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第2部 4.5章
夢のはなし 後編
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翌日、アリシアの部屋へ向かうレイヴンの足取りは重かった。
自分の部屋もすぐそこにあるのに、この場所を訪れるのは随分と久しぶりである。
昨日、アリシアには申し訳ないことをしてしまった。
朝、執務室へ向かうまでは約束を覚えていたのに、シーラと昼食を摂り、息子と遊ぶうちにすっかり忘れてしまったのだ。
以前であれば何かと忠告してくれていたレオナルドは、レイヴンがアリシアの元へ戻らず、シーラのところへ留まるようになってからすっかり疎遠になってしまった。今も側近として仕事をしているが、以前のように気軽く執務室を訪ねて来ることはない。
レイヴンが約束を忘れていたと気づいた時の、アリシアの傷ついた顔を思い出すと申し訳ない気持ちが込み上げてきて足取りが重くなる。
レイヴンは罪悪感を振り払うように強く頭を振った。
レイヴンの中にアリシアを想う気持ちがなくなったわけではない。
今でも変わらず愛しく思っている。
だけど今のレイヴンには息子が――第一王子がいるのだ。
レイヴンが即位した後、第一王子が王太子となる。
王太子の足場を固める為にも生母を邪険に扱うわけにはいかない。
そう思い、シーラの元へ通う内に情が湧いてシーラへ向ける気持ちの比重が重くなってしまった。
アリシアの部屋の扉を叩くとエレノアが姿を見せる。
だけどエレノアは、レイヴンを中へ入れずに表に出てきて後ろ手に扉を閉めた。
「申し訳ありません、殿下。妃殿下は体調がすぐれず、本日の約束はお断りしたいとのご意向です」
「なんだって……?」
レイヴンの顔色が変わる。
アリシアが体調不良を人に見せることはない。いつもぎりぎりまで我慢している。
そのアリシアがレイヴンに会えない程具合が悪いというのなら、それは相当酷いということだ。
アリシアを想う気持ちが消えたわけではないのだ。レイヴンの中を占めていた罪悪感が一瞬で消え、アリシアを案じる気持ちで占められる。
「そんなに悪いのか?!約束なんて良い!見舞うから中へ入れてくれ!!」
レイヴンが慌てた声を上げる。
だけどエレノアが動くことはなく、不思議そうな顔をレイヴンへ向けていた。
「妃殿下を心配されるのですか……?」
その言葉にレイヴンは愕然とした。
アリシアを愛している。
心配するのは当然のことだ。
確かに最近はあまりアリシアと会っていなかったけれど、レイヴンの気持ちを知っているはずのエレノアがそんなことを言うなんて。
「申し訳ありません。殿下が妃殿下の見舞いを望まれるとは思わず、支度ができておりません。今日のところはお引き取り下さいませ」
呆然とするレイヴンをよそに、一礼したエレノアが室内へ戻ろうとする。
レイヴンは慌ててエレノアを止めた。
「支度なんて良い。具合が悪いのだから出来ていなくて当然だろう。横になったままで構わないから、アリシアに会わせてくれ」
「妃殿下は望んでおられません」
にべもない答えにカッとなる。だけどここでエレノアを怒らせるのは得策ではない。
そう思ったレイヴンは、その気持ちを抑えて冷静に問い掛けた。
「アリシアはいつから寝付いてるんだ?侍医は何と言っている?」
「……侍医には診せておりません」
「診せていない?なぜだ?!」
「妃殿下が、その必要はないと仰いましたので」
アリシアは体調を崩したことを人に知られてはいけないと思ったのかもしれない。
それならやはり、アリシアに会わなくてはならない。
会って、侍医に診せるよう説得しなくては。
「僕がアリシアと話す。中へ入れてくれ」
「申し訳ありませんが、それはできかねます。」
「~~~~~~っ!!」
無表情のまま、エレノアが再度頭を下げる。
このままでは埒が明かない。
そう判断したレイヴンは、エレノアを押しのけて扉を開いた。
エレノアが抗議の声を上げるが、無視して大股で中へ入る。
部屋の中へ入った時、一瞬レイヴンの中に違和感が過った。
それが何かわからないまま、レイヴンはアリシアの寝室へ向かう。
レイヴンの部屋との間にある夫婦の寝室ではなく、部屋の反対側についているアリシア個人の寝室の方だ。
エレノアはもうレイヴンを止めようとせず、ただ冷たい目を向けていた。
「アリシア!!」
レイヴンが寝室の扉を開け放つ。
だけど寝室にアリシアの姿はなかった。
それどころか、綺麗に整いすぎていて使用感がまるでない。
「え……?」
棒立ちになったレイヴンだったが、すぐその可能性に思い当った。
アリシアは今も夫婦の寝室を使っているのだ。
瞬間、鋭い痛みが胸を過るが無視して夫婦の寝室へ向かう。
だけどそこにもアリシアの姿はなかった。
こちらの寝室で使われているシーツや飾られた小物はアリシアの好みのもので、今も使われていることがわかる。
だけどベッドは綺麗に整えられていて、誰かが寝ていた形跡はなかった。
「どういうことだ……?」
呆然と呟いたレイヴンがアリシアの部屋へ戻る。
勿論この部屋にもアリシアの姿はない。レイヴンは壁際に立つエレノアへ視線を向けた。
「アリシアはどこへ行ったんだ……?具合が悪いんじゃなかったのか?」
エレノアは答えない。
苛立ったレイヴンが、「エレノア!」と強く呼びかけると、表情を変えないまま淡々と口を開いた。
「妃殿下はもう王太子宮にはいらっしゃいません。ご実家に、お戻りになられました」
「何を言ってるんだ……?」
意味が分からず問い返す。
アリシアが実家へ戻るなんて有り得ない。
それは気持ちだけの問題ではなく、制度としての問題でもあった。
王族の一員となったアリシアに自由な里帰りは許されていない。許されるのは特定の時だけで、その時でも国王とレイヴンの許可が必要だ。
だけどレイヴンはそんな許可を出した覚えはなく、申請を受けた記憶もなかった。
もし許可なく勝手に帰ったのなら、それは重大な規律違反である。王太子妃であっても処罰の対処になる。
アリシアがそれを知らないはずがない。
それなのに本当に実家へ戻ったのだとしたら、例え処罰を受けたとしてもレイヴンと離れたかったということになる。
それはつまり――。
その可能性に思い当った時、レイヴンの視界から色が消えた。
「アリシアは、僕と別れたがっている……?」
「最近の殿下の振る舞いでは当然のことでしょう」
呆然と呟くレイヴンに、エレノアが冷たい声で応える。
レイヴンは反射的に言い返していた。
「そんなはずはない!アリシアは王太子妃であることに誇りを持っている!その地位を自ら捨てるなんて有り得ない!」
だけど叫びながら足が震えているのは、わかっているからだ。
そう、アリシアは王太子妃であることに誇りを持っている。
王太子妃として、正当に扱われることを何より望んでいる。
昨日の――いや、最近のレイヴンは、アリシアを王太子妃として遇していただろうか?
蔑ろにしていたのではないのか?
