妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~

桜塚あお華

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第20話 嘗ての面影を思い出す【ルーカス視点】

 彼女が図書室から飛び出していった瞬間、空気が変わり、まるで薄い氷がひび割れる音を聞いたようだった。
 獲物が罠に気づいたのだ。
 その小さな背中が、恐怖に満ちた何かから逃げるように遠ざかっていく。

 ――その【何か】が、自分自身であることに、俺は笑みを浮かべた。

 口の端が冷たく引きつる。
 皮膚の下で、熱いものがじりじりと滲んでくる。

 動かない。俺はただ、その場に立ち尽くしていた。
 焦る必要など、ない。すでに、仮面の裏側はほんの少し覗けたのだから。

 静寂の中に、アリスの気配が残っている。肌に触れるような呼気の温度。ページをめくる指の震え。そして冷たく濁った水の底に沈めた本音――ようやく、ここまで来た。
 ふと、机の端に一枚、置き去りにされた紙片があった。それは羊皮紙の断片。
 見るからに異質な質感に見える。そして、この図書室のものではない。
 彼女が必死に隠そうとしていた【答え】が、こんなにも無防備に残されている。
 静かに手に取る。触れた指先に、かすかに震えが走った。

 ――セドリックは、聖女を信じていない。

 震える筆致に力なく滲んだインク。
 最後の意志を絞るように書かれた、少女の告白。

 ――リリス。

 俺は、その名を心の奥で呟いた。
 記憶の底から、ひとつの光景がゆっくりと浮かび上がってくる。

 十数年前の謁見の間。
 あれは、葬儀だった。
 正装に身を包んだ少年が、母の死を前に、一言も発せずに立っており、そして右目を大きな包帯で覆いながら、それでもこちらを睨みつけていた。
 痛々しく、そして、異様なほど強い目だった。泣きもせず、怯えもせず――ただ、怒りを滲ませて。

(あの少年の名前は確か……ヨシュア……ヨシュア・グレイヴ)

 思い出した途端、掌の中の紙片が熱を帯びる。
 熱い――まるで、心臓を握られているようだった。

 ――仮面舞踏会の夜、仄かに覗いたアリスの右目。

 焼けた皮膚。あの時と同じ火傷の痕。
 まさか。
 だが、否定できない。

「……君は、彼女ではない」

 そう言いかけたが、飲み込む。
 確証がないし、まだ断言するには早すぎる。
 けれど、もう止まらない。
 俺は従者を呼び、静かに命じた。

「及びでしょうか?王弟殿下」
「リリス・グレイヴ……クララの前任――あの【聖女】だ。彼女について調べられるだけ調べろ」

 従者が目を見開いた。
 構わないまま、続ける。

「生まれ、家系、教会での記録、友人関係……それと、彼女には【兄】がいたと聞いている。そちらもだ。名も、行方も、関係者も――一つ残らず、洗え」
「……承知いたしました」

 従者が再度一礼し、そのまま消えた後でも、声が自分でも驚くほど冷えていた。
 感情を押し殺したはずなのに、なぜか音に熱が残っている。
 従者は即座に一礼し、足音を残して去っていった。

 図書室に再び、静寂が戻る。

 紙片を懐に仕舞いながら、俺は目を閉じた。

 あの夜、仮面の下で怯えたように目を逸らした少女。
 その瞳が、誰よりも【真実】を叫んでいた。
 仮面の裏にいるのは――本当に、【アリス】なのか?
 俺の知る【聖女】ではない何か。
 そして、正体不明の【異物】。
 けれどその仮面の奥にいる【誰か】を、俺は知りたくてたまらない。

 言い訳など、もう通じない。

 これは興味ではない。
 支配でも、義務でもない。
 もっと――本能的な衝動だ。

(君が、誰であれ。仮面の奥で泣いているのなら――)

 知りたい、この目で、心で、魂で。
 何を隠し、何を守り、何を望んでいるのか。
 その願いが、どれほど身勝手で、危うく、そして危険なものであろうと。
 俺はきっと、それでもなお、彼女の真実を暴こうとするだろう。
 自分でも、止められない。

「ふ……ククっ……」
 
 微笑が漏れる。
 笑っているのか、歪んでいるのか、自分でもわからない。

(君は、いったい……俺に何をさせる?)

 夜の王城を、俺は歩き出す。
 背後に、気配はなく、だが、確かに胸の奥に【彼女】の影がある。
 それは、亡霊のように消えず。
 それでいて、炎のように熱い。

 アリス――その名を呼ぶたび、俺の中の何かが、確かに狂っていくのを感じた。
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