彼女が死んだ理由

みどり青

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昔の話をしよう。
あれは六年前、俺がまだ二十二歳だった頃の話だ。
いくつか受けた入社説明会、その中の一社で彼女に出会った。

一目惚れだった。
長い黒髪を一つに結んでいる姿が清楚だった。
資料を配る手元が美しかった。
壁際で立っているだけでも目を奪われた。

高校も大学もいいところを出て、持って生まれた容姿のおかげもあり、女に困ったことはなかった。
何人もの可愛い女や綺麗な女と、それなりに楽しいお付き合いをしたが、胸が震えるような経験をしたことはない。

ああ、俺は本気で人を好きになれない人間なんだ。
勉強も運動も人並み以上に出来るが、人間としての何かが欠けてるんだな。
そんなふうに、自分の冷えた感情に落胆したことさえあった。

それが今、話したこともない、視線さえ合わない彼女に、こんなにも胸が熱くなっている。
その衝撃といったら、何て言葉で表現したらいいのかわからないくらいだ。

俺は他の大手企業からの内定を蹴って、彼女のいる会社に就職した。
どうしても接点が欲しかった。彼女と出会いさえすれば、後はどうとでもなると思っていたのだ。
いざ入社したら、教育係として紹介されたのが、なんと彼女だった!
これはもう運命だろう!
よくあるじゃんか、新人と教育係が、恋愛関係になるってやつ。

俺は浮かれまくって、お付き合いをすっ飛ばして、一人で結婚式や老後のことまで想像してた。
ほんと、バカみたいだと思う。
もちろん仕事もめちゃくちゃ頑張った。
彼女は俺より六歳も年上だったが、そんなことは全然関係ない。
今は彼女に教えられる立場だが、すぐに対等になってやる。
年の差だって、今は大きく感じても、三十、四十になったら誤差みたいなもんだ。

俺は、彼女が「市倉くん」と俺の名前を呼ぶ度に、中学生みたいにドキドキして、「よくできてるわ」と褒めてくれる度に、さらにやる気になった。
最初の一ヵ月、それはもう、飼い犬よろしく尻尾を振りまくって、従順で可愛い後輩になったんだ。
まずは俺を知ってもらわなけりゃ話にならない。とにかく好感度を上げたかった。

今までこんなことは考えたこともなかった。
女に気に入られようと、いろいろ試行錯誤している友人を見て、情けない奴だなんてからかっていたのに。
あいつは彼女に本気だったんだと、同じ立場になって初めてわかった。
情けないと言われようが、誰に貶されようが、そんなことどうでもいいくらい必死だったんだと。

俺も必死だった。早く仕事を覚えて、一人前にならなけりゃ、彼女をデートにも誘えない。
今はただの新人としか見られていないのはわかっていた。だからとにかく仕事第一で努力した。まずはそこから信頼してもらえるように。
そしていつか、彼女に好きになってもらえるようにと、俺は初めて、自分自身を見つめ直していた。

だが、ゴールデンウィーク前に開かれた新入社員の歓迎会で、俺のその思いは打ち砕かれた。
彼女には婚約者がいた。
相手の男は違う部署にいて、彼女が新人の時の教育係だったと。
それを聞いて、俺はこの一ヵ月の、自分のあまりの単純さに心底嫌気がさした。
新人と教育係が付き合うって、ほんと、よくあるんだな。
もう笑うしかなかった。

婚約者の男は彼女より四歳上で、年齢も釣り合っていて、それが余計に腹立たしかった。
彼女が、「今日は歓迎会だから」と俺の横に座って、わざわざ二人で乾杯までしてくれたというのに、その男は強引に割り込んできて、しっかり俺と彼女の間に座った。
……まあ、当然だよな。俺だって、婚約者の隣を他のオトコになんか譲らないよ。
仕方ないことだとはわかっている、わかっているけど、心の中は荒れまくってた。

俺は自棄になって、聞きたくもない二人のなれそめとか、相手のどんなところが好きなのかとか、表面上はニコニコしながら質問した。
正直、微塵も興味はないし、なんなら聞いてて吐き気がしたが、今は、そこでいろいろ聞き出しておいてよかったと心底思う。

「結婚してもしばらくは仕事を続けさせるつもりだから、市倉くんも宜しくな」

そう爽やかに笑ったその男の異常性に、この時の俺は全く気付いていなかった。
俺だけじゃない。
婚約者の彼女も、その男の同僚も、二人の上司も、彼女の親でさえ、見抜くことはできなかったのだ。


ひたすら落ち込んだゴールデンウィークを過ごし、失恋の辛さを思い知った。
でも仕方ない。
一方的に運命だと信じてた俺が愚かだったんだ。
彼女にとっての運命の相手は、あの男なんだから。