「嘘だ……。そんなはずはない。アリシアは昨日のことを怒ってるんだろう?怒っていて、どこかに隠れているんだろう?昨日のことは悪かったと思っている。謝るよ。謝るから、どこにいるのか教えてくれ」
そう言いながらも、これが嘘ではないと頭のどこかでわかっていた。
アリシアが無断で王太子宮を出て行った。
もしここでレイヴンが騒ぎ立てれば王宮中が騒ぎになる。
そうなってしまえば、例えそれが嘘であっても、いや、嘘だからこそアリシアは強い批判に晒されることになる。
アリシアがそんな危険を冒すはずがない。
だけどアリシアが出て行ったなんて、信じたくなかった。
救いを求めるようにのろのろと周りを見渡す。
そうだ。アリシアは出て行ってなんかいない――。
「……アリシアが出て行ったと言うなら、荷物はどうしたんだ?何もかもが残っているじゃないか。王太子妃が何も持たずにどこかへ行ったと言うのか……?」
「妃殿下は公爵家から持ってこられたものだけを荷物へ入れるよう仰られました。それ以外のものはすべて置いていくというのが妃殿下のご意思です」
「………っ!!」
レイヴンはもう一度辺りを見渡した。
注意深く見渡す内に部屋へ入った時に感じた違和感の正体に気がつく。
部屋の中からアリシアが大切にしていたものがいくつか消えているのだ。
そう、ちょっとした小物や飾りのいくつかである。
反対に残されているものは、初めからこの部屋にあったものだ。
その他にも、レイヴンが贈ったものも残されている。
「―――!!」
レイヴンはドレッシングルームへ走った。
クローゼットを開け放つ。
クローゼットには少しだけ余裕があり、ほとんどのドレスが残されていた。
アリシアが必要に応じて購入したドレスも、レイヴンが贈った青色のドレスもすべて残っている。
装飾品を収める小箱を開けると、これもクローゼットと同じだった。
サファイアのついた首飾りや髪飾りと並んで、幼いレイヴンが購入したまま贈れなかったブローチやリボンが残されている。
やっと贈ることができたのに、アリシアは置いていってしまったのだ。
「殿下、こちらを妃殿下より預かりました。高価なものなので直接お渡しするようにと」
呼び掛けられてのろのろ振り返ると、エレノアが差し出していたのはシェルツ国の扇だった。
これは、2人の子どもに受け継がせるはずの扇である。
流行遅れの扇は代々受け継がれる内にアンティークになると、アリシアが言ってくれたのに。
だけど2人の間には子どもがいない。
そしてこれから先も、もうレイヴンとの間に子を作るつもりはないということなのか。
震える手で扇を受け取ったレイヴンはその場で膝をついた。
涙が溢れてくる。
泣き崩れるレイヴンを無表情で見ていたエレノアが、淡々とした声でこう言った。
「妃殿下が高価なものを持たずに出られたのも当然ではないでしょうか。修道院に派手な装飾品など持っていけないのですから」
その言葉にハッとする。
他の貴族とは違って王族になった妃が離縁しても実家に戻されることはない。辺境の離宮に押し込められるか修道院へやられるのが通例である。
アリシアも王太子妃として顔を知られている以上、実家に戻って再嫁先を探すようなことは考えられなかった。
だけど公爵家にはレオナルドがいる。
アリシアを溺愛しているレオナルドが、アリシアを修道院へ入れるはずがないのだ。
思えば今日、レオナルドは休んでいる。
公爵邸に戻ったアリシアを宥めながら、王宮へ戻るよう説得しているに違いない。
気がつけばレイヴンは駆け出していた。
「馬を!馬の用意をしろ!!」
叫びながら厩舎へ駆け込む。
鞍が付けられるのを待って馬に飛び乗ると、そのまま駆け出した。
「殿下?!」
護衛の騎士が驚いて声を上げる。
だけどレイヴンは護衛のことなど考えられなかった。
大体護衛を連れて公爵邸へ行ってしまったら、アリシアが公爵邸に戻っていることがバレてしまうではないか。
アリシアを王太子宮に戻す為には、アリシアの不在を人に知られるわけにはいかないのだ。
レイヴンは公爵邸までの道を駆け抜ける。
行き会った人たちが慌てて端へ避けるが、周りのことなど気にかける余裕はなかった。
そのままの勢いで公爵邸まで駆けつけたレイヴンに、門番や騎士が警戒する素振りを見せる。だけど公爵家の者がレイヴンの顔を知らないはずがない。元より王太子の肖像画は出回っている。
名乗るまでもなくレイヴンに気づいた門番が慌てて門を開いた。
邸の入り口に着くと馬を飛び降りる。
玄関の扉が開くのを待つ余裕も、家令の出迎えを受ける余裕もなく、レイヴンは玄関ホールへ駆け込んだ。
「アリシアっ!!」
駆け込みながら、レイヴンが叫ぶ。
騒ぎを聞きつけた使用人たちが何事かと姿を見せる中、レイヴンは家令に詰め寄った。
「アリシアはどこだ?!話がしたい!すぐに会わせてくれ!!」
だけど家令は近くの侍女と顔を見合わせるばかりで動こうとしない。
焦れるレイヴンが視線を感じて顔を上げると、螺旋階段の上からマリアンがこちらを見下ろしていた。鋭い視線でレイヴンを睨みつけている。
マリアンに良い感情を持たれていないことはわかっていた。
マリアンは、アリシアを婚約者として大切にしないレイヴンを嫌っている。
今、レイヴンを睨みつける視線はその時より何倍も鋭く、視線だけで人を殺せるのなら、間違いなくレイヴンは殺されているだろう。
だけどマリアンの顔は赤く腫れていて泣き通していたのだとわかる。
アリシアは、ここにいる。
確信したレイヴンが一歩踏み出した時、アダムの低い声が響いた。
「殿下、ここで何をしておられるのですか」
アダムの声は低く平坦で、何の感情も読み取ることができなかった。
だけど外はまだ明るく、いつもなら王宮にいる時間だ。
それなのに邸にいるのは、やはりアリシアがいるからだろう。レオナルドと一緒にアリシアを匿いながら、王宮へ戻ろうよう説得しているのだ。
「アリシアが昨日公爵邸へ戻ったと聞いた。迎えに来たんだ。今ならまだ誰にも知られていないから、そっと戻ることができる。アリシアに会わせてくれ!」
意気込むレイヴンに、アダムは不思議そうに首を傾げた。
その姿は普段王宮で目にしている宰相そのものだ。
「おかしなことを仰いますね。あの子は規律を破りました。皆の規範となるべき王太子妃が、規律を破って王宮を抜け出したのです。戻ることは許されません。あの子は修道院に入れます」
「なんだって?!」
レイヴンは仰天した。
アダムはアリシアを可愛がっていたはずだ。修道院へ入れたいはずがない。
それにもしこのことが公になれば、アリシアだけではなく公爵家も咎めを受けるとになる。
それなのに公にして、娘を修道院へ入れると言うのか。
今ならば誰にも知られず穏便に、王宮へ戻ることができると言っているのに。
「あの子が望んだことです。あの子は殿下と離縁を望んでいます。もし少しでもお慈悲があるのでしたら、最後の願いを聞いてやってください」
「何を言っている……?」
慈悲とは何だ?
最後の願いとは、何のことだ?
何もなかったことにして、王宮へ戻ることができると言っているのに、それ以上の望みがあるのか……?
