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第25話 誰の物語か
夜会の喧騒から逃れるように、俺は私室の扉を閉めた。
背後で響く重たい音に心の奥に張り詰めていた糸がひとつ緩むような錯覚を覚える。
「はぁ……終わった」
そう呟いた瞬間、純白のドレスが、まるで重い枷のように床へ滑り落ちる。
布の擦れる音が、静寂の中でやけに大きく響き、それは【聖女候補・アリス】という仮面を、一時的に脱ぎ捨てた音だった。
ドレスから解放された身体には、まだ微かな熱が残っている。けれど、心はひどく冷え切っていた。
あの場に立つことなど、もはや造作もない。
男たちを魅了し、偽りの微笑を浮かべ、祝福の女神を完璧に演じる。それはもう、呼吸のように自然で当たり前になっていた。
――だが、その裏で、どれだけ心が削られていたかなんて誰も知らない。
鏡台の前に腰を下ろす。蝋燭の火が静かに揺れ、その光の中に自分の顔が浮かぶ。
それは――【リリス】の顔だった。
白く透き通った肌。緩やかに巻かれた長い銀髪。
右目を隠すベールを外せば、鏡の奥から、もうひとりの俺がじっとこちらを見返してくる。
「……俺は、誰だ?」
ぽつりと落とした声が、鏡に吸い込まれる。
指先で、右目の火傷跡に触れ、熱くも、冷たくもない。だが、確かにそこにある。
――消せない傷、それは、俺が【ヨシュア】である唯一の証。
この傷がある限り、俺は決してリリスにはなれない。
この火傷と共に、俺は【兄】として生きると決めた。
「なあ、リリス……お前、あの時は、痛かったか?」
誰に向けているとも分からない問いが、虚空に溶けていく。
死体も見つからず、どこにも存在しない【妹】。名ばかりの死――あるいは、失われた存在そのもの。
「……俺が、死ぬべきだったのか?」
再び火傷に触れた指先が止まる。
ふと、思い出す――あの夜、ルーカスがこの傷に触れた時の感触。
冷たいのに、妙に熱を帯びていた。
迷いのない指先。
そのまま、自分の足、肌に触れたりした事もあり――それを思い出すだけで、恥ずかしさがこみ上げてくる。
「……あいつ、どうかしてる」
俺が【アリス】ではないと、ルーカスは確実に気づいている。
それでも――あいつは、キスをした。ベール越しに。
『君が誰であろうと――僕は君を選ぶ』
その言葉が、耳の奥でこだまのように何度も反響する。
「……ふざけるな、俺の何を知ってて……何を見て、そんな事を言うんだよ」
鏡に映る自分の顔が、にわかに歪む。
性別も、過去も、復讐も全部無視して、ただ【選ぶ】と?
そんな言葉、俺は望んでいない、望むはずがない。
復讐のために、この顔になって、心なんて、最初から捨てたはずだった。
……なのに、頬を伝う熱い雫に気づいてしまう。
指先が、震えている。
「……なのに、どうして……あんな目をするんだよ……」
ルーカスの目――冷たいようで何処か哀れみすら帯びた眼差し。俺の【痛み】に触れるような――そんな優しさを、持っていた。
「同情するな……そんな顔で見るな……俺を、壊すなよ」
鏡の中の【アリス】が、泣いていた。
だがその涙は、リリスのものじゃない。
ヨシュアの――俺自身の涙だ。
「……誰にも頼らず、一人でやり遂げるって……そう決めたのに」
震える肩。滲む視界、声にならない嗚咽が喉の奥でせき止められる。
復讐の炎で、感情なんて焼き尽くすはずだった。
そうやって、ここまで来たはずだったのに――それでもなお、崩れてしまいそうになるのは、彼の存在が俺の孤独と最も脆い場所を容赦なく暴き出したからだ。
【アリス】という仮面を完璧に演じる裏で、俺が最も恐れていたこと――誰かが【本当の俺】を見抜いてしまうこと。
「……ルーカス。お前は……邪魔だ」
唇から落ちたその言葉は、冷たく乾いている。だが――胸の奥に芽生えていたのはまるで正反対の感情だった。
忌々しい。
うるさいほどに、視線の先に焼き付いて離れない。
けれど、それでも――心のどこかで、確かに思ってしまっている。
この男がいるなら、この男となら――俺の復讐劇は、もっと残酷で、もっと劇的で、そして……ずっと面白くなる。
静まり返った部屋の中、鏡の中の【アリス】が、ゆっくりと口元を歪めた。
優しい微笑みでも、清らかな慈愛でもない。それは、何も信じず、何も与えず、ただ奪うために嗤う獣の笑みだった。
皮膚がひきつる。口角がゆっくりと吊り上がり――その顔は、リリスではない。
誰かに愛されるべき少女でも、神に選ばれた聖女でもない。
そこにいたのは――【本来の俺】だ。
誰よりも孤独で、誰よりも冷酷で、誰よりも壊れてしまった、俺自身の顔。
「……心なんか……いらないはずだったのに」
その声は、自分でも驚くほどに掠れて、低く震えるように冷たい声だった。
憎しみだけで動けるはずだった。
愛も希望も、全部捨てたはずだった。
それなのに――今の俺は、何を取り戻そうとしている?
