたい。」
小さく呟いた言葉に、彼の瞳が一瞬だけ柔らかく光る。
「そばにいろ。どんな運命でも構わない。
――この手は決して離さない。」
その声に、心が解けていく。
リリアナは頷き、彼の胸に顔を埋めた。
暖炉の炎が静かに揺らめく。
外の雪はまだ降り続けているのに、この部屋だけは春のように温かかった。
けれど、この温もりを知った夜こそが、
次の嵐を呼ぶ予兆であることを、二人はまだ知らなかった。
続く
191
あなたにおすすめの小説
婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました
ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」
大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。
けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。
王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。
婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。
だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。
婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?
ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。
目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。
──あら、デジャヴ?
「……なるほど」
氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜
sika
恋愛
社交界で「氷の令嬢」と呼ばれた侯爵令嬢リディア。
王太子アーヴィンとの婚約を誠実に守ってきたのに、彼はリディアを「冷たい女」と断罪し、卑しい伯爵令嬢に乗り換えた。
婚約を破棄されたリディアは、静かに微笑みながら王城を去る――その強さに誰も気づかぬまま。
だが、彼女の背後には別の男の影があった。寡黙で冷徹と噂される隣国の公爵、アレン・ヴァルディール。
傷ついた令嬢と孤高の公爵、運命の出会いが新たな恋とざまぁの幕を開ける。
これは、裏切られた令嬢が真実の愛で満たされていく溺愛成長ストーリー。
そして最後に笑うのは、いつだって冷静な彼女――氷の令嬢だ。
頑張らない政略結婚
ひろか
恋愛
「これは政略結婚だ。私は君を愛することはないし、触れる気もない」
結婚式の直前、夫となるセルシオ様からの言葉です。
好きにしろと、君も愛人をつくれと。君も、もって言いましたわ。
ええ、好きにしますわ、私も愛する人を想い続けますわ!
五話完結、毎日更新
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)
元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!
sika
恋愛
幼い頃から完璧な淑女として育てられたクロエは、心から想っていた婚約者に「君の努力は重い」と一言で婚約破棄を突きつけられる。
絶望の淵に立たされた彼女だったが、ある夜、偶然出会った温かな笑みの青年──実は身分を隠した王太子であるノエルと運命的な出会いを果たす。
新たな居場所で才能を咲かせ、彼の隣で花開くクロエ。だが元婚約者が後悔と嫉妬を滲ませ再び現れたとき──彼女は毅然と微笑む。
「貴方の愛を乞われるほど、私の人生は安くありませんわ」
これは、見放された令嬢が愛と誇りを手にする逆転劇。そして、誰より彼女を溺愛する王太子の物語。
『婚約もしていないのに婚約破棄ですか? 〜岩塩で殴れば目が覚めます?〜』
しおしお
恋愛
「岩を売る田舎娘と婚約?そんなもの破棄だ!」
――そう言い放ったのは、まだ婚約すら成立していないのに“婚約破棄”を宣言した内陸王国の王太子。
塩は海から来るもの。
白く精製された粉こそ本物。
岩塩など不純物の塊に過ぎない。
そう思い込んだ彼は、ハライト公国公爵令嬢ヴィエリチカを侮辱し、交易を軽んじた。
だが――
王都に届くその“白い粉”は、すべてハライト産の岩塩から精製されたものだった。
供給が止まった瞬間、王国は気づく。
塩は保存であり、兵站であり、治療であり、冬越しの生命線であったことを。
謝罪の席で提示された条件はただ一つ。
民への販売価格は据え置き。
だが国家は十倍で買い取ること。
誇りを守るために契約を受け入れた王太子。
守られたのは民。
削られたのは国家。
やがて赤字は膨らみ、担保は差し出され、王国は静かに編入されていく。
処刑はない。
復讐もない。
あるのは――帰結。
「塩は、穢れを流すためのものです」
笑顔で告げるヴィエリチカと、
王宮衛生管理局へ配属された元王太子。
これは、岩塩を侮った物語の、静かな終着点。
---
もしアルファポリス向けにもう少し軽くする版も欲しければ、作ります。
それとも、
・タグもまとめる?
・もっと煽る版にする?
・文学寄りにする?
どの方向で仕上げますか?
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる