没落令息は、元許嫁の護衛騎士に買われ所有物になりました。

桜塚あお華

文字の大きさ
10 / 48

第10話 パン屋の青年

しおりを挟む
 昼下がりの陽射しが、屋敷の白壁を金色に染めていた。
 カインは商談のために街へ出かけ、屋敷には穏やかな静けさが漂っている。
 静寂している。
 けれど、それはユリウスにとって――千載一遇の好機だった。

「……チャンスですね」

 呟きながら、メイド長サラの足音が遠ざかるのを確認しそっと帽子を被る。
 身なりを整えるというよりは、気配を消すための偽装だ。
 廊下に飾られた肖像画に向かって、まるで神に誓うかのように深々と一礼する。

「外の空気を吸うだけです……決して、脱走ではありません。はい、間違いなく」

 そう言い訳を残し、そろりと扉を開いた。
 差し込む風が頬を撫でる――それだけで、胸がふわりと浮くようだった。

 街は活気に満ちていた。

 人々の笑い声、パンの焼ける甘い香り、子どもたちの無邪気な走る音――その全てがまるで別の世界のもののように思えて、ユリウスは立ち止まりそうになる。

「……懐かしいな」

 こんなふうに、ただ何も考えずに歩くのは、一体いつぶりだろう。
 陽光にきらめく石畳の上を、革靴の音がリズムを刻んでいく。
 目についたのは、街角の小さなパン屋。
 白く塗られた看板には、『リオ・ベーカリー』の文字が可愛らしく揺れていた。
 その香りに誘われて足を向けると――明るい声が飛んできた。

「いらっしゃいませ!」

 顔を出したのは、金髪の青年だった。
 その笑顔は、初対面のはずなのにどこか親しげですごくあたたかい。

「……おや、見ない顔だね。観光の方?」
「……まあ、そんなところです」

 警戒するでもなく、言葉が自然と口をついた。
 すると、青年――リオが興味深げに目を細める。

「ふふ、雰囲気が違うと思った。あなた、たぶん……貴族出身でしょ?」
「……な、なんで」
「姿勢と、話し方、それから――手。とても綺麗だ」

 リオは自分の手を見せるようにして笑った。

「パン職人ってね、人の『手』をよく見るんですよ。特に生地をこねるのが日常だから」

 ユリウスが返す言葉を見つけられずにいると、彼は店内から小さなパンを取り出した。

「新作のクロワッサン。焼きたてですよ。よかったら――どうぞ」
「……いいんですか?」
「もちろん。初めてのお客様には、特別に」

 差し出されたパンを手に取る。
 バターの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、指先まで柔らかい。

「うわ……おいしい」
「でしょ?焼きたては命ですからね」

 リオの言葉に、ふっと心がほどけた。
 その笑顔には、妙な計算や見返りの気配がない。だから、安心できた。
 そして――気づけば、ぽつりと過去が零れていた。

「……昔、うちもこんな匂いがしてたんです」
「え?」
「父が紅茶を入れて、母が花を飾って……焼き菓子の香りがしてて」

 ずっと、胸の奥に閉じ込めていた記憶。
 言葉にするだけで、少し痛む。でも、同時にあたたかい。

「……きっと、素敵なご家族だったんですね」

 リオの言葉は優しくて、どこか穏やかな日差しのようだった。
 けれど――そのぬくもりを遮るように、背後から冷たい影が落ちた。

 
「……随分、楽しそうだな」


 聞き慣れた、けれど低すぎる声――すぐさまユリウスは弾かれたように振り返った。
 そこにはカインが、店の入り口に立っている。
 そして、ユリウスを睨みつけるように立っているその姿は明らかに苛立ちを隠しているかのように。

「か、カイン!?な、なんでここに――」
「探した」
「さ……探さなくていいでしょ!?」
「お前がいないと、屋敷が異様に静かになる」
「静かで上等です!」

 カインは返事をせず、無言でカウンターの上にあったパンの袋を取る。
 リオが戸惑いながら笑った。

「えっと……お連れさん、ですか?」
「違――」
「そうだ」
「違うって言わせてくれ!?」

 またもピタリと重なる声。
 リオは思わず首を傾げ、遠慮がちに問いかける。

「まさか、えっと……ご夫婦、とか?」
「違う!!」
「そうだ」

 同時に、即答――今度は、リオも笑いを堪えきれなかった。

「……ふふ、なんだかんだで仲がいいんですね」
「仲良くないっ!!」

 とっさに否定したものの、頬がじんわりと熱を帯びていくのを自覚する。
 それに気づかれたくなくて、視線を逸らした。
 カインは静かにパンの袋を提げ、声を落とす。

「――帰るぞ」

 口調は冷静で、それが逆に怖かった。

「ちょ、ちょっと待って!待ってくださいカイン!?」

 ユリウスが慌てて礼を告げ、扉を押すその時――リオの明るい声が背中に届く。

「また、お二人で来てくださいねー!」
「行かない!!」

 リオの言葉を否定しながらも、通りの向こうで笑い声が上がるのを聞きながらユリウスは半ば引きずられるように、店を後にした。
 夕暮れの風は、昼よりも冷たくなっていた。
 帰り道に言葉もなく歩くカインの横顔を、ユリウスはちらりと盗み見る。