そうやって繰り返し自分で自分の傷を抉りながらも、会社ではいつも通りの後輩として完璧に過ごした。
八月に挙式が決まったと嬉しそうに招待状を手渡されても、笑顔で「おめでとうございます!」と言い切った。

婚約者がいるとわかっても、結婚式に招待されても、俺はそれまでと全く同じ態度で彼女に接していた。
俺の彼女への懐きっぷりは、彼女が教育係だからであって、彼女を特別な目で見ていたわけではないと、周囲に印象付けたかったからだ。
それは俺のプライドでもあったと思う。

教育期間が過ぎても、彼女と仕事することが多かった。
俺の仕事は全部彼女が把握していたし、能力もよくわかっているから。
俺も、元教育係という免罪符で、よく彼女について回っていた。

だんだんと結婚式が近付き、彼女はますます綺麗になる。
この想いが叶うことはないと、頭では充分すぎるほど理解しているのに、自分の感情をどうしてもコントロールできなかった。

恋に落ちるのは一瞬だ。
その恋を諦めるには、いったいどれほどの時間を費やせばいいのだろうか。


結婚式当日、披露宴会場の入り口で、すでに鼻の奥がツンと痛む。
おいおい、うそだろ俺、ウェルカムボードで泣くんじゃねーよ。
仲良さそうに寄り添うツーショットで溢れた写真たちには、見たこともない幸せそうな彼女の笑顔があった。
俺は拳をぎゅっと握りしめて、必死に頭を切り替える。

一方的な俺の片想い。俺はただの後輩。これ以上を望んじゃだめだ。彼女の迷惑を考えろ。
俺は彼女の幸せを望んでいる。いいじゃないか。初めて好きになった人が、幸せになるんだ。
俺は笑顔で新郎新婦の入場を待った。

彼女のウェディングドレス姿は、本当に美しかった。
初めて見るまとめ髪、細い首筋、シンプルなデザインが彼女の魅力を存分に引き立てている。
本当に、本当に、綺麗だった。
お色直しは落ち着いたブルーのドレスで、肩を大胆に出したデザインだった。
そのむき出しの肩を、新郎は当然のように抱き、彼女も自然に寄り添う。
目に入る全てのことが、俺の心を抉った。

キャンドルサービスで俺のいるテーブルにつくと、彼女はちらっと俺の方を見た。
俺は満面の笑みで「きれいです!」と、口元だけで伝える。
新郎に腰を抱かれながら、彼女も口元だけで「ありがと」と返してきた。
そのあと、彼女は照れたように笑い、そのまま新郎に視線をうつした。
もう俺の方を見ることはなかった。

最後まで俺は笑顔を崩さなかった。
きっちり二次会まで出席し、皆と一緒に結婚を祝った。

だが、一人になった帰り道の記憶は、今でも曖昧だ。
酔っていたわけじゃない。酒は多少飲んだが、意識ははっきりしていた。
ただ、疲れ切っていた。

自分の気持ちを隠し通すことが、ここまで大変だとは思わなかった。
今までずっと隠してきて、完璧に演じてきて、もう慣れたと思っていたのに。
やっぱり、結婚式というのは特別だった。

「きつかった……」

やっとの思いで玄関に辿り着き、しみじみと呟いた。
きつかった……本当にきつかった。
彼女が綺麗であればあるほど、彼女が幸せであればあるほど、引き裂かれる二つの思考と戦っていた。

悔しい、悲しい、辛い。
嬉しい、幸せ。
彼女の隣に立てないことが悔しい。
彼女に見てもらえないことが悲しい。
彼女に選ばれなかったことが辛い。
彼女が幸せになってくれて嬉しい。
彼女の笑顔が見られて幸せ。
マイナスの感情の方が多い分、気持ちを上げていくのが大変だった。

「どうしたら諦められるんだよ……」

ずるずるとその場にへたり込んだまま、俺は動けなくなった。
特別美人なわけじゃない、ずば抜けて仕事ができるわけじゃない、彼女はごく普通の女性だ。
だけど好きなんだ、こんなにも好きなんだ。
理屈じゃない、スペックじゃない、彼女が彼女のままで、それが全てなんだ。

「好きなんだ……」

ぽろりと、言葉がこぼれた。

「好きだ、好きだ、」

誰に聞かれる心配もない。俺は初めてその想いを口に出す。

「一目惚れだった、好きなんだ、こんなに、」

一度口に出すと、もう止まらなかった。

「俺が隣に立ちたかった、俺が幸せにしたかった、」

ぐずぐずと、情けない言葉ばかりがあふれ出す。

「俺を、見てほしかった……」

醜い嫉妬で相手の男を恨んだことさえあった。
その度に、己の器の小ささに嫌悪し、彼女の幸せを思って自分を立て直した。

しかし、本当の意味で男を恨むことになるのは、それから三年七ヵ月後のことだった。
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