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達也との電話で、憑き物が落ちたように気持ちが前向きになった。
といっても、会社の俺は完璧に擬態していたから、表面的には何も変わっていないはずだ。
休日に無理して外出する必要もなくなったので、家でゆっくり過ごして気力と体力を養い、ますます仕事に集中した。
ある日曜日、俺は夕方にうとうとしてしまったらしい。
携帯の着信音で慌てて起きる。
画面には非通知着信の文字。普段ならとるのを躊躇するところだが、完全に覚醒していない俺はつい癖で通話をタップしてしまった。
「もしもし……」
寝起きの不機嫌な声のままそう言うが、応答がない。
そのまま切ってしまおうかとも思ったが、せっかくの眠りを妨げられたイラつきもあり、しつこく尋ねた。
「もしもーし!どちらさん!もしもーし!」
やがて、息を呑む気配がして、微かな声が聞こえた。
「……いちくらくん……?」
「っ!!」
その一言に一瞬で感情が暴れ出す。
退職してから三年、その間彼女から連絡がきたことは一度もなかった。
思い出の中の声と、全く変わらない声が携帯から聞こえてくる。
「あの、覚えてる?私……」
彼女が名のる前に、俺はたまらず彼女の名前を叫んだ!
「覚えてますよ!当たり前でしょう!元気ですか?」
「良かった、覚えてくれてて」
彼女の穏やかな笑みが見えるようだった。
気持ちの整理だとか胸に秘めてだとか、そんなものは全部ふっとんでいた。
ああ、俺はやっぱり全然忘れられなかったんだ。
声を聞いただけでこんなにも感情が溢れてくる。
「どうしたんですか?何かあったんですか?急に辞めちゃうから、俺、挨拶もできなくて」
「うん、ごめんね。私も、ずっとそれが気がかりだったの。一言伝えたかったなって」
彼女が俺のことを気にかけてくれていた!
その事実だけで全てが報われるような気がした。
「そうですよ~、俺、ちょっと寂しかったんですからね」
「そうなの?ふふふ、ほんと、ごめんね、ふふ」
わざと大袈裟に拗ねてみせると、彼女は笑いながらごめんねと繰り返す。
「で、今日はどうしたんです?日曜の夕方に、電話してて大丈夫なんですか?」
「うん。…………今日は、主人がいないから……」
『主人』の言葉にいつものように胸を抉られながらも、俺は浮かれきっていた。
三年振りに彼女の声が聴けて、三年経っても彼女は俺のことを気にかけてくれていて、これはもう、頑張って毎日を生きてる俺へのご褒美だな!
これからも前向きに頑張るぞって、努力している俺へのご褒美だ!
「あの、ね、市倉くん」
「はい!なんですか?」
「私、教育係になるの、市倉くんが初めてだったの」
「え?そうなんですか?」
「うん、仕事のタイミングが合わなくて。だから、市倉くんは初めての直接の部下っていうか、思い入れがあったんだ」
さすがご褒美だ。俺に思い入れがあったなんて、初めて聞いた。もちろん仕事上のことだとはわかっているが、それでも嬉しかった。
「だからね、辞めるとき、話せなかったことが、ずっと心残りだったんだ」
「もういいっすよ!今話せて、俺、大満足しましたから」
「よかった……あの……」
「はい?」
「市倉くんて、…………優しいね」
「何言ってるんですか!当たり前じゃないですか!」
電話越しだからか、少し弱弱しい彼女の声に、俺は明るく返す。
「ていうか、いつでも電話してくださいよ。俺、番号ずっと変えないんで」
「……ありがとう」
人妻に何を言ってるんだか、と思いながらも、俺は言葉が止められなかった。
「愚痴でもなんでも、なんかいろいろ、とにかく、何でも聞きますから!」
「うん、そうだね……でも、彼女に怒られちゃうよ」
「彼女なんかいないですよ~寂しいこと言わせないでくださいよ~」
「そうなの?……恋人、作らなきゃ。幸せにならなきゃ」
俺の幸せはあなたといることなんですけどね、という言葉は飲み込んで、適当に相槌をうつ。
「そっすね~、うん、まあ、そのうち」
「そうだよ、市倉くん、幸せになってね」
「は~い」
好きな人に、他の人と幸せになれと言われるのはなかなかにきつい。
でも、辛い片想い歴四年以上にもなる俺にとっては、なんてことはない。
華麗にスルーしてみせよう。
それよりも、彼女が俺の幸せを願っているという、その事実に喜びを見出す。
「じゃあ、そろそろ……」
「ああ、そうですね。また、いつでも待ってるんで、今度は近況とか聞かせてください!」
「ふふふ、じゃあね、市倉くん、さよなら」
「はい!じゃあまた!」
時間にして数分の出来事だった。
彼女の声、彼女の口調、『市倉くん』と俺を呼ぶ呼び方、全てが懐かしく、愛おしかった。
彼女との短い会話を何度も反芻して、その余韻に酔いしれた。
電話出てよかったぁ。
しつこく言ってよかったぁ。
またそのうちかかってくることもあるかもしれない。
二人で会うのは無理だろうけど、例えば気軽な会社の飲み会とか、誘ってもいいんじゃないか?
