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第18話 王太子の焦り
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王都はざわついていた。
長らく沈黙を貫いていた北方の公爵領が、ついに王命に従わない姿勢を見せた――その報が入ったからだ。
それは衝撃だった。エルシャルト家が公然と王家に対し抗うなど、誰も想像したことがなかった。
宮殿の正面広場には各新聞社の使者が集まり、使いの軍馬がひっきりなしに出入りしている。
「王家に反旗を翻した公爵!」
「王太子の元婚約者を匿う冷血な貴族!」
そんな見出しが、風に舞う落ち葉のように飛び交っていた。
その渦中で、王太子アルベルトは、玉座の間に設けられた私室に籠もっていた。
袖口を強く握り、何度も同じ書簡を読み返す。
――“我が庇護下にある者を侵す者には、王であろうと剣を抜く”
銀の印章。エルシャルト家の雪狼の紋。
その冷たい文面が、まるで目の前の男の声そのもののように、アルベルトの鼓膜に焼きついた。
「……セドリック・エルシャルト。」
低く名前を呼ぶ。
かつて軍の訓練場で共に剣を交えた友であり、同時に――絶対に越えられなかった壁だった男。
忠誠も愛も、力も、誇りも。
あらゆる面で、彼は“真の王”のように周囲から敬われていた。
その存在を羨んだことを、アルベルトは一度や二度ではなかった。
「なぜいつもお前なんだ……。」
喉の奥からしぼり出すように吐き出す。
リリアナも、王都を追われた今、エルシャルトに庇護されている。
それがただの噂であるならまだいい。だが、使者が持ち帰った報告には確かに“彼女は公爵邸に暮らしている”と記されていた。
「信じられぬ。……いや、信じたくない。」
掌に力がこもる。
書簡の端が破れ、乾いた音で紙片が床に落ちた。
“あいつが……リリアナを――”
想像した瞬間、胸に黒い炎が走る。
それが嫉妬だと気づくのに、時間はかからなかった。
彼女を思い出すたび、失った感情が疼く。
冷たく見えて、内には燃えるような芯を持つ瞳。
己を信じてくれた優しい笑顔。
そして、最後まで自分を責めなかった姿。
あれほどの女を――二度と手に入らぬものを――他の誰かが抱いている。
それだけで理性が崩れそうだった。
「フェリシアを呼べ。」
傍らに控えていた侍従が目を丸くする。
「殿下、今、お部屋のお入りになられたばかりで……」
「構わん。今すぐだ。」
侍従が慌てて走り去る。
アルベルトは立ち上がり、窓の外に視線を向けた。
遠く、王立広場では吹雪のように噂が舞っている。
“王家が敗北するのではないか”“エルシャルトは独立を図る気だ”。
そのどれもが彼の誇りを傷つけた。
自分が立っているこの地位が、いかに脆いものかを突きつけられている気がした。
***
間もなく扉が開き、フェリシアが入ってくる。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、かつてよりもやつれて見えた。
「殿下、お呼びでしょうか。」
「ここに来い。」
言葉短く告げる声に、フェリシアは一瞬怯える。
だが、微笑を作りながら歩み寄った。
「リリアナの件だ。」
その名を出された瞬間、彼女の手がわずかに震えた。
「エルシャルト公爵が、彼女を匿っていると?」
「あ、あの……それは確かでは……」
「確かだ。」
机の上の書簡を叩きつけるように放る。
フェリシアの唇が蒼ざめた。
「王都を追放された女が、よりにもよってあの冷血公爵に守られるとは。……笑える話だな。」
「殿下……。」
「お前は知っていたのではないか。」
「知るはずが――!」
「まだ彼女を監視させていたのだろう?」
フェリシアは息を呑む。
そのわずかな沈黙が、すべての肯定になった。
アルベルトの眼が、冷たく細められる。
「フェリシア。お前は俺の婚約者だ。だが、俺の知らぬところで動くなど、許されることではない。」
「わ、私はただ……あなたに不名誉な噂が立たぬように……!」
「嘘だ!」
怒声が響いた。
フェリシアは身を竦める。
「お前は知りたいのだろう? “俺がまだリリアナを想っているのか”と。」
フェリシアの青ざめた頬に血の気が戻らない。
「な、何を……!」
「だが、俺自身も分からないんだ。」
苛立ちを抱えたまま、彼は胸に手を当てた。
「思い出すたびに、後悔が俺を刺す。
王妃に相応しいのはお前のような女のはずだった。それなのに――どうしてだ。」
「殿下……それは……!」
フェリシアが涙を流す。
だが、その涙を見ても、アルベルトの心は凍ったままだった。
「もう行け。」
「殿下!」
「顔も見たくない。お前を責めているわけではない。だが、今は誰にも会いたくない。」
フェリシアは言葉を失い、静かに部屋を去った。
扉が閉じたあとも、香水の匂いだけが部屋に残る。
***
夜が更けた。
アルベルトは机に突っ伏し、目を閉じた。
頭の中には、あの日の光景が焼きついている。
貴族の前で、誇り高い声で告げた“婚約破棄の宣言”。
怯えるどころか、微笑を保ったまま彼に「いつかこの日の意味を」と言ったリリアナ。
(あの笑顔を、俺はどうして壊したんだ……。)
胸の奥から鈍い痛みが漏れる。
心がぎしぎしと軋む。
そのうち、それは焦りへと変わった。
――彼女が幸せそうに笑っていたら?
