妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~

桜塚あお華

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第35話 歪んだ天秤【ルーカス視点】

 神殿の回廊に立ち、冷たい柱に背を預けながら、俺はその足音を聞いていた。

 ――コツ、コツ、コツ。

 白い礼服をひるがえしながら、クララが足早に歩く音。
 石の床に吸い込まれるようなその音は、妙に軽く、それでいて落ち着きがない。
 足元が揺れているのが、音にすら表れていた。

 ……焦っているな、クララ。

 無理もない。
 民の視線が、静かに、確実にアリスへと傾きつつある。
 もはや熱狂や歓声ではない。【救い】という名の現実が、少しずつ彼女から離れていく音だ。

(まったく、因果なものだ……)

 クララは、聖女になりたかった。
 だからなった。ただそれだけの話だ。
 リリスがいなくなった今、空席を埋めるように【座った】だけ。――だが、その【座】は、ただ座ればよいというものではない。
 誰かを踏み台にして立った者は、いつかその土台に揺さぶられる。
 俺は廊下の影からクララを見送った。
 肩に刻まれるような緊張。目が泳ぎ、顔色が蒼白く、手はベールを強く握りしめていた。
 まるで、亡霊に追いすがられているかのように。
 いや――実際、彼女は見てしまったのだ。
 炎の中で、自ら背を向けた少女の顔を。リリスという名の、罪の影を。

「やめて……っ」

 廊下に響いたその小さな声に、俺は目を細める。問いかけられてもいない。だが、思い出してしまった。

 ――もし、俺がリリスを殺した黒幕だったら、どうする?

 あの夜、薔薇園でアリスに投げかけた言葉だ。
 もちろん、ただの挑発だった……と言い切れるのだろうか。
 あのときのアリスの目。睫毛の奥で揺れた、疑念と恐れと、それでも向けてくる【視線】。

(君は、俺のことをまだ信じていない……だが、目を逸らせてもいない)

 それが、あの問いを口にさせた理由だったのだろう。
 俺自身、リリスの死の真実を知らぬわけではない。
 それでも、真相を語ることはできない。
 なぜなら、語った瞬間にこの秩序は壊れる。
 あるいは――俺とアリスの関係すら。
 彼が【祈る者】として舞台に立ち続けるためには、未だ明かしてはならない真実がある。

 クララが小部屋へと逃げ込む音がした。
 扉が閉まり、足音は途切れる。
 息を殺すような沈黙が、神殿の奥に沈んでいく。

 ……さて。

 俺は踵を返すと、神殿の南廊へと歩き出す。
 そこに、従者のカイが静かに現れた。いつもの黒の制服に身を包み、淡々とした声で報告を告げる。

「ルーカス様……予想通りに【聖女裁断の儀】ですが、正式に受理されました」
「そうか。神官長は?」
「賛同の意を表されました。加えて、王家からはすでに印を押しております」

 カイの言葉に、俺は小さく目を細めた。
 予想よりも、早い。

「……早すぎるな。よほど、クララに綻びが見え始めていると見える」
「実際、神殿内では動揺が広がっております。【本物の聖女】を選び直すべきだという声も、少なからず」
「ふむ……民も変わるものだな。かつては彼女の祈りに涙したというのに」

 皮肉めいた言葉に、カイは苦笑すら浮かべずに言う。

「【美しさ】は、真実を覆いますから」
「……ああ、その通りだ」

 苦い笑みが、自然と唇に滲んだ。

 神官長室では、ちょうど一枚の文書が開かれたところだった。
 金色の封蝋。流麗な筆致――それは、【聖女候補・アリス】からの提案書。

 『聖女裁断の儀』――真に選ばれし者を、民の前で問う公開裁判。

 内容を読んだ神官長はしばらく黙していたが、やがて、ゆっくりと頷いた。

「……この混乱を収めるには、たしかに必要かもしれませんな」

 神殿高位の数名もまた、意を表する。
 王族の中でも、既に数名がこの案に乗っている。
 それは、俺の意志とも無関係ではなかった。

 アリスが仕掛けた復讐の舞台――それを、俺は止めない。むしろ、支える。

 なぜなら、この儀式の先にある【真実】が、彼を自由にするかもしれないからだ。
 そして、それによってこの国が壊れるなら――それもまた、よい。
 それくらいの覚悟は、とっくに決めていた。

「……カイ。儀式までに、神殿内の沈黙している者たちを把握しておけ。どちらにつくかは、まだ揺れる」
「承知しました。聖女陣営内にも、わずかに崩れがあります。揺さぶりをかけるには、今が適期でしょう」
「……ああ。誰が【祈り】を信じ、誰が【正義】を選ぶか。見ものだな」

 そのようにカイに告げた後、俺はそのまま、神殿の廊を抜けてテラスへと出た。
 そこからは、広場が見下ろせる。夜風が静かに吹き抜け、空には一つ、星が輝いていた。

 【聖女候補・アリス】がそこに現れた時から、この国の天秤はすでに傾き始めている。
 俺にできることは、ただ――その天秤の行方を、最後まで見届けることだけだ。

 俺は神殿の回廊を通り、広場を見下ろすテラスに出た。
 静かに、冷たい風が衣の裾を揺らす。
 空を見上げると、雲の切れ間から星が一つだけ顔を出していた。
 その光を受けながら、アリス――ヨシュアの姿が脳裏に浮かぶ。
 あの仮面の奥にある眼差し――誰にも届かない【怒り】と【痛み】を抱えて、それでも祈る姿がやけに胸に残っている。

(君が、もしこの国を壊してでも【真実】を求めるのなら――俺は、その覚悟に付き合おう)

 鐘の音が響き、重々しく、長く、神殿中に反響する。
 それは、「裁き」の始まりを告げる音。クララが座っていた虚構の玉座が、今まさに揺らぎ始めている。

 ――歪んだ天秤は、やがて傾く。どちらが落ち、どちらが残るか。

 それは、神ですら知らない。
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