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第08話 隣の寝室と、不器用な優しさ
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夜の屋敷は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
天井に吊られたランプはすでに灯を落とし、廊下には月の光がほんのりと差し込んでいる。
風がカーテンを揺らし、廊下を渡っていく音だけが、眠る屋敷の中でかすかに響いていた。
ユリウスは寝室の扉の前で足を止め、ふうっと長い息を吐く。
ようやく――やっと――たった一人になれる、貴重な時間だった。
今日一日を頭の中でざっと振り返る。
目覚めれば枕元にカイン。
風呂に行けばカイン。
食事の席にもカイン。
散歩に出れば、まるで影のように背後にカイン。
「……どこにでも出没する亡霊か何かですかね、あの人は」
肩を落としながら小さく独り言が漏れた。
疲労の限界を通り越し、ツッコミすらもはや形ばかりのものだ。
扉に手をかけ、ノブを引こうとした――その瞬間。
「待て」
「うわっ!?」
すぐ背後で聞こえた低い声に、思わず飛び上がりそうになる。
振り返ると、そこには気配ゼロでぬっと現れたカインが当然のように立っていた。
「な、なんでここに!っていうか、いつから!?」
「見送りに来た」
「見送り!寝室前で!?それ、もう不審者のそれですよ!!」
突っ込むユリウスに対し、カインはまったく動じずに言葉を継ぐ。
「それと――俺は隣室を使う」
「……は?」
間抜けな声が口をついて出た。
「何かあったとき、すぐ駆けつけられるように」
「いや、それストーカーの言い訳と変わりませんからね!?」
「俺は護衛だ」
「あなた、護衛って言えばなんでも許されると思ってるでしょ!?」
「思っている」
「即答で肯定すんなっ!!」
額を押さえ、ユリウスは深く頭を垂れた。
この男との会話には、常識や倫理など通じないのだといい加減に理解しなければならない。
「……あのですね」
必死で冷静さを保ちながら、言葉を選ぶ。
「壁が薄いんです、この部屋。くしゃみひとつでも筒抜けですよ?分かります?」
「そうか。それなら安心だ」
「安心じゃないわ!!くしゃみでも飛び込んでくる気ですか!?」
「当然だ」
「当然じゃねぇぇぇぇ!!」
怒鳴ったあとで、ふと力が抜ける。
もう怒る気力すら残っていなかった。
だというのに――不思議と、口元が緩みかける。
(……本当に、こういうところは変わらないな)
思い返すのは、まだ少年だったころの記憶。
自分の足元にいつも影のように控えていたこの男は、あの頃から何も変わらない。
余計なことは言わず、ただ「守る」だけを続けてきた人だった。
「……ほんと、融通きかないんですね」
「お前が不器用だから、釣り合ってる」
「不器用って言うな!」
「だが事実だ」
「事実でも、口に出されると腹立ちますっ!」
なのに、自分の声が、どこか楽しげだった。
言い返しながら、ふと気づく。
いつの間にか、自分は笑っていた。
カインがそれを見て、わずかに目を細めた。
「今の笑顔……久しぶりだな」
「……勝手に観察するな」
「悪い。だが、それを見るために生きてる気がする」
「……そういう重いこと、サラッと言わないでください!」
頬がかっと熱くなったのを悟られまいと、ユリウスは乱暴にドアノブを掴んだ。
「もう寝ます!明日の朝、また『護衛開始です』とか言いに来ないでくださいね!?」
「わかった」
「……ほんとに?」
「宣言はしない。行動で示す」
「やめろって言ってるだろー!!」
怒声とともに、ばたんと扉を閉める。
その向こうで、微かにくぐもった笑い声が聞こえた気がした。
寝室は静かだった。
白く整えられたベッドには、新しいシーツと薄い薔薇の香り。
ふかふかの毛布を引き寄せて、ユリウスは天井を見上げた。
「……ほんと、なんなんだろうな、あの人は」
誰にともなく呟く。
あの真面目すぎる瞳も、理屈の通じない執着も。
苛立つのになぜか放っておけない――嫌じゃない、と言い切れない自分が一番厄介だった。
ゆっくりと目を閉じる。
壁の向こうに、気配があった。
柔らかい足音が、隣室へ入っていく音。
――本当に隣の部屋で待機しているのか。
どこまでも馬鹿真面目な人だ。
「……ああもう、どうしてこの人にだけは勝てないんだか」
吐息とともに、毛布を頭まで被る。
どこかあたたかくて、どこか腹立たしい。