これからのことに思いを馳せながら、次に電話がきたらあれを話そう、これも話そうと浮かれまくった。
よっぽど達也に電話しようかと思ったが、今日の最後の声は彼女で締めくくろうと、後日電話することにした。
しっかり食べて、ぐっすり寝て、意気揚々と出勤した俺は、そこで地獄に突き落とされる。
駆け寄って来た同僚からの言葉に愕然とする。
それは、彼女の訃報だった。
といっても、会社の俺は完璧に擬態していたから、表面的には何も変わっていないはずだ。
休日に無理して外出する必要もなくなったので、家でゆっくり過ごして気力と体力を養い、ますます仕事に集中した。
ある日曜日、俺は夕方にうとうとしてしまったらしい。
携帯の着信音で慌てて起きる。
画面には非通知着信の文字。普段ならとるのを躊躇するところだが、完全に覚醒していない俺はつい癖で通話をタップしてしまった。
「もしもし……」
寝起きの不機嫌な声のままそう言うが、応答がない。
そのまま切ってしまおうかとも思ったが、せっかくの眠りを妨げられたイラつきもあり、しつこく尋ねた。
「もしもーし!どちらさん!もしもーし!」
やがて、息を呑む気配がして、微かな声が聞こえた。
「……いちくらくん……?」
「っ!!」
その一言に一瞬で感情が暴れ出す。
退職してから三年、その間彼女から連絡がきたことは一度もなかった。
思い出の中の声と、全く変わらない声が携帯から聞こえてくる。
「あの、覚えてる?私……」
彼女が名のる前に、俺はたまらず彼女の名前を叫んだ!
「覚えてますよ!当たり前でしょう!元気ですか?」
「良かった、覚えてくれてて」
彼女の穏やかな笑みが見えるようだった。
気持ちの整理だとか胸に秘めてだとか、そんなものは全部ふっとんでいた。
ああ、俺はやっぱり全然忘れられなかったんだ。
声を聞いただけでこんなにも感情が溢れてくる。
「どうしたんですか?何かあったんですか?急に辞めちゃうから、俺、挨拶もできなくて」
「うん、ごめんね。私も、ずっとそれが気がかりだったの。一言伝えたかったなって」
彼女が俺のことを気にかけてくれていた!
その事実だけで全てが報われるような気がした。
「そうですよ~、俺、ちょっと寂しかったんですからね」
「そうなの?ふふふ、ほんと、ごめんね、ふふ」
わざと大袈裟に拗ねてみせると、彼女は笑いながらごめんねと繰り返す。
「で、今日はどうしたんです?日曜の夕方に、電話してて大丈夫なんですか?」
「うん。…………今日は、主人がいないから……」
『主人』の言葉にいつものように胸を抉られながらも、俺は浮かれきっていた。
三年振りに彼女の声が聴けて、三年経っても彼女は俺のことを気にかけてくれていて、これはもう、頑張って毎日を生きてる俺へのご褒美だな!
これからも前向きに頑張るぞって、努力している俺へのご褒美だ!
「あの、ね、市倉くん」
「はい!なんですか?」
「私、教育係になるの、市倉くんが初めてだったの」
「え?そうなんですか?」
「うん、仕事のタイミングが合わなくて。だから、市倉くんは初めての直接の部下っていうか、思い入れがあったんだ」
さすがご褒美だ。俺に思い入れがあったなんて、初めて聞いた。もちろん仕事上のことだとはわかっているが、それでも嬉しかった。
「だからね、辞めるとき、話せなかったことが、ずっと心残りだったんだ」
「もういいっすよ!今話せて、俺、大満足しましたから」
「よかった……あの……」
「はい?」
「市倉くんて、…………優しいね」
「何言ってるんですか!当たり前じゃないですか!」
電話越しだからか、少し弱弱しい彼女の声に、俺は明るく返す。
「ていうか、いつでも電話してくださいよ。俺、番号ずっと変えないんで」
「……ありがとう」
人妻に何を言ってるんだか、と思いながらも、俺は言葉が止められなかった。
「愚痴でもなんでも、なんかいろいろ、とにかく、何でも聞きますから!」
「うん、そうだね……でも、彼女に怒られちゃうよ」
「彼女なんかいないですよ~寂しいこと言わせないでくださいよ~」
「そうなの?……恋人、作らなきゃ。幸せにならなきゃ」
俺の幸せはあなたといることなんですけどね、という言葉は飲み込んで、適当に相槌をうつ。
「そっすね~、うん、まあ、そのうち」
「そうだよ、市倉くん、幸せになってね」
「は~い」
好きな人に、他の人と幸せになれと言われるのはなかなかにきつい。
でも、辛い片想い歴四年以上にもなる俺にとっては、なんてことはない。
華麗にスルーしてみせよう。
それよりも、彼女が俺の幸せを願っているという、その事実に喜びを見出す。
「じゃあ、そろそろ……」
「ああ、そうですね。また、いつでも待ってるんで、今度は近況とか聞かせてください!」
「ふふふ、じゃあね、市倉くん、さよなら」
「はい!じゃあまた!」
時間にして数分の出来事だった。
彼女の声、彼女の口調、『市倉くん』と俺を呼ぶ呼び方、全てが懐かしく、愛おしかった。
彼女との短い会話を何度も反芻して、その余韻に酔いしれた。
電話出てよかったぁ。
しつこく言ってよかったぁ。
またそのうちかかってくることもあるかもしれない。
二人で会うのは無理だろうけど、例えば気軽な会社の飲み会とか、誘ってもいいんじゃないか?
これからのことに思いを馳せながら、次に電話がきたらあれを話そう、これも話そうと浮かれまくった。
よっぽど達也に電話しようかと思ったが、今日の最後の声は彼女で締めくくろうと、後日電話することにした。
しっかり食べて、ぐっすり寝て、意気揚々と出勤した俺は、そこで地獄に突き落とされる。
駆け寄って来た同僚からの言葉に愕然とする。
それは、彼女の訃報だった。
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