「……娘は、殿下と側妃様を近くで見ているのが辛いのですよ。殿下に顧みられないまま、お傍にいるのが辛いのです」
「っ!!それは……っ!!」
昨日見たアリシアの顔が蘇る。
レイヴンがアリシアとの約束を忘れていたと知った時、絶望的な顔をしていた。
そして約束を思い出した後も、シーラを優先して譲るよう告げたレイヴンに、哀しみに満ちた目を向けていた。
誇り高いアリシアは弱いところを見せないようすぐに取り繕ってしまったけれど、レイヴンは確かに、アリシアが隠した淋しさと哀しみに気づいていた。
勢いをなくして青褪めたレイヴンに、アダムが淡々と告げる。
「お判りいただけましたか。それでは王宮へお戻りください。護衛を置いて来てしまったようですので、我が家の騎士を護衛にお付けしましょう」
「いや、嫌だ……っ!アリシアっ、アリシアに、、、会わせてくれ!アリシアに会いたい。会って、話がしたい。謝るから……っ!これからは、大切にする。あんなことは二度としない。二度とあんな思いはさせないと、誓うから……!!」
レイヴンの頬を涙がぽろぽろと伝う。
だけどアダムはゆるゆると頭を振った。
「アリシアはもう、この邸にいません。レオナルドが領地へ送っています。領地で修道院に入れる予定です」
「そんなっ!!すぐに止めてくれ!どこの領地だ?!すぐに迎えを……っ!!」
「殿下、もう事は起こりました。もう何をしても無駄なことです」
「そんなっ!そんなはずはない……っ!!」
泣き崩れたレイヴンは、それからどうやって王宮へ戻ったのか覚えていなかった。
現実が受け止められないまま、アリシアとの夫婦の寝室へ入る。
消沈したままアリシアの面影を求めて部屋を見渡したレイヴンは、窓辺に置かれたプレスレットに気がつき凍り付いた。
これはアリシアと街でデートした時に記念として買ったものだ。
学生時代に果たせなかった街でのデートをして、お揃いで買った。
王太子夫妻が身につけるには安価過ぎる品だが、学生ならおかしくない。
学生時代、お揃いの装飾品を身につける婚約者たちが羨ましくて、レイヴンもいつかアリシアと、と願っていた。
そうだ、あの日。
念願だった街でのデートをして、お揃いのブレスレットを買った。
帰り道ではおかしなことにアリシアが公爵邸に帰ってしまう気がして、アリシアに縋りついたのだ。
あの時アリシアは、公爵邸に帰ったりしない、ずっと傍にいる、と言ってくれたのに、ブレスレットを置いて行ってしまったのか。
レイヴンはブレスレットを握り締めて泣き崩れた。
後悔してももう遅い。
あの時の幸せな2人を壊したのはレイヴンだ。
床に蹲り、散々泣いたレイヴンは、疲れ果てて崩れるようにベッドへ倒れこんだ。
誰もいないベッドはだだっ広くて冷たい。
「寒いよ、アリシア」
言葉と同時に涙が零れ落ちる。
「アリシアに会いたい。1人じゃ淋しいんだ」
零れた涙が枕に染みを作っていく。
アリシアはずっとこんな思いをしていたのだろうか。
レイヴンは堪えきれず、声を上げて泣き出した。
この日、レイヴンは一睡もできずにただ泣き続けていた。
それからレイヴンの生活は一変した。
朝起きたら自室で朝食を摂り、執務室へ向かう。
昼食も休憩も取らずに執務をこなした後、陽が落ちると闇に紛れてルトビア公爵邸へ向かい、がっくりと項垂れて帰ってくる、
そして王太子夫妻の寝室でアリシアの残した夜着を抱き締め、泣きながら眠りに落ちる。
シーラの元へ行くことも、第一王子に会うこともなくなっていた。
あれから、レイヴンはフランクに調べさせた。
アリシアが王太子宮を抜け出したあの日、確かに公爵邸から馬車が1台、宵闇に紛れて出立していた。その馬車はまだ公爵邸へ戻っていないという。
その馬車にアリシアとレオナルドが乗っていたのかわからないが、レオナルドはあれからずっと休んでいる。
レイヴンがルトビア公爵邸へ行くのは、アリシアをまだ諦めてないからだ。
どれだけアリシアが望んだとしても、レオナルドがアリシアを修道院へ入れるとは思えない。途中で留まり、戻るように説得しているはずだ。
だからレイヴンが迎えに行く。
その為には、2人がどこへ向かったのか訊き出さなくてはならない。
「殿下、ご気分はいかがですか?」
「……最悪だよ」
暗い顔のレイヴンを侍医長が痛ましそうな顔で見下ろす。
あれからアリシアの不在を誤魔化すために、レイヴンはアリシアが病気で療養中だと発表した。
それならば表に姿を見せなくても納得される。
ただ、不調の王太子妃が侍医の診察を受けないのは有り得ない。だからレイヴンは侍医長を仲間に引き入れることにした。
侍医長は毎朝アリシアの部屋を訪れ、アリシアの診察と治療をしているふりをする。
だけど侍医長が本当に診ているのはレイヴンだ。
侍医長は顔色悪く日ごとに窶れていくレイヴンを心から案じていた。
シーラからは、殿舎へ来て欲しいと毎日文が届く。
レイヴンはそれが鬱陶しくて握り潰す。
今ではなぜあんなに大切にしていたのかわからない。
むしろこうなったのはシーラの策略ではないかと疑いさえ抱いていた。
レイヴンがシーラの元に留まるようになったのは、シーラに縋られたからだ。
シーラが王子を生んでもアリシアに子が生まれれば、王太子になるのはアリシアの子である。
その時、シーラや第一王子はどうなるのか。
王妃や王太子に恨まれた2人に未来はない。
そう言って泣くシーラを憐れに思ったレイヴンは、シーラの元を離れられなくなった。
王位に就けなくとも王子を大切にしていると、周囲に知らしめないといけないと思ったからだ。
そう、初めはそれだけだった。
それがなぜ、第一王子を王太子位に就ける気になっていたのか。
アリシアに子が生まれないと思っていたのか。
考えてみてもわからない。
それだけ上手くシーラに操られていたのだろう。
思えばあの不安がる素振りも演技なのかもしれない。
シーラが恐れていたのは、アリシアに子が生まれることだ。
だけどレイヴンがアリシアの元を訪れなければ子ができることはない。シーラは不安を根本から断ち切ることに成功していたのだ。
そしてあの日のことである。
レイヴンはシーラと朝食を摂りながら、アリシアとの約束をうっかり話してしまったのだ。
だけど正妃とお茶を飲むなんて当然のことである。レイヴンはそれが問題とも思わず、シーラに話したことさえ忘れていた。
そして昼食を終えた昼過ぎに、親族を連れたシーラがレイヴンの執務室を訪ねて来た。
普段であればレイヴンも執務中に宴会など認めない。
だけど目を輝かせたシーラに、「普段は領地にいる祖父母が急に会いに来て下さったのです」と言われたレイヴンは。駄目だと言えずに今日だけは仕方ないかと認めてしまったのだ。
だけど今思えばそれも怪しい。
遠方の親族がそんなに都合よく訪ねて来るだろうか?
フランクに調べさせると、あの日の午前中、シーラの殿舎から伯爵邸へ使いが出されていたという。
使いの目的が何かは容易に想像できた。
祖父母である前伯爵夫妻も王都の邸にいたようだ。
半年前、ひ孫の誕生に立ち会う為に王宮を訪れていた前伯爵夫妻は、そのまま王都の伯爵邸に留まっていた。
こうした時の為に身を潜めていたのだろう。そして孫の要請に応え、レイヴンとアリシアの仲を引き裂く為にやってきた。
またしてもレイヴンはまんまと乗せられたのだ。
悔しくて顔が歪む。
文を握り潰した拳を机に打ち付けた。
だけどそんなことをしても何の解決にもならない。
レイヴンは唇を噛みしめると、また執務に戻った。
執務に集中している時だけアリシアを失った痛みを忘れていられるのだ。
王宮では、日々顔色悪く窶れていくレイヴンが病に倒れたアリシアを案じていると言われるようになり、シーラが寵愛を失ったと言われるようになっていた。
そしてこの日。
レイヴンはいつものようにルトビア公爵邸を訪れていた。
最近ではもう、使用人が出てくることもない。しつこい王太子を相手にするのはアダムだけになっている。