でも、不思議と安心できる。
唇の端が、ゆるんでしまった。
「……地獄、開幕ですね」
その小さな呟きは、夜の静寂に溶けていった。
天井に吊られたランプはすでに灯を落とし、廊下には月の光がほんのりと差し込んでいる。
風がカーテンを揺らし、廊下を渡っていく音だけが、眠る屋敷の中でかすかに響いていた。
ユリウスは寝室の扉の前で足を止め、ふうっと長い息を吐く。
ようやく――やっと――たった一人になれる、貴重な時間だった。
今日一日を頭の中でざっと振り返る。
目覚めれば枕元にカイン。
風呂に行けばカイン。
食事の席にもカイン。
散歩に出れば、まるで影のように背後にカイン。
「……どこにでも出没する亡霊か何かですかね、あの人は」
肩を落としながら小さく独り言が漏れた。
疲労の限界を通り越し、ツッコミすらもはや形ばかりのものだ。
扉に手をかけ、ノブを引こうとした――その瞬間。
「待て」
「うわっ!?」
すぐ背後で聞こえた低い声に、思わず飛び上がりそうになる。
振り返ると、そこには気配ゼロでぬっと現れたカインが当然のように立っていた。
「な、なんでここに!っていうか、いつから!?」
「見送りに来た」
「見送り!寝室前で!?それ、もう不審者のそれですよ!!」
突っ込むユリウスに対し、カインはまったく動じずに言葉を継ぐ。
「それと――俺は隣室を使う」
「……は?」
間抜けな声が口をついて出た。
「何かあったとき、すぐ駆けつけられるように」
「いや、それストーカーの言い訳と変わりませんからね!?」
「俺は護衛だ」
「あなた、護衛って言えばなんでも許されると思ってるでしょ!?」
「思っている」
「即答で肯定すんなっ!!」
額を押さえ、ユリウスは深く頭を垂れた。
この男との会話には、常識や倫理など通じないのだといい加減に理解しなければならない。
「……あのですね」
必死で冷静さを保ちながら、言葉を選ぶ。
「壁が薄いんです、この部屋。くしゃみひとつでも筒抜けですよ?分かります?」
「そうか。それなら安心だ」
「安心じゃないわ!!くしゃみでも飛び込んでくる気ですか!?」
「当然だ」
「当然じゃねぇぇぇぇ!!」
怒鳴ったあとで、ふと力が抜ける。
もう怒る気力すら残っていなかった。
だというのに――不思議と、口元が緩みかける。
(……本当に、こういうところは変わらないな)
思い返すのは、まだ少年だったころの記憶。
自分の足元にいつも影のように控えていたこの男は、あの頃から何も変わらない。
余計なことは言わず、ただ「守る」だけを続けてきた人だった。
「……ほんと、融通きかないんですね」
「お前が不器用だから、釣り合ってる」
「不器用って言うな!」
「だが事実だ」
「事実でも、口に出されると腹立ちますっ!」
なのに、自分の声が、どこか楽しげだった。
言い返しながら、ふと気づく。
いつの間にか、自分は笑っていた。
カインがそれを見て、わずかに目を細めた。
「今の笑顔……久しぶりだな」
「……勝手に観察するな」
「悪い。だが、それを見るために生きてる気がする」
「……そういう重いこと、サラッと言わないでください!」
頬がかっと熱くなったのを悟られまいと、ユリウスは乱暴にドアノブを掴んだ。
「もう寝ます!明日の朝、また『護衛開始です』とか言いに来ないでくださいね!?」
「わかった」
「……ほんとに?」
「宣言はしない。行動で示す」
「やめろって言ってるだろー!!」
怒声とともに、ばたんと扉を閉める。
その向こうで、微かにくぐもった笑い声が聞こえた気がした。
寝室は静かだった。
白く整えられたベッドには、新しいシーツと薄い薔薇の香り。
ふかふかの毛布を引き寄せて、ユリウスは天井を見上げた。
「……ほんと、なんなんだろうな、あの人は」
誰にともなく呟く。
あの真面目すぎる瞳も、理屈の通じない執着も。
苛立つのになぜか放っておけない――嫌じゃない、と言い切れない自分が一番厄介だった。
ゆっくりと目を閉じる。
壁の向こうに、気配があった。
柔らかい足音が、隣室へ入っていく音。
――本当に隣の部屋で待機しているのか。
どこまでも馬鹿真面目な人だ。
「……ああもう、どうしてこの人にだけは勝てないんだか」
吐息とともに、毛布を頭まで被る。
どこかあたたかくて、どこか腹立たしい。
でも、不思議と安心できる。
唇の端が、ゆるんでしまった。
「……地獄、開幕ですね」
その小さな呟きは、夜の静寂に溶けていった。
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