滲んだ視界の向こうで、鏡の【俺】がじっと見返してくる。
その目が、今にも泣き出しそうなことに、俺は気づかないフリをするのだった。
背後で響く重たい音に心の奥に張り詰めていた糸がひとつ緩むような錯覚を覚える。
「はぁ……終わった」
そう呟いた瞬間、純白のドレスが、まるで重い枷のように床へ滑り落ちる。
布の擦れる音が、静寂の中でやけに大きく響き、それは【聖女候補・アリス】という仮面を、一時的に脱ぎ捨てた音だった。
ドレスから解放された身体には、まだ微かな熱が残っている。けれど、心はひどく冷え切っていた。
あの場に立つことなど、もはや造作もない。
男たちを魅了し、偽りの微笑を浮かべ、祝福の女神を完璧に演じる。それはもう、呼吸のように自然で当たり前になっていた。
――だが、その裏で、どれだけ心が削られていたかなんて誰も知らない。
鏡台の前に腰を下ろす。蝋燭の火が静かに揺れ、その光の中に自分の顔が浮かぶ。
それは――【リリス】の顔だった。
白く透き通った肌。緩やかに巻かれた長い銀髪。
右目を隠すベールを外せば、鏡の奥から、もうひとりの俺がじっとこちらを見返してくる。
「……俺は、誰だ?」
ぽつりと落とした声が、鏡に吸い込まれる。
指先で、右目の火傷跡に触れ、熱くも、冷たくもない。だが、確かにそこにある。
――消せない傷、それは、俺が【ヨシュア】である唯一の証。
この傷がある限り、俺は決してリリスにはなれない。
この火傷と共に、俺は【兄】として生きると決めた。
「なあ、リリス……お前、あの時は、痛かったか?」
誰に向けているとも分からない問いが、虚空に溶けていく。
死体も見つからず、どこにも存在しない【妹】。名ばかりの死――あるいは、失われた存在そのもの。
「……俺が、死ぬべきだったのか?」
再び火傷に触れた指先が止まる。
ふと、思い出す――あの夜、ルーカスがこの傷に触れた時の感触。
冷たいのに、妙に熱を帯びていた。
迷いのない指先。
そのまま、自分の足、肌に触れたりした事もあり――それを思い出すだけで、恥ずかしさがこみ上げてくる。
「……あいつ、どうかしてる」
俺が【アリス】ではないと、ルーカスは確実に気づいている。
それでも――あいつは、キスをした。ベール越しに。
『君が誰であろうと――僕は君を選ぶ』
その言葉が、耳の奥でこだまのように何度も反響する。
「……ふざけるな、俺の何を知ってて……何を見て、そんな事を言うんだよ」
鏡に映る自分の顔が、にわかに歪む。
性別も、過去も、復讐も全部無視して、ただ【選ぶ】と?
そんな言葉、俺は望んでいない、望むはずがない。
復讐のために、この顔になって、心なんて、最初から捨てたはずだった。
……なのに、頬を伝う熱い雫に気づいてしまう。
指先が、震えている。
「……なのに、どうして……あんな目をするんだよ……」
ルーカスの目――冷たいようで何処か哀れみすら帯びた眼差し。俺の【痛み】に触れるような――そんな優しさを、持っていた。
「同情するな……そんな顔で見るな……俺を、壊すなよ」
鏡の中の【アリス】が、泣いていた。
だがその涙は、リリスのものじゃない。
ヨシュアの――俺自身の涙だ。
「……誰にも頼らず、一人でやり遂げるって……そう決めたのに」
震える肩。滲む視界、声にならない嗚咽が喉の奥でせき止められる。
復讐の炎で、感情なんて焼き尽くすはずだった。
そうやって、ここまで来たはずだったのに――それでもなお、崩れてしまいそうになるのは、彼の存在が俺の孤独と最も脆い場所を容赦なく暴き出したからだ。
【アリス】という仮面を完璧に演じる裏で、俺が最も恐れていたこと――誰かが【本当の俺】を見抜いてしまうこと。
「……ルーカス。お前は……邪魔だ」
唇から落ちたその言葉は、冷たく乾いている。だが――胸の奥に芽生えていたのはまるで正反対の感情だった。
忌々しい。
うるさいほどに、視線の先に焼き付いて離れない。
けれど、それでも――心のどこかで、確かに思ってしまっている。
この男がいるなら、この男となら――俺の復讐劇は、もっと残酷で、もっと劇的で、そして……ずっと面白くなる。
静まり返った部屋の中、鏡の中の【アリス】が、ゆっくりと口元を歪めた。
優しい微笑みでも、清らかな慈愛でもない。それは、何も信じず、何も与えず、ただ奪うために嗤う獣の笑みだった。
皮膚がひきつる。口角がゆっくりと吊り上がり――その顔は、リリスではない。
誰かに愛されるべき少女でも、神に選ばれた聖女でもない。
そこにいたのは――【本来の俺】だ。
誰よりも孤独で、誰よりも冷酷で、誰よりも壊れてしまった、俺自身の顔。
「……心なんか……いらないはずだったのに」
その声は、自分でも驚くほどに掠れて、低く震えるように冷たい声だった。
憎しみだけで動けるはずだった。
愛も希望も、全部捨てたはずだった。
それなのに――今の俺は、何を取り戻そうとしている?
滲んだ視界の向こうで、鏡の【俺】がじっと見返してくる。
その目が、今にも泣き出しそうなことに、俺は気づかないフリをするのだった。
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