 無言……でも、明らかに機嫌が悪い。
 平静を装っているけれど、歩幅が少しだけ速い。

「……別に、変な話してたわけじゃないですよ?」
「……そうか」
「パンの話と、昔のことをちょっとだけ……」
「……そうか」
「『そうか』しか言わないの、やめてくれます、か?」

 堪らず声を荒げると、カインがふと足を止めた。
 静かに振り返り、そして月明かりがその顔を照らし、睫毛の影が長く落ちる。

「……知らない男と笑ってるお前を見るのが、気に入らなかった」

 その一言が、胸に強く響いた。
 胸が締め付けられるかのように、感じた事のない痛みが襲ってくる。

「……だから、探した」

 それだけだ。
 けれど――その一言の重みが、痛いほど伝わってくる。

「……ばか、ですね」

 ぽつりと零れた言葉は、まるで熱を逃がすようだった。
 顔を逸らし、わずかに俯く。
 どうしようもなく、頬が熱かった。
 カインは、静かに歩き出す。
 ユリウスも遅れて、その背に続いた。

 ただ並んで歩くだけなのに、心臓の鼓動がずっと早い。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました! 最終17位でした!応援ありがとうございます! あらすじ 魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました

よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、 前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。 獣人が支配する貴族社会。 魔力こそが価値とされ、 「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、 レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。 そんな彼を拾ったのは、 辺境を治める獣人公爵アルト。 寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。 溺愛され、守られ、育てられる日々。 だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。 学院での出会い。 貴族社会に潜む差別と陰謀。 そして「番」という、深く重い絆。 レオンは学び、考え、 自分にしかできない魔法理論を武器に、 少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。 獣人と人族。 価値観も、立場も、すべてが違う二人が、 それでも選び合い、家族になるまでの物語。 溺愛×成長×異世界BL。 読後に残るのは、 「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠
BL
目が覚めたら、やり込んだBLゲームの悪役公爵になっていた。 しかも手には鞭。目の前には涙を浮かべた美少年。 ——このままじゃ、王太子に処刑される。 前世は冴えない社畜サラリーマン。今世は冷徹な美貌を持つ高位貴族のアルファ。 中身と外見の落差に戸惑う暇もなく、エリオットは処刑回避のための「隠居計画」を立てる。 囚われのオメガ・レオンを王太子カイルに引き渡し、爵位も領地も全部手放して、ひっそり消える——はずだった。 ところが動くほど状況は悪化していく。 レオンを自由にしようとすれば「傍にいたい」と縋りつかれ、 カイルに会えば「お前の匂いは甘い」と迫られ、 隠居を申し出れば「逃げるな」と退路を塞がれる。 しかもなぜか、子供の頃から飲んでいた「ビタミン剤」を忘れるたび、身体がおかしくなる。 周囲のアルファたちの視線が絡みつき、カイルの目の色が変わり—— 自分でも知らなかった秘密が暴かれたとき、逃げ場はもう、どこにもなかった。 誰にも愛されなかった男が、異世界で「本当の自分」を知り、運命の番と出会う—— ギャップ萌え×じれったさ×匂いフェチ全開の、オメガバース転生BL。

【完結】逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。抱かれたら身代わりがばれてしまうので初夜は断固拒否します!

雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
隣国の国王キリアン(アルファ)に嫁がされたオメガの王子リュカ。 しかし実は、結婚から逃げ出した双子の弟セラの身代わりなのです… 本当の花嫁じゃないとばれたら大変! だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、 だんだんキリアンに惹かれてしまい、苦しくなる…という お話です。よろしくお願いします<(_ _)>

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~

大波小波
BL
 フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。  端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。  鋭い長剣を振るう、引き締まった体。  第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。  彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。  軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。  そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。  王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。  仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。  仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。  瑞々しい、均整の取れた体。  絹のような栗色の髪に、白い肌。  美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。  第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。  そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。 「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」  不思議と、勇気が湧いてくる。 「長い、お名前。まるで、呪文みたい」  その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。

【完結】スパダリを目指していたらスパダリに食われた話

紫蘇
BL
給湯室で女の子が話していた。 理想の彼氏はスパダリよ! スパダリ、というやつになったらモテるらしいと分かった俺、安田陽向(ヒナタ)は、スパダリになるべく会社でも有名なスパダリ…長船政景(マサカゲ)課長に弟子入りするのであった。 受:安田陽向 天性の人たらしで、誰からも好かれる人間。 社会人になってからは友人と遊ぶことも減り、独り身の寂しさを噛み締めている。 社内システム開発課という変人どもの集まりの中で唯一まともに一般人と会話できる貴重な存在。 ただ、孤独を脱したいからスパダリになろうという思考はやはり変人のそれである。 攻:長船政景 35歳、大人の雰囲気を漂わせる男前。 いわゆるスパダリ、中身は拗らせ変態。 妹の美咲がモデルをしており、交友関係にキラキラしたものが垣間見える。 サブキャラ 長船美咲:27歳、長船政景の年の離れた妹。 抜群のスタイルを生かし、ランウェイで長らく活躍しているモデル。 兄の恋を応援するつもりがまさかこんなことになるとは。 高田寿也:28歳、美咲の彼氏。 そろそろ美咲と結婚したいなと思っているが、義理の兄がコレになるのかと思うと悩ましい。 義理の兄の恋愛事情に巻き込まれ、事件にだけはならないでくれと祈る日々が始まる…。

処理中です...