妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~

桜塚あお華

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第37話 前夜祭 ― それぞれの沈黙【後半・クララ視点】

【前半:ヨシュア視点】

 朝から、王都はざわめいていた。
 誰もが口々に囁いている――それはきっと、【聖女裁断の儀】のことだろう。
 王宮前広場には、すでに人の波が押し寄せ、広場を囲む街道では露天が並び始めている。そして冷たい空気の中に、肉を焼く香り、焼き栗の匂い、子供の笑い声と大人たちの噂話が混ざっているのが聞こえてきた。

 ――まるで祭りのようだった。

(いいや……これは、祭りなんかじゃない)

 これは、ある意味でひとつの【処刑】のようなものだ。
 神と民と王の前で、誰かを突き落とす――それだけの【祭壇】に過ぎない。
 俺は神殿の奥の私室で、一枚の衣を広げていた。
 白地に、銀糸の刺繍がほどこされた祈祷衣。これはリリスが生前に最後に身につけていた正式な祈りの装束――と、ルーカスがそのように言いながら、それを渡してくれた。
 今では倉庫のような場所に押し込まれていたが、どうしても、これだけは取り戻したかった。
 指先で布を撫でる。
 ほつれも、血の跡もない。

「……リリス、俺はこれを着るぞ、良いな?」

 たとえ誰が否定しようと。
 この国が、姉を忘れようと。
 俺は、リリスの【祈り】を、この身で証明してみせる。

 そんな事を考えていると、その時、扉の外に誰かの気配を感じた。振り返ると、ほんの一瞬だけ、廊下の先にルーカスの姿が見えた。
 黒い外套を翻し、足を止めることもなく、こちらを見ずに歩き去っていく。

 ――彼は、何も言わなかった。

 でも、知っている。あの背は、俺のの覚悟を見ていたのかもしれない。
 だからこそ何も言わず、背を向けたのだろう。
 俺たちは、もう互いに言葉を交わす段階を超えている。
 今はただ、舞台に立つだけだ。
 この衣を身に纏い、姉の祈りを、真実として告げるために。

  ▽ ▽ ▽

 夜――部屋の中は、肌を刺すように冷たかった。
 窓には厚手の布をかけた。
 隙間という隙間には綿を詰め、扉の下には毛皮を押し当てた。
 それでも、止められなかった。風がどこからか吹き込み、床を撫で、足元を通り過ぎていく。

(おかしいわ……暖炉は、使っていないのに)

 そう思った瞬間、私は口を閉ざした。
 使っていないのではない。使えないのだ――あの赤い光が怖くて、手を伸ばすことができない。
 炎、それは、全てを照らすものではなく――全てを思い出させるものだった。
 静かに再度ベッドに潜り込む。
 布団に包まって、両腕で自分の体を抱く。
 寒さは、きっと幻だ。そう、きっと……心の奥にあるものが、外に染み出してきているだけ。

(大丈夫と、私は聖女。選ばれた存在。……神に、愛された者)

 そう、何度も心の中で唱える。
 だが、その言葉は、慰めではなかった。
 それは呪文だ――それを唱えなければ、正気を保てないと、自分自身が知っていた。
 なのに、繰り返すたびに、なぜか苦しくなる。
 まるでそれが、嘘だからだと、どこかで分かっているかのように。
 静かに目を閉じる。
 瞼の裏に、光が差し込む。

 ――違う、それは光ではない。
 ――それは、炎だった。

 オレンジと紅の濃淡が、じわじわと天蓋を焼き崩していく。
 木材のはぜる音。誰かの叫び声、煙の匂いが、肺を満たしていく。

『……クララ様……見ていたでしょ?』

 ひゅっと、喉が狭まる。

『見ていましたよね?あの時、私が落ちていくの……手を伸ばしたのに、あなたは――』
「やめて……!」

 悲鳴のように吐き出す。でも、誰も止めてくれない。
 部屋には私しかいない。祈りを捧げるはずの神像すら、今夜はどこか遠くに見える。
 目を開けてみるが、炎は消えていなかった。
 ……いや、違う。瞼の裏に焼きついたその光景が、消えてくれないのだ。
 それは夢じゃない。
 あの夜、たしかに私の目の前で起きた事、そしてリリスがこちらに手を伸ばして、必死に呼んでいたこと。
 私は自分の手の甲を見た。
 白い皮膚に、赤く爪の跡が残っており、そして気づかないうちに、強く、強く握りしめていたのだ。
 血が滲んでいた。
 でも、痛みは――なかった。
 それどころか、少しだけ安心する自分がいた。

(あれは幻。あれは、そう、夢……そう、リリスは死んだの。私の代わりに)

 そうだ。
 神は私を選んだ。
 私を、救った。
 私を、生かした。

 ――それなのに、なぜ?

 胸の奥が、冷たい。
 鼓動がゆっくりになっていく。
 まるで、時間だけが凍りついているかのように。

 その時だった。

 はっきりと、【視線】を感じた。
 誰もいない部屋の中。
 天井の梁の隙間から、ベッドの脚元から、壁の裏から――どこかから、確かに誰かがこちらを見ている。
 いや、違う。
 誰かじゃない。
 あれは、【私】なのだ。
 あの夜、火の向こうから、手を伸ばしてきたもう一人の私。
 リリスーー私とは違う【本物の聖女】。
 
「……違う……私は……私は間違っていない……」

 震える声で呟く。
 言葉にならない嗚咽が喉を塞ぎ、祈りの形にならない。

 ――ああ、神よ。

 なぜ、あなたの名を呼ぶことさえ、私はできないのですか。

 以前は、ただ祈ればすべてが許されると思っていた。
 でも、今はもう違う。神の名前を口にするたび、あの子の目が脳裏に浮かぶ。
 どこからか、鐘の音が響く。それはゆっくりと、重く、じわじわと空気に染み込んでくるような音。
 それは王都に告げていた。
 【聖女裁断の儀】、開幕まで、残り一日――その瞬間、心臓が跳ねた。
 私は布団の中に身を丸める。
 ひたすら、呼吸を小さくして、気配を殺す。
 けれど、ダメだった。
 あの視線は、布団の中まで追いかけてきた。
 焼けただれた天蓋の向こうから、リリスが――私の罪が――静かに、手を伸ばしてくる。
 今夜だけは、どうか……どうか夢に来ないで。
 今夜だけは、【彼女】に会いたくない。
 ……そう、神に祈ろうとした、その瞬間。

『祈っても、無駄ですよ、クララ様』

 耳元で囁いた声は、たしかに【あの子リリス】のものだった。

 それを聞いた瞬間、私は――もう、眠れなかった。
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