8 / 10
第8話 あなたの護る価値があると言われて
しおりを挟む
黒い馬車が通り過ぎたという知らせから二日。
王都へ向かう道中の空はどこまでも低く、嵐の前のように風がざわめいていた。
リリアーナを乗せた馬車は峠道を進んでいたが、遠方に小さな町の灯が見え始めたころ、御者が不意に手綱を強く引いた。
「どうした?」アランが窓を開け、外をうかがう。
「……道をふさいでおります。荷馬車が横転して。」
アランの表情が一瞬で変わった。「不自然だな。」
リリアーナも身を乗り出して見ると、雪道の先に荷馬車が倒れ、数人の男たちが荷を抱えて立っている。旅人にしては装いが荒く、背負う荷の形も妙に整っていた。
「アラン様……」
「座っていろ。何があっても外に出るな。」
アランは扉を開けて外へ出た。
灰色の外套の裾を雪が打つ。くすんだ空の下で、彼の姿は剣のように鋭く見えた。
男の一人が前に出て嘲笑する。
「宰相殿ともあろうお方が、こんな雪道にとは。ずいぶんとご苦労なこった。」
「道を塞ぐ理由は?」
「ただの事故でさぁ。けどまあ――通るのにひと仕事、ってやつで。」
アランの瞳が冷たく光る。「その“ひと仕事”の報酬は王太子からか?」
男の顔がひきつる。「な、なんの話を――」
その瞬間、アランの体が動いた。
外套の下から抜かれた短剣が雪の反射を浴び、風を切る音が響く。
一瞬で、男の手から刃物が弾き飛ばされた。
「貴様ら、素性を明かせ。今なら許す。」
「ふざけんな!」
残りの三人が一斉に飛びかかる。雪の上で音だけが鋭く交錯した。
アランの動きは見えないほど速く、男たちは次々と倒れた。剣の振りよりも、冷たい声の方が残酷に響いた。
「生きて帰りたければ、王都に戻るな。王太子の名を借りて罪を重ねれば、次は命ごと斬る。」
リリアーナは馬車の中で両手を胸に当て、無意識に祈るようにしていた。
外の気配が静まると、アランが扉を開ける。
袖口から雪が滴り落ちているが、眉一つ動かしていない。
「……ケガは?」
「ありません。でも、アラン様こそ……!」
「かすり傷だ。問題ない。」
いつもの無表情で座席に戻り、手袋を外して短剣を拭った。だが、リリアーナにはわかった。彼の手の甲がかすかに血で濡れている。
「その手……!やはりケガをされています!」
「放っておけ。大したことはない。」
「放ってなどおけません!」
リリアーナは急いで薬草包を開き、彼の手を取って布を巻いた。
その細い指が震えていたのは、寒さのせいか、それとも恐怖のせいか。
アランは黙っていたが、やがてため息のような声で言った。
「……君は不思議な人だな。」
「どうしてですか?」
「人は私を『氷』と呼ぶ。血の一滴にも心を動かさないと言う。なのに君は、そんな私の手を迷わず取る。」
「氷は冷たいけれど、触れなければ温められません。だから、私は怖くないんです。」
アランがその言葉に一瞬だけ微笑んだ。
「……もし君が他の誰かだったら、今ので落ちていたかもしれない。」
「でも、わたしは他の誰かではありません。」
「……そうだな。」
ふたりの間に沈黙が落ちた。だけどその沈黙は温かく、外の雪の音さえ優しく感じられた。
峠を越えてしばらく進むと、遠くに小さな教会が見えてきた。
急ごしらえの避難所のようでもあり、馬たちを休ませるには格好の場所だった。
「ここで一晩明かす。」
「はい。」
教会の中は人の気配がなく、古い木の香りがした。
リリアーナは暖を取るため、火を灯した燭台を持って祭壇の前に寄る。
アランは扉の前に腰を下ろし、外を警戒していた。
「ずっと戦ってこられたんですね。」
「……そうだな。仕える王のため、国のため、理のために。」
「それでもなお、誰かを守ろうとするのは、なぜですか。」
アランは腕を組み、少し目を閉じた。
「守る価値のある存在を、自ら選びたいと思うようになったからだ。」
「守る価値、ですか。」
「ああ。たとえば、君のようにな。」
思いも寄らない言葉に、リリアーナの胸が跳ねた。
「わたし……?」
「君は、王都で全てを奪われても、誰も恨まず、自分を責めもせず、ただ前に進もうとした。その姿を見たとき、私は――護る価値があると思った。」
息が止まった。周囲の空気が揺れる。
「……そんなふうに言ってくださるなんて。」
「感情ではない。判断だ。」
「それでも構いません。わたしは嬉しいです。」
リリアーナが微笑むと、アランの瞳がかすかに揺れた。
「……君は危険だな。」
「危険?」
「心を溶かす、という意味でだ。」
そう言いながらも視線を逸らし、彼は外の風に耳を傾けた。
夜が更ける。
焚かれた火が静かに弾け、影が壁を揺らしていた。
リリアーナは眠れず、寝袋の中で目を開けていた。
隣にはアランが背を向けて座っている。
ずっと守るように、入り口を監視したまま微動だにしない。
「……眠らないのですか。」
「寝れば、君を守れない。」