――あの公爵に寄り添い、微笑んでいたら?
考えるだけで息苦しかった。
「俺は……彼女に会わねばならない。」
誰にというわけではなく、独りつぶやく。
「このままでは終われない。」
机の引き出しを開け、封蝋を取り出した。
赤い蝋が杖の先で溶け、ひとつの印が押される。
それは、外交使節の命令書。
名目上は「国境警備の査察」という建前だが、実際は――自ら北へ赴くための通達だった。
『エルシャルト領へ。
王家の名のもとに、王太子直々の査問を行う。』
その文字を書き上げながら、アルベルトは自分の心がもはや理性ではなく、焦燥と執着に支配されていることを自覚していた。
「彼女が……何を思っているのか、この目で確かめる。」
筆を置き、燃えるような眼差しで北方の地図を見つめた。
雪に覆われたその領地の名を、唇でなぞる。
エルシャルト――リリアナを奪い返すか、すべてを失うか。
その選択が、すでに自分の手の中にあることを、彼はまだ知らなかった。
続く
長らく沈黙を貫いていた北方の公爵領が、ついに王命に従わない姿勢を見せた――その報が入ったからだ。
それは衝撃だった。エルシャルト家が公然と王家に対し抗うなど、誰も想像したことがなかった。
宮殿の正面広場には各新聞社の使者が集まり、使いの軍馬がひっきりなしに出入りしている。
「王家に反旗を翻した公爵!」
「王太子の元婚約者を匿う冷血な貴族!」
そんな見出しが、風に舞う落ち葉のように飛び交っていた。
その渦中で、王太子アルベルトは、玉座の間に設けられた私室に籠もっていた。
袖口を強く握り、何度も同じ書簡を読み返す。
――“我が庇護下にある者を侵す者には、王であろうと剣を抜く”
銀の印章。エルシャルト家の雪狼の紋。
その冷たい文面が、まるで目の前の男の声そのもののように、アルベルトの鼓膜に焼きついた。
「……セドリック・エルシャルト。」
低く名前を呼ぶ。
かつて軍の訓練場で共に剣を交えた友であり、同時に――絶対に越えられなかった壁だった男。
忠誠も愛も、力も、誇りも。
あらゆる面で、彼は“真の王”のように周囲から敬われていた。
その存在を羨んだことを、アルベルトは一度や二度ではなかった。
「なぜいつもお前なんだ……。」
喉の奥からしぼり出すように吐き出す。
リリアナも、王都を追われた今、エルシャルトに庇護されている。
それがただの噂であるならまだいい。だが、使者が持ち帰った報告には確かに“彼女は公爵邸に暮らしている”と記されていた。
「信じられぬ。……いや、信じたくない。」
掌に力がこもる。
書簡の端が破れ、乾いた音で紙片が床に落ちた。
“あいつが……リリアナを――”
想像した瞬間、胸に黒い炎が走る。
それが嫉妬だと気づくのに、時間はかからなかった。
彼女を思い出すたび、失った感情が疼く。
冷たく見えて、内には燃えるような芯を持つ瞳。
己を信じてくれた優しい笑顔。
そして、最後まで自分を責めなかった姿。
あれほどの女を――二度と手に入らぬものを――他の誰かが抱いている。
それだけで理性が崩れそうだった。
「フェリシアを呼べ。」
傍らに控えていた侍従が目を丸くする。
「殿下、今、お部屋のお入りになられたばかりで……」
「構わん。今すぐだ。」
侍従が慌てて走り去る。
アルベルトは立ち上がり、窓の外に視線を向けた。
遠く、王立広場では吹雪のように噂が舞っている。
“王家が敗北するのではないか”“エルシャルトは独立を図る気だ”。
そのどれもが彼の誇りを傷つけた。
自分が立っているこの地位が、いかに脆いものかを突きつけられている気がした。
