妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~

桜塚あお華

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第30話 偽りの救世

 陽が傾き始めた神殿前の石畳。俺は神殿の陰から、その光景を静かに見下ろしていた。
 広場の中心に、クララが祈っている。
 身を包むのは真白な祈祷衣。金糸で縁取られた袖が、西日を受けて淡くきらめき――それは、まるで本物の聖女のようだった。
 膝を折り、目を伏せ、両手を胸元で組む。
 一つ一つの所作に、あの夜の狂気の影はない。
 ただ、静謐な沈黙と穏やかな気配だけがある。
 民衆が、少しずつ集まってきていた。
 かつてのような歓声も熱狂もない。
 だが、数人の貧しい者たちがひざまずき、彼女の祈りにそっと頭を垂れていた。その中には、子を抱えた母も、杖をつく老人も、片足を引きずる職人もいた。

「……どうか、日々の糧が与えられますように。苦しみの中にある者に救いの光が降り注ぎますように――」

 クララの祈りの声が、風に乗って届いてくる。

 ――嘘だ。

 その言葉に、神の加護はない。
 彼女には神託も啓示も与えられていない。
 それはただ、彼女自身が【聖女】という役割を生きるために紡いだ演技にすぎない。

 ……けれど。

(――それでも、人々はあの姿に救いを見出している)

 俺は腕を組んだまま、その光景を見つめていた。
 冷静に、静かに――それでいて、心の奥に小さく棘が刺さるような痛みを覚えながら。
 【聖女】の本当の人物は、リリスだ。
 しかし、リリスは死んだ。
 【偽り】である聖女、クララは、今なお生きて人を救っている。
 喉奥が熱を帯び、何かが込み上げてくる。
 祈る彼女の背には、神の後光などない。ただ、傾いた夕日が静かにその輪郭を照らしているだけだった。

 ――あれは信仰ではない。ただの演技だ。

 けれど、民にとってそれで十分なのか?
 真実ではなく、慰めが求められる。神の声よりも、ただ【祈る姿】こそが癒しになるのなら――

(……リリスの命よりも、あの祈りが人を救うのか)

 それが、この国の【現実】だというのか。
 そうだとすれば、リリスの死は――俺の復讐は、いったい何のためだった?
 胸の奥が軋んでくる。そして喉の奥で押し殺した感情が、鋭く突き上げてくる。
 その時、俺の近くで風が吹いた。石畳に散った花びらが、くるくると宙を舞い上がる。
 その風の中で祈りを続ける彼女の姿は――あまりにも、脆く、美しかった。

「……滑稽、だな」

 つい、口をついて出た言葉。
 誰もいないと思っていたからこそ、漏れた本音。
 だが――その声は、思いがけない相手に届いていた。

「――だが滑稽だからこそ、人は惹かれるのだろう」
「……っ!?」

 背後から、静かな声がした。俺は思わずその声に、背筋が凍る。

「……ルーカス、さま」

 振り返ると、王弟殿下であるルーカスが漆黒の装束に身を包み、神殿の柱影に立っていた。
 その眼差しは、祈りを捧げるクララの姿を見下ろしている。

「いつから……そこに?」
「最初から、だよ。アリス嬢が黙って立ち尽くしているのを、遠くから見ていた」

 穏やかな笑みに見える――だが、その奥にある瞳はどこまでも静かで深く、感情の揺れを一切見せない。
 まるで、俺という存在の奥を、まっすぐに見透かしているかのようだった。

「クララ嬢が【聖女】でない事は、私も知っている……だが、君も、私も――目をそらせなかった」

 その言葉に、返す言葉が出てこない。
 確かに、俺も、彼も。【偽物】であるクララの祈りを、最後まで見つめていた。

「民衆は【真実】ではなく、【救い】を望んでいる。例え中身が空虚であろうと、その姿が誰かの心を救うなら――それはもう、ひとつの現実なのだ」
「……皮肉、ですね」

 アリスの仮面で微笑みながら、俺は静かに呟いた。

(それを、まさかこの男から聞くなんて思わなかった……)

 けれど、まだこの男に真実を告げる時ではない。

「ルーカス様は……あの方を、哀れだと思いますか?」
「哀れとは思わないな……ただ選ばれなかった者が、自らを選ばれし者に仕立て上げていく姿――それは興味深い」

 冷静な言葉で返しているのだが、言い返してみればその言葉はある意味残酷だった。
 だがその残酷さは、正確さがあり、そしてどこか優しさすら含んでいた。

「……アリス」
「はい、ルーカス様」
「君は、【正しさ】を知っている。だからこそ、君がこの先、何を選ぶのか――私は見届けたい」

 その言葉に、俺はようやく彼の方を見た。

「私は、舞台の端に立つ者ですわ。誰かを正す権利なんて、元々持っていない」

 柔らかい声の裏で、心の奥が軋んだ。

(……けれど、俺はもう【端】には立っていない……復讐の炎を胸に、舞台の中心にいるのだから)

 クララの祈りが、夕風に乗って消えていく。
 人々はそれを疑いもせず、跪いている。
 偽りの祈りが、救いになる――その事実が、ひどく……

「――美しいと、思ったか?」

 ルーカスが、ふと問う。

「……それとも、嫉妬したか?」

 俺は、アリスの微笑みを崩さぬまま、そっと言った。

「――ええ。どちらも、ですわ」

 ヨシュアとしての心が、薄氷のようにきしむ。

「たとえ報われないとしても……それでも私は、立ち続けるしかないのでしょうね」

 その呟きに、ルーカスは迷いなく返す。

「ならば、俺は手を貸す」

 彼の視線が、まっすぐに俺を射抜いた。

「君が【その先】を選ぶというのなら、俺はその覚悟に付き合おう」

 俺は彼の横顔を見る。
 そこには、狂気も同情もない。
 ただ一つ、確かな【視線】がある。
 俺という存在を、この世界の中に見つけようとする――静かで、力強い眼差し。

「……殿下は、愚かですね」

 皮肉を含ませながら、そう言った俺に、彼は微笑を返す。

「愚かでもいい。君が前を向くならば、それで十分だ」

 ルーカスはふと、星のない空を見上げた。
 その視線の先に、何かを探しているかのように。
 俺は、ただその隣に立つ。
 それが、【偽り】であっても――それが今の俺にとっての、唯一の【祈り】だった。

 ……いつか、この手が“真実”に触れる日が来るのなら。
 そのときこそ、俺自身にも“裁き”を下さねばならない。

 だが今はまだ、ただこの夜を――受け入れる。
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