「そんなに張り詰めていては、倒れてしまいます。」
「この身は、誰かを守るためにある。倒れるわけがない。」
リリアーナはその言葉に胸が痛んだ。彼がどれほど自分を犠牲にしてきたのか、少しだけ理解できる気がした。
「アラン様。」
「何だ。」
「わたしも……誰かの役に立ちたいです。守られるばかりではなく、支える側になりたい。」
アランは少しだけ振り向いた。火の光が彼の横顔を照らす。
「それが、君の望みか。」
「はい。あなたに守る価値があると思ってもらえたなら、今度はわたしが証明します。」
静寂。だが、そのあとわずかに笑う声が聞こえた。
「……君にそう言われるのは悪くない。」
その言葉の余韻の中で、リリアーナはまぶたを閉じた。
しばらくすると、アランの足音が近づき、彼の外套がそっと肩にかけられる。
「おやすみ。ここは安全だ。」
遠くで風が雪を撫でている。その音を聞きながら、リリアーナは穏やかに眠りへ落ちていった。
外では、空を切り裂くようにまた一台の黒い馬車が丘を越えていた。
その行き先は、アランとリリアーナが向かう王都――運命の渦の中心。
彼らの知らぬところで、すでに新しい一幕の幕が上がりかけていた。
(続く)
王都へ向かう道中の空はどこまでも低く、嵐の前のように風がざわめいていた。
リリアーナを乗せた馬車は峠道を進んでいたが、遠方に小さな町の灯が見え始めたころ、御者が不意に手綱を強く引いた。
「どうした?」アランが窓を開け、外をうかがう。
「……道をふさいでおります。荷馬車が横転して。」
アランの表情が一瞬で変わった。「不自然だな。」
リリアーナも身を乗り出して見ると、雪道の先に荷馬車が倒れ、数人の男たちが荷を抱えて立っている。旅人にしては装いが荒く、背負う荷の形も妙に整っていた。
「アラン様……」
「座っていろ。何があっても外に出るな。」
アランは扉を開けて外へ出た。
灰色の外套の裾を雪が打つ。くすんだ空の下で、彼の姿は剣のように鋭く見えた。
男の一人が前に出て嘲笑する。
「宰相殿ともあろうお方が、こんな雪道にとは。ずいぶんとご苦労なこった。」
「道を塞ぐ理由は?」
「ただの事故でさぁ。けどまあ――通るのにひと仕事、ってやつで。」
アランの瞳が冷たく光る。「その“ひと仕事”の報酬は王太子からか?」
男の顔がひきつる。「な、なんの話を――」
その瞬間、アランの体が動いた。
外套の下から抜かれた短剣が雪の反射を浴び、風を切る音が響く。
一瞬で、男の手から刃物が弾き飛ばされた。
「貴様ら、素性を明かせ。今なら許す。」
「ふざけんな!」
残りの三人が一斉に飛びかかる。雪の上で音だけが鋭く交錯した。
アランの動きは見えないほど速く、男たちは次々と倒れた。剣の振りよりも、冷たい声の方が残酷に響いた。
「生きて帰りたければ、王都に戻るな。王太子の名を借りて罪を重ねれば、次は命ごと斬る。」
リリアーナは馬車の中で両手を胸に当て、無意識に祈るようにしていた。
外の気配が静まると、アランが扉を開ける。
袖口から雪が滴り落ちているが、眉一つ動かしていない。
「……ケガは?」
「ありません。でも、アラン様こそ……!」
「かすり傷だ。問題ない。」
いつもの無表情で座席に戻り、手袋を外して短剣を拭った。だが、リリアーナにはわかった。彼の手の甲がかすかに血で濡れている。
「その手……!やはりケガをされています!」
「放っておけ。大したことはない。」
「放ってなどおけません!」
リリアーナは急いで薬草包を開き、彼の手を取って布を巻いた。
その細い指が震えていたのは、寒さのせいか、それとも恐怖のせいか。
アランは黙っていたが、やがてため息のような声で言った。
「……君は不思議な人だな。」
「どうしてですか?」
「人は私を『氷』と呼ぶ。血の一滴にも心を動かさないと言う。なのに君は、そんな私の手を迷わず取る。」
「氷は冷たいけれど、触れなければ温められません。だから、私は怖くないんです。」
アランがその言葉に一瞬だけ微笑んだ。
「……もし君が他の誰かだったら、今ので落ちていたかもしれない。」
「でも、わたしは他の誰かではありません。」
「……そうだな。」
ふたりの間に沈黙が落ちた。だけどその沈黙は温かく、外の雪の音さえ優しく感じられた。
峠を越えてしばらく進むと、遠くに小さな教会が見えてきた。
急ごしらえの避難所のようでもあり、馬たちを休ませるには格好の場所だった。
「ここで一晩明かす。」
「はい。」
教会の中は人の気配がなく、古い木の香りがした。
リリアーナは暖を取るため、火を灯した燭台を持って祭壇の前に寄る。
アランは扉の前に腰を下ろし、外を警戒していた。
「ずっと戦ってこられたんですね。」
「……そうだな。仕える王のため、国のため、理のために。」
「それでもなお、誰かを守ろうとするのは、なぜですか。」
アランは腕を組み、少し目を閉じた。
「守る価値のある存在を、自ら選びたいと思うようになったからだ。」
