婚約破棄された悪役令嬢は、辺境侯に拾われて過保護に愛される

nacat

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第1話 婚約破棄の宣告

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冬の王都は、いつになく冷たかった。  
白い息が立ち上る夜気の中、王宮の舞踏会場は、まるで別の世界のように明るく輝いている。  
煌めくシャンデリアに、金糸の刺繍が織り込まれたドレスの群れ。音楽と笑い声が渦巻く空間で、エリシア・グレイスは静かに立っていた。  

彼女は名門グレイス公爵家の一人娘。  
そして、この国の王太子・リアン殿下の婚約者——のはずだった。  

けれどその夜、運命は無情に裏返された。  

「エリシア・グレイス、公爵令嬢としての品格を失った君との婚約を、ここに破棄する!」  

楽団が奏でる旋律が止む。  
広い会場が、静寂に包まれた。  

誰もが耳を疑った。  
あまりに唐突で、信じられない言葉だったから。  

エリシアは震える唇で殿下を見つめた。  
金の髪と澄んだ青の瞳——王国の象徴ともいうべき麗しい容姿の青年が、信じられぬほど冷ややかな視線で彼女を見下ろしている。  

「……リアン様、いま……なんと……?」  

「何度でも言おう。君との婚約は、今日をもって無効だ。君の行いは公爵家の令嬢としてあまりにも恥ずべきものだ」  

さざめく貴族たちの声。  
「まさか……」「婚約破棄ですって?」  
次々とひそひそ声が波のように広がっていく。  

エリシアは理解できなかった。何を責められているのか、本当にわからなかった。  

「恥ずべき行い……?誰かを傷つけるようなことを、私は——」  

「無実だとでも言うのか!」リアンの声が、会場に響いた。  
「君は、マリアベル嬢を虐めたと、こんなにも多くの証言があるのだぞ!」  

マリアベル。  
エリシアは小さく息をのんだ。  
最近、王太子の側に寄り添うようになった子爵令嬢の名前だ。  

「虐め……そんなこと、していません。彼女とは言葉を交わすことさえ——」  

「もういい!」  

リアンの声は怒りで震え、周囲の空気が重くなる。  
「君のような女は、王太子妃にはふさわしくない。これ以上の言い訳は聞きたくない」  

絶句するしかなかった。  
彼の背後に控えるマリアベルの、涙に濡れた大きな瞳がこちらを見る。  
その表情は哀れみを装いながら、ほんの一瞬、勝ち誇った笑みを浮かべた。  

——すべては仕組まれていたのだ。  

エリシアは心の底で悟った。  
けれど、それを言葉にはできなかった。  
もし口に出したところで、殿下が信じるはずもない。  
この場で、新しい寵姫の前で「嫉妬深い令嬢」の烙印を押されるのは目に見えていた。  

「……わかりました、殿下」  

かすかに震える声で、それだけを言った。  
周囲から小さな悲鳴や「まさか!」という囁きが起こる。  
だが、エリシアは涙を見せなかった。  

凍りつくような心臓の中で、何かが静かに崩れ落ちていく音だけが響いていた。  

父母がいないこの舞踏会で、彼女は一人で立っていた。  
社交界は、悲劇の主人公ではなく、見世物を求めている。  
次々と注がれる蔑みと好奇の視線。  
その中で、彼女は背筋を伸ばした。  

「リアン殿下。これまでお世話になりました」  

静かに言い、膝を折ってドレスの裾を持ち上げ、見事な一礼を見せた。  
その完璧な仕草に、一瞬だけ周囲が息を呑む。  

「エリシア!」と呼ぶ声もなく、手を伸ばす者もいない。  
冷たい音楽が再び鳴り始め、仮面舞踏のような笑い声が戻る。  

エリシアは、静かに背を向けて歩き出した。  
誰もいない廊下に出た瞬間、胸を締めつける痛みに耐えきれず、深く息をついた。  
吐き出すと、喉の奥が熱くなる。  
けれど、涙はまだこぼれなかった。  

「……泣いてはいけないわ。泣いたら、本当に惨めになってしまう」  

彼女は自分に言い聞かせ、揺れる明かりの中を歩く。  
幼い頃から貴族としての誇りを教え込まれてきた。  
どんな窮地でも、決して取り乱してはいけない。  
それが、公爵家の娘としての最後の矜持だった。  

夜風の吹き抜ける庭園に出ると、雪が舞っていた。  
黒い空に光る雪片が、月光を受けて白く光る。  
あの温かい笑顔を信じた日々は、すべて幻になったのだ。  

(……終わったのね)  

王太子妃として生きる未来。両親の誇り。友人たちの称賛。  
すべてが、今夜の宣告ひとつで瓦解した。  

そのとき——。  

「随分と冷たい夜だな」  

低い声が、背後から響いた。  

エリシアは反射的に振り返る。  
そこに立っていたのは、雪のように白いマントを羽織った長身の男だった。  
漆黒の髪に灰色の瞳。  
ただその存在だけで、空気が一瞬止まるような威圧感を放っている。  

「……あなたは?」  

名を尋ねようとした瞬間、彼は一歩近づき、ゆるやかに膝を折った。  
「初めまして、公爵令嬢殿。私はゼノヴィア・アッシュレイン——辺境を治める侯爵だ」  

「辺境侯……?」  

思わずその名を口にする。  
冷徹で知られる「黒の辺境侯」。  
王都から遠く離れた荒野を治める若き将であり、数多の戦功を立てながらも社交界とは距離を置いている男。  

「王都の噂は耳にしている。婚約破棄とは、随分と無粋な場で行われたものだな」  

「……見ていらしたのですか」  

「偶然だ。王命でこの舞踏会に同行していた。だが、あれは目を覆う惨状だった」  

彼の声には、嘲りとも憐れみともつかぬ色があった。  

「彼女が泣く姿など、誰も望んでいないのに……」  

その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。  
だが、エリシアはすぐに平静を装う。  

「お気遣いありがとうございます。ですが、私は大丈夫です。少し……風に当たりたかっただけです」  

「そう言うと思った」  
ゼノヴィアの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。  
彼の瞳は、まるで遠い雪山のように冷たく、そしてどこか深い。  

「この王都では、お前を守る者はもういないのだろう」  

「……たぶん、そうでしょうね」  

「なら、俺が連れて行く」  

彼の言葉に、エリシアは息を呑む。  

「え……?」  

「グレイス公爵家への忠義は本物だ。無実のまま貶められる娘を見過ごせない。俺の領へ来い。安全を約束する」  

その提案はあまりに突然で、夢のようにも感じられた。  
けれど、その灰色の瞳には、偽りがないように思えた。  

「あなたが……私を?」  

「そうだ。だが覚悟しておけ。辺境は厳しい土地だ。だが、裏切りも策もない。お前がここで腐らぬよう、守ってやる」  

その言葉は、不思議な熱を帯びていて、冷え切った心に少しずつ浸透してくる。  

エリシアはしばらく黙って空を見上げた。  
雪は強くなり、白い羽のように彼女の髪に降り積もる。  
王都に残れば、彼女は嘲笑の的となる。  
実家に帰っても、政治的な立場上、家は彼女を庇いきれないだろう。  

逃げ場など、ない。  
けれど、この人の言葉には「行き場を与える」という強さがあった。  

「……わかりました。お受けいたします」  

ゼノヴィアはわずかに頷き、マントを外してエリシアの肩にかけた。  
「寒いだろう。ここでは立ち止まるな」  

その優しさが、もう限界だった心の堰を崩した。  
目尻から、わずかに涙がこぼれ落ちる。  

けれど彼女は震える笑みを見せた。  
「殿下ではなく、あなたに救われるなんて……皮肉ですね」  

「皮肉でも、運命でもいい。——俺は、見過ごせなかった」  

その夜、エリシア・グレイスは王都を去った。  
全てを失い、同時に、何か新しいものを手に入れるために。  

王太子の婚約者としての誇りを失い、ひとりの人間として歩き始める道は、まだ誰も知らない。  

その傍らには、静かにマントを広げる男が立っていた。  
雪の中、灰色の瞳がかすかに光り、まるで何かを誓うように彼女を見つめていた。  

——やがてこの視線が、誰かを狂おしいほどに愛するものに変わっていくことを、このときの彼女はまだ知らなかった。  

(第1話 終)
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