玄関ホールへ出て来たアダムにレイヴンは今日も縋りついた。
アリシアに会いたいのだと、行き先を教えてくれと懇願をする。
日々顔色を悪くして痩せていくレイヴンをアダムも持て余しているようで、うんざりしたような顔をしていた。
そこに玄関の扉が開く。
「レイヴン殿下?ここで何をしておられるのです?」
聞きたかった懐かしい声に、レイヴンがパッと振り返る。
そこには外套を身に纏ったレオナルドが立っていた。不思議そうな顔でレイヴンを見つめている。
「レオナルド!いや、レオ!!アリシアはどこにいる?!迎えに来たんだ!!アリシアに会わせてくれ!!」
レイヴンはいつからか呼ばなくなっていた愛称を呼びながら、レオナルドに詰め寄った。
レオナルドが戻って来たなら、アリシアも戻って来たはずである。
アリシアはまだ怒っているかもしれない。
だけどアリシアなら誠心誠意謝れば許してくれる。
そんな確信じみた思いがあった。
だけどレオナルドは困惑したように首を傾げる。
「父から聞きませんでしたか?アリシアは修道院へ行きました。もう戻ることはありません」
「………………なに?」
自然と言葉が滑り落ちる。
愕然としたレイヴンに、アダムがやれやれと首を振った。
「何度もそう申し上げたのだがな。信じて下さらんのだ」
「だってそれは……。レオがそんなこと、認めるはずがないと……」
呆然とするレイヴンにレオナルドが首を振る。
カッとなったレイヴンはレオナルドに掴みかかった。
「そうだ!認めるはずがないと思っていた!レオナルドならアリシアを戻るように説得してくれると……っ!それなのに、認めたのか?!なぜ説得しなかった!!なぜ……っ!!」
「アリシアが心から望んでいるのです。仕方ないでしょう」
激高したレイヴンを気にも留めず、レオナルドがそう言った。
この時初めてレオナルドの顔に怒りが浮かぶ。
レイヴンなど比にならない程の怒りをレオナルドは放っていた。
「アリシアが大切ですか。今更アリシアに会いたいと?それではなぜ、殿下はアリシアを放っておいたのです?側妃が先に懐妊したのは仕方がありません。そういうこともあるでしょう。それは運命です。ですが、王子が生まれてから一度もアリシアの元を訪れなかったのはなぜですか?せめて食事などでも一緒にしていただけたらと、わたしは何度もお願い致しました」
「それは……っ」
シーラに操られていたからだ。
アリシアに寵愛が戻ることを不安がるシーラを1人にすることができなかった。
それに第一王子の将来も案じていた。
身分に劣る王子を守る為には、側妃を大切にするしかないと思ったのだ。
だけどそんなことは言えない。
2人を引き裂く策略だと疑いもせずにシーラの傍にいることを選んだのはレイヴンだ。
そして第一王子を王太子に、と思うようになったのも、レイヴンの意志である。
どちらも自分で選んだ結果だった。
俯いたレイヴンを見て、レオナルドが大きく息を吐く。
上手く怒りを隠したレオナルドが冷静な顔をレイヴンへ向ける。
だけど紡がれた言葉は残酷なものだった。
「王宮から戻ったアリシアは絶望していました。そのまま放っておくと命を絶つのではないかと不安になったほどです。そんなアリシアが殿下と離縁したいと、修道院へ入りたいと、自ら望んだのです。アリシアの心を守る為には、叶えてやるしかありませんでした」
「……っ!!どこの修道院だ?!教えてくれ!!すぐに迎えに行く!迎えに行って、謝るから……っ!!」
レオナルドが姿を消していたのは10日である。
片道5日のところへ行っていたのか。
だけど途中でアリシアを説得していたならそれに時間を取られたかもしれない。
とにかくアリシアに会いたいレイヴンは、すぐに飛び出したくて焦っていた。
「無駄ですよ。アリシアは、殿下がそう言うかもしれないと案じていました。なので領地でも厳格な修道院を選んでいます。夫が迎えに行っても会わせてもらえません。それどころか男性禁制ですので親族でも男は中に入れません。わたしがアリシアと会えることも、もうないでしょう」
そう言うと、レオナルドの目から涙が落ちた。
堰を切ったように涙が溢れてくる。
その涙を、レイヴンは呆然と見つめていた。
「そんな……。アリシアに、二度と会えないのか?謝ることすら、できないのか……っ?!」
レイヴンの目からも涙が溢れてくる。
だけど思いきることはできない。
レイヴンが最後に見たのは、絶望したアリシアの顔だ。
約束を忘れ、シーラを優先したレイヴンに絶望していた。
あの顔が頭から離れない。
あんな表情をさせたのが最後だなんて、とても受け入れることができなかった。
「……修道院の場所を教えてくれ。会わせてもらえなくても、会いに行く。会わせてもらえるまで会いに行く……っ!!アリシアに謝るだけでもいい。許してもらえなくても良いから、謝りたいんだ!」
「……アリシアの名誉を傷つけてもですか?」
「っ!!」
レイヴンはハッとした。
これまで公爵邸を訪ねるばかりでアリシアの行方を探さなかったのは、アリシアの不在を隠す為だ。
大掛かりな捜索を行えば、人目についてアリシアの不在が知られることになる。
そうしたらアリシアは二度と戻れない。
不祥事を起こしたアリシアは、そのまま修道院に入るしかなくなるのだ。
だから独自に探すことができず、アダムから聞き出すしかなかった。
レイヴンが修道院へ通うのも同じことである。
片道に何日も掛かる修道院へ密かに通うことはできない。
修道院に誰がいるのか、必ず噂になる。
ルトビア公爵家の領地にある修道院では、アリシアがいると言っているようなものだ。
すぐにアリシアの不在が公になり、二度と戻ってこられないだけではなく、規律を破って廃された元王太子妃として名誉も失うのだ。
アリシアの名誉を守る為には、このまま時間を置いて病死したことにするしかない。
「……アリシアのことは、もうお諦め下さい。そっとしておいてやっていただけませんか。アリシアは王宮で散々傷つきました。もう充分でしょう」
殿下には王子がいらっしゃいます。王子と側妃様を大切にしてあげて下さい。
そう言われたレイヴンは、返す言葉がなかった。
レオナルドは近く側近の職も辞すという。
アリシアの暮らす修道院の為にも、領地が発展するよう経営に専念するというのだ。
愛妃と側近、そして親友を失ったレイヴンは、とぼとぼと帰路についた。
これまでとは違って一欠けらも希望が残されていない。
ここを訪れることは二度とないだろう。
玄関を出たレイヴンは一度だけ振り返り、馬に乗って項垂れたまま帰っていった。
レオナルドはがっくりと肩を落としたレイヴンが玄関を出ていくのを見送ると、2階へ続く階段を上ってある部屋まで来ると無言のまま扉を開く。
「本当にあれで良かったのか?アリシア」
先程レイヴンに告げられた言葉はすべて偽りだった。
アリシアもレオナルドもずっとこの邸にいたのだ。
あの日馬車で出て行ったのは馭者だけである。
そしていつまでも諦めないレイヴンに引導を渡す為、夕方邸を抜け出したレオナルドが頃合いを見て戻って来た。
「ええ、ありがとう。お兄様」
窓辺に座ったアリシアが振り返り、薄く笑った。
だけどすぐに窓の外へ視線を戻す。
窓の外には項垂れたまま馬に乗るレイヴンの姿が見えた。
あの様子ではレオナルドの話を信じたに違いない。
レイヴンがこの邸を訪れることはもうないだろう。
本当にこれが、見納めになる。
「さようなら」
遠くなる背中にアリシアは呟いた。
涙がすぅっと頬を流れる。
傍へ来たレオナルドがアリシアを抱き寄せる。
アリシアはレイヴンを見つめたままレオナルドに凭れて涙を零していた。
そうしてレイヴンの背中が見えなくなるまで見送ったアリシアは、レオナルドに抱き着いていつまでも泣き続けた。
「………………っ!!」
「………………っ!!」
レイヴンとアリシアは同時に飛び起きていた。
嫌な汗が伝い、動悸が激しく打っている。