「守る価値、ですか。」
「ああ。たとえば、君のようにな。」
思いも寄らない言葉に、リリアーナの胸が跳ねた。
「わたし……?」
「君は、王都で全てを奪われても、誰も恨まず、自分を責めもせず、ただ前に進もうとした。その姿を見たとき、私は――護る価値があると思った。」
息が止まった。周囲の空気が揺れる。
「……そんなふうに言ってくださるなんて。」
「感情ではない。判断だ。」
「それでも構いません。わたしは嬉しいです。」
リリアーナが微笑むと、アランの瞳がかすかに揺れた。
「……君は危険だな。」
「危険?」
「心を溶かす、という意味でだ。」
そう言いながらも視線を逸らし、彼は外の風に耳を傾けた。
夜が更ける。
焚かれた火が静かに弾け、影が壁を揺らしていた。
リリアーナは眠れず、寝袋の中で目を開けていた。
隣にはアランが背を向けて座っている。
ずっと守るように、入り口を監視したまま微動だにしない。
「……眠らないのですか。」
「寝れば、君を守れない。」
「そんなに張り詰めていては、倒れてしまいます。」
「この身は、誰かを守るためにある。倒れるわけがない。」
リリアーナはその言葉に胸が痛んだ。彼がどれほど自分を犠牲にしてきたのか、少しだけ理解できる気がした。
「アラン様。」
「何だ。」
「わたしも……誰かの役に立ちたいです。守られるばかりではなく、支える側になりたい。」
アランは少しだけ振り向いた。火の光が彼の横顔を照らす。
「それが、君の望みか。」
「はい。あなたに守る価値があると思ってもらえたなら、今度はわたしが証明します。」
静寂。だが、そのあとわずかに笑う声が聞こえた。
「……君にそう言われるのは悪くない。」
その言葉の余韻の中で、リリアーナはまぶたを閉じた。
しばらくすると、アランの足音が近づき、彼の外套がそっと肩にかけられる。
「おやすみ。ここは安全だ。」
遠くで風が雪を撫でている。その音を聞きながら、リリアーナは穏やかに眠りへ落ちていった。
外では、空を切り裂くようにまた一台の黒い馬車が丘を越えていた。
その行き先は、アランとリリアーナが向かう王都――運命の渦の中心。
彼らの知らぬところで、すでに新しい一幕の幕が上がりかけていた。
(続く)
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
平民とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の王と結婚しました
ゆっこ
恋愛
「リリアーナ・ベルフォード、これまでの婚約は白紙に戻す」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく――心のどこかで予感していた結末に、静かに息を吐いた。
王太子アルベルト殿下。金糸の髪に、これ見よがしな笑み。彼の隣には、私が知っている顔がある。
――侯爵令嬢、ミレーユ・カスタニア。
学園で何かと殿下に寄り添い、私を「高慢な婚約者」と陰で嘲っていた令嬢だ。
「殿下、どういうことでしょう?」
私の声は驚くほど落ち着いていた。
「わたくしは、あなたの婚約者としてこれまで――」
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!
野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。
私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。
そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
王妃を蔑ろにし、愛妾を寵愛していた王が冷遇していた王妃と入れ替わるお話。
ましゅぺちーの
恋愛
王妃を蔑ろにして、愛妾を寵愛していた王がある日突然その王妃と入れ替わってしまう。
王と王妃は体が元に戻るまで周囲に気づかれないようにそのまま過ごすことを決める。
しかし王は王妃の体に入ったことで今まで見えてこなかった愛妾の醜い部分が見え始めて・・・!?
全18話。
嫌われ公女に転生したけど、愛されたい願望を捨てたら全員がデレてきた
桃瀬さら
恋愛
嫌われ公女ナディアは、婚約破棄され学園で孤立し、家族からも見放されていた。
どれほど努力しようが周囲からは「嫌われ公女」と蔑まれ、誰も味方なんていない。
「もういい。愛されたいなんて、くだらない」
そう心に誓った瞬間から、状況が一変した。
第二王子が婚約破棄を撤回し跪き、寡黙な騎士団長が「君を守りたい」と熱く迫ってくる。
そして、冷ややかな兄まで「婚約など認めない。家を出ることは許さない」と……。
愛されることを諦めた途端、なぜか執着される。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる