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第7話 黒い馬車が運ぶ運命
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春の兆しがほんのわずかに見え始めたグレイス領。
空気はまだ冷たく、吐く息は白い。けれど空は少し明るくなり、雪原の隙間から土の匂いがかすかに立ち上っていた。
リリアーナは屋敷の庭で、セラーナと共に花壇の手入れをしていた。
「見てください、芽が出ています!」
セラーナが指さす先、小さな緑の芽が顔を出していた。
「本当に……春が来るのですね。」
リリアーナの唇にふと笑みが浮かぶ。こうして穏やかな時間を過ごせる日が戻るなど、数か月前には夢にも思わなかった。
だが、その日の午後。彼女の日常はまた、突然の訪問によって揺らぎ始める。
玄関に黒塗りの馬車が止まり、見知らぬ使者が降り立った。濃紺の外套をまとい、胸には王家の紋章。
執務室から出てきたアランが彼と対面する。リリアーナも呼ばれ、扉の脇で小さく頭を下げた。
使者は深く膝を折り、恭しく書状を差し出す。
「宰相閣下、陛下からの密書にございます。」
「……王命か。」アランの声が低く響く。
封を切る音だけが室内に響く。リリアーナは息を潜めて見守った。
無言で文を読み終えたアランは、まぶたをゆっくりと閉じた。
「なるほど。王都は慌ただしいようだな。」
「陛下は閣下に至急の帰還を命じておられます。王太子殿下の件で、新たな動きがありまして。」
「王太子の件?」
使者は声を潜めるように言った。「陛下が殿下の不正について再調査を……。関係者の事情聴取のため、宰相閣下の立ち会いを求めておられます。」
リリアーナの胸が強く鳴った。
「……王太子殿下の不正?」
アランが書簡を畳みながら言う。「王太子の命で仕組まれた贈賄と情報偽装。君を陥れるための“証拠”を用意したのも、その一環だろう。」
「では……あの冤罪は――」
「すべて王太子の私的な権限乱用に基づく策謀。陛下はそれを知り、真実を正そうとしている。」
小さな希望が胸の奥で灯った。けれど同時に、不安が広がる。
「アラン様、王都に戻られるのですか。」
「ああ。事実の裏をとるためには、直接動くしかない。」
「でしたら、わたくしも同行させてください!」
思わず口から出た言葉に、アランの瞳がわずかに揺れた。
「君は……」
「あの場所で全てを失いました。ならば、真実の行方を見届ける責任があります。」
彼はしばらく黙し、やがて小さくため息をついた。
「危険な道になる。だが、覚悟があるなら連れていこう。」
三日後、出発の日。黒い馬車が雪明けの街道に待っていた。
リリアーナは厚い外套の襟を正し、屋敷の玄関で深く頭を下げる。
「セラーナ、留守をお願いします。」
「はい。どうかご無事で。」
見送りの声を背に、アランと共に馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、車輪が軋み、旅が始まる。
外はまだ寒く、風が窓を打った。
リリアーナは隣に座るアランを見た。
彼は腕を組み、無言のまま遠くを見つめている。
いつも通りの冷たい表情に見えたが、どこか瞳の奥が沈んでいた。
「アラン様……緊張されていますか?」
「いや、考えごとをしていただけだ。」
「陛下のことですか。」
「それもある。だが、それより――君の身のことが気がかりだ。」
「私の?」
「王都でまた王太子派が動く可能性がある。彼らにとって、君は真実を知る厄介な存在だ。君を狙うかもしれない。」
その言葉に、背筋がわずかに震えたが、リリアーナは静かに首を振った。
「大丈夫です。どんなことがあっても、もう逃げません。」
アランは横目で彼女を見た。「本当に強くなったな。」
「あなたが守ってくださったからです。」
馬車に沈黙が戻る。けれど、その空気は決して冷たくなかった。
外の雪景色が流れゆく中、リリアーナは初めて旅の途中で感じる安らぎを知った。
道中、宿場の町に着く頃には日が傾いていた。
宿屋の暖炉の前、ふたりは向かい合って座っていた。
「王都まではあと三日の道だ。」アランが地図を広げる。
「ここからは山越えの道ですね。」
「そうだ。雪が多く危険だが、彼らに居場所を知られたくない。裏街道を抜ける。」
「それは、危険なのでは……?」
「安心しろ。私がついている。」
その言葉の確かさに、リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
その夜、宿屋の外で小雪が舞い始めたころ。
リリアーナは窓辺に立ち、月明かりを見上げた。
すると、背後から足音が近づく。
「眠れないのか。」
声に振り向くと、アランが立っていた。外套を羽織らず、白いシャツのまま。
「ええ……少し、胸がざわめいて。」
「そうか。」彼は隣に立ち、しばらく外を見上げた。
沈黙の中に、遠くで馬のいななきが聞こえる。雪明けの道を行く旅団の音だ。
「王都は、私にとっても忌まわしい場所だ。」
「アラン様にとっても?」
「あの地では、かつて大勢の人間が己の正義を掲げて消えていった。私の師も、その一人だ。」
「師……?」
「“理性ある権力者になれ”と教えてくれた人だった。だが、彼は権力に潰され死んだ。それを見て、一つの感情を閉ざした。」
淡々と語る声には、深い哀しみが隠されていた。
リリアーナは何も言わず、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「……寒いですね。」
「君の手の方が冷えている。」
「なら、温め合えばいいのです。」
アランがわずかに息をのむ。続いて、彼の大きな掌がリリアーナの手を包み込んだ。
指先の冷たさがゆっくりと溶けていく。
「……こうしていると、不思議と落ち着きますね。」
「そうだな。」
その短い言葉の奥には、今までになかった柔らかさがあった。
翌朝。出発の準備を整えた馬車が宿前で待っていた。
リリアーナが乗り込もうとしたとき、宿の主人が駆けてきた。
「閣下、夜明け前に黒い馬車がこの町を通り抜けました。王都からの使者だそうで。」
アランの表情が鋭くなる。「黒い馬車……誰の使いだ。」
「それが、王太子殿下の紋章が入っておりました。」
空気が一瞬で凍りつく。
「殿下が、直接……?」
「いや、あいつの仕業ではない。彼の背後にもう一人いる。」アランの声は低く冷たかった。
「予定を早める。すぐ出るぞ。」
馬車が再び雪道を走り出す。
外の景色が霞むほどの速度。
リリアーナは窓から遠ざかる宿を見つめた。黒い馬車――それが自分たちの行く先を塞ぐ影のように思えた。
「アラン様、あの馬車はいったい……」
「陛下の命と称して、私たちを追っているのかもしれない。だが、狙いは私ではない。」
「まさか……私?」
「その可能性が高い。」
アランの視線が鋭くなり、手が剣の柄に触れた。
「君は何があっても私の後ろを離れるな。」
「はい……!」
外の風が唸る。雪が舞い、視界がぼやける。
リリアーナの胸は強く鳴り、恐怖と同時に奇妙な確信が湧いた。
――この黒い馬車が、運命の節目を運んでくる。
そして、この旅が終わる頃、自分の人生はもう以前のものではなくなる。
そう感じながら、リリアーナは固く両手を握った。
(続く)
空気はまだ冷たく、吐く息は白い。けれど空は少し明るくなり、雪原の隙間から土の匂いがかすかに立ち上っていた。
リリアーナは屋敷の庭で、セラーナと共に花壇の手入れをしていた。
「見てください、芽が出ています!」
セラーナが指さす先、小さな緑の芽が顔を出していた。
「本当に……春が来るのですね。」
リリアーナの唇にふと笑みが浮かぶ。こうして穏やかな時間を過ごせる日が戻るなど、数か月前には夢にも思わなかった。
だが、その日の午後。彼女の日常はまた、突然の訪問によって揺らぎ始める。
玄関に黒塗りの馬車が止まり、見知らぬ使者が降り立った。濃紺の外套をまとい、胸には王家の紋章。
執務室から出てきたアランが彼と対面する。リリアーナも呼ばれ、扉の脇で小さく頭を下げた。
使者は深く膝を折り、恭しく書状を差し出す。
「宰相閣下、陛下からの密書にございます。」
「……王命か。」アランの声が低く響く。
封を切る音だけが室内に響く。リリアーナは息を潜めて見守った。
無言で文を読み終えたアランは、まぶたをゆっくりと閉じた。
「なるほど。王都は慌ただしいようだな。」
「陛下は閣下に至急の帰還を命じておられます。王太子殿下の件で、新たな動きがありまして。」
「王太子の件?」
使者は声を潜めるように言った。「陛下が殿下の不正について再調査を……。関係者の事情聴取のため、宰相閣下の立ち会いを求めておられます。」
リリアーナの胸が強く鳴った。
「……王太子殿下の不正?」
アランが書簡を畳みながら言う。「王太子の命で仕組まれた贈賄と情報偽装。君を陥れるための“証拠”を用意したのも、その一環だろう。」
「では……あの冤罪は――」
「すべて王太子の私的な権限乱用に基づく策謀。陛下はそれを知り、真実を正そうとしている。」
小さな希望が胸の奥で灯った。けれど同時に、不安が広がる。
「アラン様、王都に戻られるのですか。」
「ああ。事実の裏をとるためには、直接動くしかない。」
「でしたら、わたくしも同行させてください!」
思わず口から出た言葉に、アランの瞳がわずかに揺れた。
「君は……」
「あの場所で全てを失いました。ならば、真実の行方を見届ける責任があります。」
彼はしばらく黙し、やがて小さくため息をついた。
「危険な道になる。だが、覚悟があるなら連れていこう。」
三日後、出発の日。黒い馬車が雪明けの街道に待っていた。
リリアーナは厚い外套の襟を正し、屋敷の玄関で深く頭を下げる。
「セラーナ、留守をお願いします。」
「はい。どうかご無事で。」
見送りの声を背に、アランと共に馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、車輪が軋み、旅が始まる。
外はまだ寒く、風が窓を打った。
リリアーナは隣に座るアランを見た。
彼は腕を組み、無言のまま遠くを見つめている。
いつも通りの冷たい表情に見えたが、どこか瞳の奥が沈んでいた。
「アラン様……緊張されていますか?」
「いや、考えごとをしていただけだ。」
「陛下のことですか。」
「それもある。だが、それより――君の身のことが気がかりだ。」
「私の?」
「王都でまた王太子派が動く可能性がある。彼らにとって、君は真実を知る厄介な存在だ。君を狙うかもしれない。」
その言葉に、背筋がわずかに震えたが、リリアーナは静かに首を振った。
「大丈夫です。どんなことがあっても、もう逃げません。」
アランは横目で彼女を見た。「本当に強くなったな。」
「あなたが守ってくださったからです。」
馬車に沈黙が戻る。けれど、その空気は決して冷たくなかった。
外の雪景色が流れゆく中、リリアーナは初めて旅の途中で感じる安らぎを知った。
道中、宿場の町に着く頃には日が傾いていた。
宿屋の暖炉の前、ふたりは向かい合って座っていた。
「王都まではあと三日の道だ。」アランが地図を広げる。
「ここからは山越えの道ですね。」
「そうだ。雪が多く危険だが、彼らに居場所を知られたくない。裏街道を抜ける。」
「それは、危険なのでは……?」
「安心しろ。私がついている。」
その言葉の確かさに、リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
その夜、宿屋の外で小雪が舞い始めたころ。
リリアーナは窓辺に立ち、月明かりを見上げた。
すると、背後から足音が近づく。
「眠れないのか。」
声に振り向くと、アランが立っていた。外套を羽織らず、白いシャツのまま。
「ええ……少し、胸がざわめいて。」
「そうか。」彼は隣に立ち、しばらく外を見上げた。
沈黙の中に、遠くで馬のいななきが聞こえる。雪明けの道を行く旅団の音だ。
「王都は、私にとっても忌まわしい場所だ。」
「アラン様にとっても?」
「あの地では、かつて大勢の人間が己の正義を掲げて消えていった。私の師も、その一人だ。」
「師……?」
「“理性ある権力者になれ”と教えてくれた人だった。だが、彼は権力に潰され死んだ。それを見て、一つの感情を閉ざした。」
淡々と語る声には、深い哀しみが隠されていた。
リリアーナは何も言わず、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「……寒いですね。」
「君の手の方が冷えている。」
「なら、温め合えばいいのです。」
アランがわずかに息をのむ。続いて、彼の大きな掌がリリアーナの手を包み込んだ。
指先の冷たさがゆっくりと溶けていく。
「……こうしていると、不思議と落ち着きますね。」
「そうだな。」
その短い言葉の奥には、今までになかった柔らかさがあった。
翌朝。出発の準備を整えた馬車が宿前で待っていた。
リリアーナが乗り込もうとしたとき、宿の主人が駆けてきた。
「閣下、夜明け前に黒い馬車がこの町を通り抜けました。王都からの使者だそうで。」
アランの表情が鋭くなる。「黒い馬車……誰の使いだ。」
「それが、王太子殿下の紋章が入っておりました。」
空気が一瞬で凍りつく。
「殿下が、直接……?」
「いや、あいつの仕業ではない。彼の背後にもう一人いる。」アランの声は低く冷たかった。
「予定を早める。すぐ出るぞ。」
馬車が再び雪道を走り出す。
外の景色が霞むほどの速度。
リリアーナは窓から遠ざかる宿を見つめた。黒い馬車――それが自分たちの行く先を塞ぐ影のように思えた。
「アラン様、あの馬車はいったい……」
「陛下の命と称して、私たちを追っているのかもしれない。だが、狙いは私ではない。」
「まさか……私?」
「その可能性が高い。」
アランの視線が鋭くなり、手が剣の柄に触れた。
「君は何があっても私の後ろを離れるな。」
「はい……!」
外の風が唸る。雪が舞い、視界がぼやける。
リリアーナの胸は強く鳴り、恐怖と同時に奇妙な確信が湧いた。
――この黒い馬車が、運命の節目を運んでくる。
そして、この旅が終わる頃、自分の人生はもう以前のものではなくなる。
そう感じながら、リリアーナは固く両手を握った。
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