激しい鼓動に胸を押さえた2人は、そろそろと隣を窺った。
愛する人が同じ表情をして、こちらを窺っている。
「夢……?」
「夢か……っ」
同時に呟き、互いに目を見張る。
まるで鏡を見ているように同時に腕を伸ばして強く抱き締め合った。
2人とも小刻みに震えている。
激しく打つ鼓動はどちらのものかわからない。
「夢を、見ていた。嫌な夢を……っ」
「私も、夢を見ました。嫌な夢でした……」
またぎゅっと力を込めて抱き締め合う。
互いに口に出さないのに、同じ夢を見ていたのだと本能的に察していた。
あんな夢を見たのは、久しぶりに閨がなかったからかもしれない。
閨がなかったのは、アリシアに月のモノが来たからだ。
落胆が不安となって夢に現れたのか。
しばらく抱き合っていた2人は、震えが治まるのを待ってまたベッドへ横になった。
二度とあんな悪夢は見たくない。
悪夢が訪れないように願いながら、互いにぎゅっと抱き締め合った。
レイヴンは、アリシアが寝付くまで優しく背中を撫でていた。
穏やかな寝息を聞いていると不安が薄れて温かい気持ちになる。
もう眠れないと思っていたのに、アリシアの寝息を聞きながらいつの間にか眠りに落ちていた。
自分の部屋もすぐそこにあるのに、この場所を訪れるのは随分と久しぶりである。
昨日、アリシアには申し訳ないことをしてしまった。
朝、執務室へ向かうまでは約束を覚えていたのに、シーラと昼食を摂り、息子と遊ぶうちにすっかり忘れてしまったのだ。
以前であれば何かと忠告してくれていたレオナルドは、レイヴンがアリシアの元へ戻らず、シーラのところへ留まるようになってからすっかり疎遠になってしまった。今も側近として仕事をしているが、以前のように気軽く執務室を訪ねて来ることはない。
レイヴンが約束を忘れていたと気づいた時の、アリシアの傷ついた顔を思い出すと申し訳ない気持ちが込み上げてきて足取りが重くなる。
レイヴンは罪悪感を振り払うように強く頭を振った。
レイヴンの中にアリシアを想う気持ちがなくなったわけではない。
今でも変わらず愛しく思っている。
だけど今のレイヴンには息子が――第一王子がいるのだ。
レイヴンが即位した後、第一王子が王太子となる。
王太子の足場を固める為にも生母を邪険に扱うわけにはいかない。
そう思い、シーラの元へ通う内に情が湧いてシーラへ向ける気持ちの比重が重くなってしまった。
アリシアの部屋の扉を叩くとエレノアが姿を見せる。
だけどエレノアは、レイヴンを中へ入れずに表に出てきて後ろ手に扉を閉めた。
「申し訳ありません、殿下。妃殿下は体調がすぐれず、本日の約束はお断りしたいとのご意向です」
「なんだって……?」
レイヴンの顔色が変わる。
アリシアが体調不良を人に見せることはない。いつもぎりぎりまで我慢している。
そのアリシアがレイヴンに会えない程具合が悪いというのなら、それは相当酷いということだ。
アリシアを想う気持ちが消えたわけではないのだ。レイヴンの中を占めていた罪悪感が一瞬で消え、アリシアを案じる気持ちで占められる。
「そんなに悪いのか?!約束なんて良い!見舞うから中へ入れてくれ!!」
レイヴンが慌てた声を上げる。
だけどエレノアが動くことはなく、不思議そうな顔をレイヴンへ向けていた。
「妃殿下を心配されるのですか……?」
その言葉にレイヴンは愕然とした。
アリシアを愛している。
心配するのは当然のことだ。
確かに最近はあまりアリシアと会っていなかったけれど、レイヴンの気持ちを知っているはずのエレノアがそんなことを言うなんて。
「申し訳ありません。殿下が妃殿下の見舞いを望まれるとは思わず、支度ができておりません。今日のところはお引き取り下さいませ」
呆然とするレイヴンをよそに、一礼したエレノアが室内へ戻ろうとする。
レイヴンは慌ててエレノアを止めた。
「支度なんて良い。具合が悪いのだから出来ていなくて当然だろう。横になったままで構わないから、アリシアに会わせてくれ」
「妃殿下は望んでおられません」
にべもない答えにカッとなる。だけどここでエレノアを怒らせるのは得策ではない。
そう思ったレイヴンは、その気持ちを抑えて冷静に問い掛けた。
「アリシアはいつから寝付いてるんだ?侍医は何と言っている?」
「……侍医には診せておりません」
「診せていない?なぜだ?!」
「妃殿下が、その必要はないと仰いましたので」
アリシアは体調を崩したことを人に知られてはいけないと思ったのかもしれない。
それならやはり、アリシアに会わなくてはならない。
会って、侍医に診せるよう説得しなくては。
「僕がアリシアと話す。中へ入れてくれ」
「申し訳ありませんが、それはできかねます。」
「~~~~~~っ!!」
無表情のまま、エレノアが再度頭を下げる。
このままでは埒が明かない。
そう判断したレイヴンは、エレノアを押しのけて扉を開いた。
エレノアが抗議の声を上げるが、無視して大股で中へ入る。
部屋の中へ入った時、一瞬レイヴンの中に違和感が過った。
それが何かわからないまま、レイヴンはアリシアの寝室へ向かう。
レイヴンの部屋との間にある夫婦の寝室ではなく、部屋の反対側についているアリシア個人の寝室の方だ。
エレノアはもうレイヴンを止めようとせず、ただ冷たい目を向けていた。
「アリシア!!」
レイヴンが寝室の扉を開け放つ。
だけど寝室にアリシアの姿はなかった。
それどころか、綺麗に整いすぎていて使用感がまるでない。
「え……?」
棒立ちになったレイヴンだったが、すぐその可能性に思い当った。
アリシアは今も夫婦の寝室を使っているのだ。
瞬間、鋭い痛みが胸を過るが無視して夫婦の寝室へ向かう。
だけどそこにもアリシアの姿はなかった。
こちらの寝室で使われているシーツや飾られた小物はアリシアの好みのもので、今も使われていることがわかる。
だけどベッドは綺麗に整えられていて、誰かが寝ていた形跡はなかった。
「どういうことだ……?」
呆然と呟いたレイヴンがアリシアの部屋へ戻る。
勿論この部屋にもアリシアの姿はない。レイヴンは壁際に立つエレノアへ視線を向けた。
「アリシアはどこへ行ったんだ……?具合が悪いんじゃなかったのか?」
エレノアは答えない。
苛立ったレイヴンが、「エレノア!」と強く呼びかけると、表情を変えないまま淡々と口を開いた。
「妃殿下はもう王太子宮にはいらっしゃいません。ご実家に、お戻りになられました」
「何を言ってるんだ……?」
意味が分からず問い返す。
アリシアが実家へ戻るなんて有り得ない。
それは気持ちだけの問題ではなく、制度としての問題でもあった。
王族の一員となったアリシアに自由な里帰りは許されていない。許されるのは特定の時だけで、その時でも国王とレイヴンの許可が必要だ。
だけどレイヴンはそんな許可を出した覚えはなく、申請を受けた記憶もなかった。
もし許可なく勝手に帰ったのなら、それは重大な規律違反である。王太子妃であっても処罰の対処になる。
アリシアがそれを知らないはずがない。
それなのに本当に実家へ戻ったのだとしたら、例え処罰を受けたとしてもレイヴンと離れたかったということになる。
それはつまり――。
その可能性に思い当った時、レイヴンの視界から色が消えた。
「アリシアは、僕と別れたがっている……?」
「最近の殿下の振る舞いでは当然のことでしょう」
呆然と呟くレイヴンに、エレノアが冷たい声で応える。
レイヴンは反射的に言い返していた。
「そんなはずはない!アリシアは王太子妃であることに誇りを持っている!その地位を自ら捨てるなんて有り得ない!」
だけど叫びながら足が震えているのは、わかっているからだ。
そう、アリシアは王太子妃であることに誇りを持っている。
王太子妃として、正当に扱われることを何より望んでいる。
昨日の――いや、最近のレイヴンは、アリシアを王太子妃として遇していただろうか?
蔑ろにしていたのではないのか?