***
間もなく扉が開き、フェリシアが入ってくる。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、かつてよりもやつれて見えた。
「殿下、お呼びでしょうか。」
「ここに来い。」
言葉短く告げる声に、フェリシアは一瞬怯える。
だが、微笑を作りながら歩み寄った。
「リリアナの件だ。」
その名を出された瞬間、彼女の手がわずかに震えた。
「エルシャルト公爵が、彼女を匿っていると?」
「あ、あの……それは確かでは……」
「確かだ。」
机の上の書簡を叩きつけるように放る。
フェリシアの唇が蒼ざめた。
「王都を追放された女が、よりにもよってあの冷血公爵に守られるとは。……笑える話だな。」
「殿下……。」
「お前は知っていたのではないか。」
「知るはずが――!」
「まだ彼女を監視させていたのだろう?」
フェリシアは息を呑む。
そのわずかな沈黙が、すべての肯定になった。
アルベルトの眼が、冷たく細められる。
「フェリシア。お前は俺の婚約者だ。だが、俺の知らぬところで動くなど、許されることではない。」
「わ、私はただ……あなたに不名誉な噂が立たぬように……!」
「嘘だ!」
怒声が響いた。
フェリシアは身を竦める。
「お前は知りたいのだろう? “俺がまだリリアナを想っているのか”と。」
フェリシアの青ざめた頬に血の気が戻らない。
「な、何を……!」
「だが、俺自身も分からないんだ。」
苛立ちを抱えたまま、彼は胸に手を当てた。
「思い出すたびに、後悔が俺を刺す。
王妃に相応しいのはお前のような女のはずだった。それなのに――どうしてだ。」
「殿下……それは……!」
フェリシアが涙を流す。
だが、その涙を見ても、アルベルトの心は凍ったままだった。
「もう行け。」
「殿下!」
「顔も見たくない。お前を責めているわけではない。だが、今は誰にも会いたくない。」
フェリシアは言葉を失い、静かに部屋を去った。
扉が閉じたあとも、香水の匂いだけが部屋に残る。
***
夜が更けた。
アルベルトは机に突っ伏し、目を閉じた。
頭の中には、あの日の光景が焼きついている。
貴族の前で、誇り高い声で告げた“婚約破棄の宣言”。
怯えるどころか、微笑を保ったまま彼に「いつかこの日の意味を」と言ったリリアナ。
(あの笑顔を、俺はどうして壊したんだ……。)
胸の奥から鈍い痛みが漏れる。
心がぎしぎしと軋む。
そのうち、それは焦りへと変わった。
――彼女が幸せそうに笑っていたら?
――あの公爵に寄り添い、微笑んでいたら?
考えるだけで息苦しかった。
「俺は……彼女に会わねばならない。」
誰にというわけではなく、独りつぶやく。
「このままでは終われない。」
机の引き出しを開け、封蝋を取り出した。
赤い蝋が杖の先で溶け、ひとつの印が押される。
それは、外交使節の命令書。
名目上は「国境警備の査察」という建前だが、実際は――自ら北へ赴くための通達だった。
『エルシャルト領へ。
王家の名のもとに、王太子直々の査問を行う。』
その文字を書き上げながら、アルベルトは自分の心がもはや理性ではなく、焦燥と執着に支配されていることを自覚していた。
「彼女が……何を思っているのか、この目で確かめる。」
筆を置き、燃えるような眼差しで北方の地図を見つめた。
雪に覆われたその領地の名を、唇でなぞる。
エルシャルト――リリアナを奪い返すか、すべてを失うか。
その選択が、すでに自分の手の中にあることを、彼はまだ知らなかった。
続く
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