「嘘だ……。そんなはずはない。アリシアは昨日のことを怒ってるんだろう?怒っていて、どこかに隠れているんだろう?昨日のことは悪かったと思っている。謝るよ。謝るから、どこにいるのか教えてくれ」
そう言いながらも、これが嘘ではないと頭のどこかでわかっていた。
アリシアが無断で王太子宮を出て行った。
もしここでレイヴンが騒ぎ立てれば王宮中が騒ぎになる。
そうなってしまえば、例えそれが嘘であっても、いや、嘘だからこそアリシアは強い批判に晒されることになる。
アリシアがそんな危険を冒すはずがない。
だけどアリシアが出て行ったなんて、信じたくなかった。
救いを求めるようにのろのろと周りを見渡す。
そうだ。アリシアは出て行ってなんかいない――。
「……アリシアが出て行ったと言うなら、荷物はどうしたんだ?何もかもが残っているじゃないか。王太子妃が何も持たずにどこかへ行ったと言うのか……?」
「妃殿下は公爵家から持ってこられたものだけを荷物へ入れるよう仰られました。それ以外のものはすべて置いていくというのが妃殿下のご意思です」
「………っ!!」
レイヴンはもう一度辺りを見渡した。
注意深く見渡す内に部屋へ入った時に感じた違和感の正体に気がつく。
部屋の中からアリシアが大切にしていたものがいくつか消えているのだ。
そう、ちょっとした小物や飾りのいくつかである。
反対に残されているものは、初めからこの部屋にあったものだ。
その他にも、レイヴンが贈ったものも残されている。
「―――!!」
レイヴンはドレッシングルームへ走った。
クローゼットを開け放つ。
クローゼットには少しだけ余裕があり、ほとんどのドレスが残されていた。
アリシアが必要に応じて購入したドレスも、レイヴンが贈った青色のドレスもすべて残っている。
装飾品を収める小箱を開けると、これもクローゼットと同じだった。
サファイアのついた首飾りや髪飾りと並んで、幼いレイヴンが購入したまま贈れなかったブローチやリボンが残されている。
やっと贈ることができたのに、アリシアは置いていってしまったのだ。
「殿下、こちらを妃殿下より預かりました。高価なものなので直接お渡しするようにと」
呼び掛けられてのろのろ振り返ると、エレノアが差し出していたのはシェルツ国の扇だった。
これは、2人の子どもに受け継がせるはずの扇である。
流行遅れの扇は代々受け継がれる内にアンティークになると、アリシアが言ってくれたのに。
だけど2人の間には子どもがいない。
そしてこれから先も、もうレイヴンとの間に子を作るつもりはないということなのか。
震える手で扇を受け取ったレイヴンはその場で膝をついた。
涙が溢れてくる。
泣き崩れるレイヴンを無表情で見ていたエレノアが、淡々とした声でこう言った。
「妃殿下が高価なものを持たずに出られたのも当然ではないでしょうか。修道院に派手な装飾品など持っていけないのですから」
その言葉にハッとする。
他の貴族とは違って王族になった妃が離縁しても実家に戻されることはない。辺境の離宮に押し込められるか修道院へやられるのが通例である。
アリシアも王太子妃として顔を知られている以上、実家に戻って再嫁先を探すようなことは考えられなかった。
だけど公爵家にはレオナルドがいる。
アリシアを溺愛しているレオナルドが、アリシアを修道院へ入れるはずがないのだ。
思えば今日、レオナルドは休んでいる。
公爵邸に戻ったアリシアを宥めながら、王宮へ戻るよう説得しているに違いない。
気がつけばレイヴンは駆け出していた。
「馬を!馬の用意をしろ!!」
叫びながら厩舎へ駆け込む。
鞍が付けられるのを待って馬に飛び乗ると、そのまま駆け出した。
「殿下?!」
護衛の騎士が驚いて声を上げる。
だけどレイヴンは護衛のことなど考えられなかった。
大体護衛を連れて公爵邸へ行ってしまったら、アリシアが公爵邸に戻っていることがバレてしまうではないか。
アリシアを王太子宮に戻す為には、アリシアの不在を人に知られるわけにはいかないのだ。
レイヴンは公爵邸までの道を駆け抜ける。
行き会った人たちが慌てて端へ避けるが、周りのことなど気にかける余裕はなかった。
そのままの勢いで公爵邸まで駆けつけたレイヴンに、門番や騎士が警戒する素振りを見せる。だけど公爵家の者がレイヴンの顔を知らないはずがない。元より王太子の肖像画は出回っている。
名乗るまでもなくレイヴンに気づいた門番が慌てて門を開いた。
邸の入り口に着くと馬を飛び降りる。
玄関の扉が開くのを待つ余裕も、家令の出迎えを受ける余裕もなく、レイヴンは玄関ホールへ駆け込んだ。
「アリシアっ!!」
駆け込みながら、レイヴンが叫ぶ。
騒ぎを聞きつけた使用人たちが何事かと姿を見せる中、レイヴンは家令に詰め寄った。
「アリシアはどこだ?!話がしたい!すぐに会わせてくれ!!」
だけど家令は近くの侍女と顔を見合わせるばかりで動こうとしない。
焦れるレイヴンが視線を感じて顔を上げると、螺旋階段の上からマリアンがこちらを見下ろしていた。鋭い視線でレイヴンを睨みつけている。
マリアンに良い感情を持たれていないことはわかっていた。
マリアンは、アリシアを婚約者として大切にしないレイヴンを嫌っている。
今、レイヴンを睨みつける視線はその時より何倍も鋭く、視線だけで人を殺せるのなら、間違いなくレイヴンは殺されているだろう。
だけどマリアンの顔は赤く腫れていて泣き通していたのだとわかる。
アリシアは、ここにいる。
確信したレイヴンが一歩踏み出した時、アダムの低い声が響いた。
「殿下、ここで何をしておられるのですか」
アダムの声は低く平坦で、何の感情も読み取ることができなかった。
だけど外はまだ明るく、いつもなら王宮にいる時間だ。
それなのに邸にいるのは、やはりアリシアがいるからだろう。レオナルドと一緒にアリシアを匿いながら、王宮へ戻ろうよう説得しているのだ。
「アリシアが昨日公爵邸へ戻ったと聞いた。迎えに来たんだ。今ならまだ誰にも知られていないから、そっと戻ることができる。アリシアに会わせてくれ!」
意気込むレイヴンに、アダムは不思議そうに首を傾げた。
その姿は普段王宮で目にしている宰相そのものだ。
「おかしなことを仰いますね。あの子は規律を破りました。皆の規範となるべき王太子妃が、規律を破って王宮を抜け出したのです。戻ることは許されません。あの子は修道院に入れます」
「なんだって?!」
レイヴンは仰天した。
アダムはアリシアを可愛がっていたはずだ。修道院へ入れたいはずがない。
それにもしこのことが公になれば、アリシアだけではなく公爵家も咎めを受けるとになる。
それなのに公にして、娘を修道院へ入れると言うのか。
今ならば誰にも知られず穏便に、王宮へ戻ることができると言っているのに。
「あの子が望んだことです。あの子は殿下と離縁を望んでいます。もし少しでもお慈悲があるのでしたら、最後の願いを聞いてやってください」
「何を言っている……?」
慈悲とは何だ?
最後の願いとは、何のことだ?
何もなかったことにして、王宮へ戻ることができると言っているのに、それ以上の望みがあるのか……?
「……娘は、殿下と側妃様を近くで見ているのが辛いのですよ。殿下に顧みられないまま、お傍にいるのが辛いのです」
「っ!!それは……っ!!」
昨日見たアリシアの顔が蘇る。
レイヴンがアリシアとの約束を忘れていたと知った時、絶望的な顔をしていた。
そして約束を思い出した後も、シーラを優先して譲るよう告げたレイヴンに、哀しみに満ちた目を向けていた。
誇り高いアリシアは弱いところを見せないようすぐに取り繕ってしまったけれど、レイヴンは確かに、アリシアが隠した淋しさと哀しみに気づいていた。
勢いをなくして青褪めたレイヴンに、アダムが淡々と告げる。
「お判りいただけましたか。それでは王宮へお戻りください。護衛を置いて来てしまったようですので、我が家の騎士を護衛にお付けしましょう」
「いや、嫌だ……っ!アリシアっ、アリシアに、、、会わせてくれ!アリシアに会いたい。会って、話がしたい。謝るから……っ!これからは、大切にする。あんなことは二度としない。二度とあんな思いはさせないと、誓うから……!!」
レイヴンの頬を涙がぽろぽろと伝う。
だけどアダムはゆるゆると頭を振った。
「アリシアはもう、この邸にいません。レオナルドが領地へ送っています。領地で修道院に入れる予定です」
「そんなっ!!すぐに止めてくれ!どこの領地だ?!すぐに迎えを……っ!!」
「殿下、もう事は起こりました。もう何をしても無駄なことです」
「そんなっ!そんなはずはない……っ!!」
泣き崩れたレイヴンは、それからどうやって王宮へ戻ったのか覚えていなかった。
現実が受け止められないまま、アリシアとの夫婦の寝室へ入る。
消沈したままアリシアの面影を求めて部屋を見渡したレイヴンは、窓辺に置かれたプレスレットに気がつき凍り付いた。
これはアリシアと街でデートした時に記念として買ったものだ。
学生時代に果たせなかった街でのデートをして、お揃いで買った。
王太子夫妻が身につけるには安価過ぎる品だが、学生ならおかしくない。
学生時代、お揃いの装飾品を身につける婚約者たちが羨ましくて、レイヴンもいつかアリシアと、と願っていた。
そうだ、あの日。
念願だった街でのデートをして、お揃いのブレスレットを買った。
帰り道ではおかしなことにアリシアが公爵邸に帰ってしまう気がして、アリシアに縋りついたのだ。
あの時アリシアは、公爵邸に帰ったりしない、ずっと傍にいる、と言ってくれたのに、ブレスレットを置いて行ってしまったのか。
レイヴンはブレスレットを握り締めて泣き崩れた。
後悔してももう遅い。
あの時の幸せな2人を壊したのはレイヴンだ。
床に蹲り、散々泣いたレイヴンは、疲れ果てて崩れるようにベッドへ倒れこんだ。
誰もいないベッドはだだっ広くて冷たい。
「寒いよ、アリシア」
言葉と同時に涙が零れ落ちる。
「アリシアに会いたい。1人じゃ淋しいんだ」
零れた涙が枕に染みを作っていく。
アリシアはずっとこんな思いをしていたのだろうか。
レイヴンは堪えきれず、声を上げて泣き出した。
この日、レイヴンは一睡もできずにただ泣き続けていた。
それからレイヴンの生活は一変した。
朝起きたら自室で朝食を摂り、執務室へ向かう。
昼食も休憩も取らずに執務をこなした後、陽が落ちると闇に紛れてルトビア公爵邸へ向かい、がっくりと項垂れて帰ってくる、
そして王太子夫妻の寝室でアリシアの残した夜着を抱き締め、泣きながら眠りに落ちる。
シーラの元へ行くことも、第一王子に会うこともなくなっていた。
あれから、レイヴンはフランクに調べさせた。
アリシアが王太子宮を抜け出したあの日、確かに公爵邸から馬車が1台、宵闇に紛れて出立していた。その馬車はまだ公爵邸へ戻っていないという。
その馬車にアリシアとレオナルドが乗っていたのかわからないが、レオナルドはあれからずっと休んでいる。
レイヴンがルトビア公爵邸へ行くのは、アリシアをまだ諦めてないからだ。
どれだけアリシアが望んだとしても、レオナルドがアリシアを修道院へ入れるとは思えない。途中で留まり、戻るように説得しているはずだ。
だからレイヴンが迎えに行く。
その為には、2人がどこへ向かったのか訊き出さなくてはならない。
「殿下、ご気分はいかがですか?」
「……最悪だよ」
暗い顔のレイヴンを侍医長が痛ましそうな顔で見下ろす。
あれからアリシアの不在を誤魔化すために、レイヴンはアリシアが病気で療養中だと発表した。
それならば表に姿を見せなくても納得される。
ただ、不調の王太子妃が侍医の診察を受けないのは有り得ない。だからレイヴンは侍医長を仲間に引き入れることにした。
侍医長は毎朝アリシアの部屋を訪れ、アリシアの診察と治療をしているふりをする。
だけど侍医長が本当に診ているのはレイヴンだ。
侍医長は顔色悪く日ごとに窶れていくレイヴンを心から案じていた。
シーラからは、殿舎へ来て欲しいと毎日文が届く。
レイヴンはそれが鬱陶しくて握り潰す。
今ではなぜあんなに大切にしていたのかわからない。
むしろこうなったのはシーラの策略ではないかと疑いさえ抱いていた。
レイヴンがシーラの元に留まるようになったのは、シーラに縋られたからだ。
シーラが王子を生んでもアリシアに子が生まれれば、王太子になるのはアリシアの子である。
その時、シーラや第一王子はどうなるのか。
王妃や王太子に恨まれた2人に未来はない。
そう言って泣くシーラを憐れに思ったレイヴンは、シーラの元を離れられなくなった。
王位に就けなくとも王子を大切にしていると、周囲に知らしめないといけないと思ったからだ。
そう、初めはそれだけだった。
それがなぜ、第一王子を王太子位に就ける気になっていたのか。
アリシアに子が生まれないと思っていたのか。
考えてみてもわからない。
それだけ上手くシーラに操られていたのだろう。
思えばあの不安がる素振りも演技なのかもしれない。
シーラが恐れていたのは、アリシアに子が生まれることだ。
だけどレイヴンがアリシアの元を訪れなければ子ができることはない。シーラは不安を根本から断ち切ることに成功していたのだ。
そしてあの日のことである。
レイヴンはシーラと朝食を摂りながら、アリシアとの約束をうっかり話してしまったのだ。
だけど正妃とお茶を飲むなんて当然のことである。レイヴンはそれが問題とも思わず、シーラに話したことさえ忘れていた。
そして昼食を終えた昼過ぎに、親族を連れたシーラがレイヴンの執務室を訪ねて来た。
普段であればレイヴンも執務中に宴会など認めない。
だけど目を輝かせたシーラに、「普段は領地にいる祖父母が急に会いに来て下さったのです」と言われたレイヴンは。駄目だと言えずに今日だけは仕方ないかと認めてしまったのだ。
だけど今思えばそれも怪しい。
遠方の親族がそんなに都合よく訪ねて来るだろうか?
フランクに調べさせると、あの日の午前中、シーラの殿舎から伯爵邸へ使いが出されていたという。
使いの目的が何かは容易に想像できた。
祖父母である前伯爵夫妻も王都の邸にいたようだ。
半年前、ひ孫の誕生に立ち会う為に王宮を訪れていた前伯爵夫妻は、そのまま王都の伯爵邸に留まっていた。
こうした時の為に身を潜めていたのだろう。そして孫の要請に応え、レイヴンとアリシアの仲を引き裂く為にやってきた。
またしてもレイヴンはまんまと乗せられたのだ。
悔しくて顔が歪む。
文を握り潰した拳を机に打ち付けた。
だけどそんなことをしても何の解決にもならない。
レイヴンは唇を噛みしめると、また執務に戻った。
執務に集中している時だけアリシアを失った痛みを忘れていられるのだ。
王宮では、日々顔色悪く窶れていくレイヴンが病に倒れたアリシアを案じていると言われるようになり、シーラが寵愛を失ったと言われるようになっていた。
そしてこの日。
レイヴンはいつものようにルトビア公爵邸を訪れていた。
最近ではもう、使用人が出てくることもない。しつこい王太子を相手にするのはアダムだけになっている。
玄関ホールへ出て来たアダムにレイヴンは今日も縋りついた。
アリシアに会いたいのだと、行き先を教えてくれと懇願をする。
日々顔色を悪くして痩せていくレイヴンをアダムも持て余しているようで、うんざりしたような顔をしていた。
そこに玄関の扉が開く。
「レイヴン殿下?ここで何をしておられるのです?」
聞きたかった懐かしい声に、レイヴンがパッと振り返る。
そこには外套を身に纏ったレオナルドが立っていた。不思議そうな顔でレイヴンを見つめている。
「レオナルド!いや、レオ!!アリシアはどこにいる?!迎えに来たんだ!!アリシアに会わせてくれ!!」
レイヴンはいつからか呼ばなくなっていた愛称を呼びながら、レオナルドに詰め寄った。
レオナルドが戻って来たなら、アリシアも戻って来たはずである。
アリシアはまだ怒っているかもしれない。
だけどアリシアなら誠心誠意謝れば許してくれる。
そんな確信じみた思いがあった。
だけどレオナルドは困惑したように首を傾げる。
「父から聞きませんでしたか?アリシアは修道院へ行きました。もう戻ることはありません」
「………………なに?」
自然と言葉が滑り落ちる。
愕然としたレイヴンに、アダムがやれやれと首を振った。
「何度もそう申し上げたのだがな。信じて下さらんのだ」
「だってそれは……。レオがそんなこと、認めるはずがないと……」
呆然とするレイヴンにレオナルドが首を振る。
カッとなったレイヴンはレオナルドに掴みかかった。
「そうだ!認めるはずがないと思っていた!レオナルドならアリシアを戻るように説得してくれると……っ!それなのに、認めたのか?!なぜ説得しなかった!!なぜ……っ!!」
「アリシアが心から望んでいるのです。仕方ないでしょう」
激高したレイヴンを気にも留めず、レオナルドがそう言った。
この時初めてレオナルドの顔に怒りが浮かぶ。
レイヴンなど比にならない程の怒りをレオナルドは放っていた。
「アリシアが大切ですか。今更アリシアに会いたいと?それではなぜ、殿下はアリシアを放っておいたのです?側妃が先に懐妊したのは仕方がありません。そういうこともあるでしょう。それは運命です。ですが、王子が生まれてから一度もアリシアの元を訪れなかったのはなぜですか?せめて食事などでも一緒にしていただけたらと、わたしは何度もお願い致しました」
「それは……っ」
シーラに操られていたからだ。
アリシアに寵愛が戻ることを不安がるシーラを1人にすることができなかった。
それに第一王子の将来も案じていた。
身分に劣る王子を守る為には、側妃を大切にするしかないと思ったのだ。
だけどそんなことは言えない。
2人を引き裂く策略だと疑いもせずにシーラの傍にいることを選んだのはレイヴンだ。
そして第一王子を王太子に、と思うようになったのも、レイヴンの意志である。
どちらも自分で選んだ結果だった。
俯いたレイヴンを見て、レオナルドが大きく息を吐く。
上手く怒りを隠したレオナルドが冷静な顔をレイヴンへ向ける。
だけど紡がれた言葉は残酷なものだった。
「王宮から戻ったアリシアは絶望していました。そのまま放っておくと命を絶つのではないかと不安になったほどです。そんなアリシアが殿下と離縁したいと、修道院へ入りたいと、自ら望んだのです。アリシアの心を守る為には、叶えてやるしかありませんでした」
「……っ!!どこの修道院だ?!教えてくれ!!すぐに迎えに行く!迎えに行って、謝るから……っ!!」
レオナルドが姿を消していたのは10日である。
片道5日のところへ行っていたのか。
だけど途中でアリシアを説得していたならそれに時間を取られたかもしれない。
とにかくアリシアに会いたいレイヴンは、すぐに飛び出したくて焦っていた。
「無駄ですよ。アリシアは、殿下がそう言うかもしれないと案じていました。なので領地でも厳格な修道院を選んでいます。夫が迎えに行っても会わせてもらえません。それどころか男性禁制ですので親族でも男は中に入れません。わたしがアリシアと会えることも、もうないでしょう」
そう言うと、レオナルドの目から涙が落ちた。
堰を切ったように涙が溢れてくる。
その涙を、レイヴンは呆然と見つめていた。
「そんな……。アリシアに、二度と会えないのか?謝ることすら、できないのか……っ?!」
レイヴンの目からも涙が溢れてくる。
だけど思いきることはできない。
レイヴンが最後に見たのは、絶望したアリシアの顔だ。
約束を忘れ、シーラを優先したレイヴンに絶望していた。
あの顔が頭から離れない。
あんな表情をさせたのが最後だなんて、とても受け入れることができなかった。
「……修道院の場所を教えてくれ。会わせてもらえなくても、会いに行く。会わせてもらえるまで会いに行く……っ!!アリシアに謝るだけでもいい。許してもらえなくても良いから、謝りたいんだ!」
「……アリシアの名誉を傷つけてもですか?」
「っ!!」
レイヴンはハッとした。
これまで公爵邸を訪ねるばかりでアリシアの行方を探さなかったのは、アリシアの不在を隠す為だ。
大掛かりな捜索を行えば、人目についてアリシアの不在が知られることになる。
そうしたらアリシアは二度と戻れない。
不祥事を起こしたアリシアは、そのまま修道院に入るしかなくなるのだ。
だから独自に探すことができず、アダムから聞き出すしかなかった。
レイヴンが修道院へ通うのも同じことである。
片道に何日も掛かる修道院へ密かに通うことはできない。
修道院に誰がいるのか、必ず噂になる。
ルトビア公爵家の領地にある修道院では、アリシアがいると言っているようなものだ。
すぐにアリシアの不在が公になり、二度と戻ってこられないだけではなく、規律を破って廃された元王太子妃として名誉も失うのだ。
アリシアの名誉を守る為には、このまま時間を置いて病死したことにするしかない。
「……アリシアのことは、もうお諦め下さい。そっとしておいてやっていただけませんか。アリシアは王宮で散々傷つきました。もう充分でしょう」
殿下には王子がいらっしゃいます。王子と側妃様を大切にしてあげて下さい。
そう言われたレイヴンは、返す言葉がなかった。
レオナルドは近く側近の職も辞すという。
アリシアの暮らす修道院の為にも、領地が発展するよう経営に専念するというのだ。
愛妃と側近、そして親友を失ったレイヴンは、とぼとぼと帰路についた。
これまでとは違って一欠けらも希望が残されていない。
ここを訪れることは二度とないだろう。
玄関を出たレイヴンは一度だけ振り返り、馬に乗って項垂れたまま帰っていった。
レオナルドはがっくりと肩を落としたレイヴンが玄関を出ていくのを見送ると、2階へ続く階段を上ってある部屋まで来ると無言のまま扉を開く。
「本当にあれで良かったのか?アリシア」
先程レイヴンに告げられた言葉はすべて偽りだった。
アリシアもレオナルドもずっとこの邸にいたのだ。
あの日馬車で出て行ったのは馭者だけである。
そしていつまでも諦めないレイヴンに引導を渡す為、夕方邸を抜け出したレオナルドが頃合いを見て戻って来た。
「ええ、ありがとう。お兄様」
窓辺に座ったアリシアが振り返り、薄く笑った。
だけどすぐに窓の外へ視線を戻す。
窓の外には項垂れたまま馬に乗るレイヴンの姿が見えた。
あの様子ではレオナルドの話を信じたに違いない。
レイヴンがこの邸を訪れることはもうないだろう。
本当にこれが、見納めになる。
「さようなら」
遠くなる背中にアリシアは呟いた。
涙がすぅっと頬を流れる。
傍へ来たレオナルドがアリシアを抱き寄せる。
アリシアはレイヴンを見つめたままレオナルドに凭れて涙を零していた。
そうしてレイヴンの背中が見えなくなるまで見送ったアリシアは、レオナルドに抱き着いていつまでも泣き続けた。
「………………っ!!」
「………………っ!!」
レイヴンとアリシアは同時に飛び起きていた。
嫌な汗が伝い、動悸が激しく打っている。
激しい鼓動に胸を押さえた2人は、そろそろと隣を窺った。
愛する人が同じ表情をして、こちらを窺っている。
「夢……?」
「夢か……っ」
同時に呟き、互いに目を見張る。
まるで鏡を見ているように同時に腕を伸ばして強く抱き締め合った。
2人とも小刻みに震えている。
激しく打つ鼓動はどちらのものかわからない。
「夢を、見ていた。嫌な夢を……っ」
「私も、夢を見ました。嫌な夢でした……」
またぎゅっと力を込めて抱き締め合う。
互いに口に出さないのに、同じ夢を見ていたのだと本能的に察していた。
あんな夢を見たのは、久しぶりに閨がなかったからかもしれない。
閨がなかったのは、アリシアに月のモノが来たからだ。
落胆が不安となって夢に現れたのか。
しばらく抱き合っていた2人は、震えが治まるのを待ってまたベッドへ横になった。
二度とあんな悪夢は見たくない。
悪夢が訪れないように願いながら、互いにぎゅっと抱き締め合った。
レイヴンは、アリシアが寝付くまで優しく背中を撫でていた。
穏やかな寝息を聞いていると不安が薄れて温かい気持ちになる。
もう眠れないと思っていたのに、アリシアの寝息を聞きながらいつの間にか眠りに落ちていた。
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