没落令息は、元許嫁の護衛騎士に買われ所有物になりました。

桜塚あお華

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第12話 夜の回廊で、「誰のものか」の一言

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 深夜の回廊に、静寂が降り積もっていた。
 月明かりが高い窓から差し込み、石造りの床をやわらかく照らす。
 白銀に染まった長い廊下は、まるで時間の止まった別世界のようだった。
 屋敷はすっかり眠っていた。
 風も、森も、夜の帳に包まれて――ひとつ、ひとつと音を失っていく。
 ユリウスは寝台の上で、またひとつ寝返りを打つ。
 シーツのひんやりとした感触が肌にまとわりつくたび、眠気は遠ざけ、閉じたまぶたの裏に浮かぶのはあの低く押し殺した声。

「……守るだけじゃ、足りないと気づいているのに」

 胸の奥がきゅう、と疼いた。
 やがて、諦めたように上体を起こす。
 シーツを払い、素足で床に降りるとひやりとした石の感触が足裏を撫でた。

「……眠れない」

 ぽつりと呟いた声は、誰に届くこともなく夜に溶ける。
 羽織を引っかけ、静かに部屋を出た。
 長い廊下には、燭台の炎がぽつ、ぽつと灯っていた。
 壁にかけられた絵画の額縁が、月明かりに鈍く光っている。
 歩を進めるたびに、ユリウスの影が細く長く伸びた。

(……怒っているのは、あっちのはずなのに)

 なのに、胸に残るのはなぜか自分のほうのざらつきだった。
 反発でも、罪悪感でもない。もっと、曖昧でややこしい感情――まるで自分でも理解できない棘のように、ずっと心の奥で疼いていた。
 廊下の先に、ひとつの影が見えた。
 黒い輪郭が月の光を背にして、壁にもたれている。

(――見つけた)

 ユリウスは無意識に歩を速めた。

「……カイン」

 声に反応するように、その男がゆっくりと振り向く。
 月光が頬をなぞり、睫毛の影が長く伸びた。
 壁に凭れるその姿は、まるで“ずっとここで待っていた”ように自然だった。

「……眠れないのか?」

 低く落ちる声。
 その音が、やけにやさしく耳を撫でてくる。

「そっちこそ……まさか、俺を監視に?」
「違う」

 即答だった。

「監視は、今日はしていない……ただ――お前が誰のものか、はっきりさせておこうと思った」

 言葉の意味を、脳が理解するより先に。
 鼓動が、跳ねた。

「……は?何を言っているんですか?」

 ユリウスの声が裏返る。
 冗談だと思いたかった。
 けれど、カインの瞳は冗談を言えるような光じゃなかった。
 静かに、歩み寄ってくる。
 足音が石の床に吸い込まれていくたびに、心臓の音がそれを追い越すように高鳴った。
 壁に背を押しつけたときには、もう――目の前にカインがいた。

「な、なにを……」
「言葉通りだ」

 低く響く声が、夜の空気を震わせる。
 カインの影がユリウスを覆い、空間がすっかり閉ざされる。

 逃げ道など、もうどこにもなかった。

 指先がそっと、頬に触れる。
 そこから零れる熱が、じわりと広がっていく。
 顎先をすべるように滑るその手のひらは、優しくも、どこか決意めいていて。

「――にも渡す気はない」

 耳元で囁かれた言葉に、思考が真っ白になる。
 ふっと吐かれた息が頬を撫で、熱に肌が震える。
 胸の内側で何かが、じくじくと疼いて――それが何か、もう知ってしまっていた。
 目を閉じる一歩手前。
 カインの顔が、触れるほど近くにあった。

(……だめ、だ。こんなの……)

 なのに、逃げられなかった。

 指先ひとつ、視線ひとつで、呼吸も脳もすべて支配されていく。
 触れられただけで、これほど心を乱されるのは、どうして。

 ――触れる、そう思ったその時。

 カインがふ、と目を伏せる。
 瞳にかすかな迷いの光が揺れる。

「……これ以上は、ずるいな」

 静かに身体が離れていく。
 熱が引くと同時に、名残惜しさだけがまるで指先の神経に染み込んだように残った。
 ユリウスは顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
 胸の奥で、答えの出せない何かがぐらぐらと今でも揺れている。
 何も言えることが出来ない、そして言葉がどうしても出てこない。

「……なっ、なにそれ……途中で止めるな……!」

 ようやく喉から出た怒鳴り声は、どこか震えていた。
 カインは目を細め、唇の端に微かな笑みを浮かべる。

「怒ると顔が赤くなるのは、昔からだ」
「記憶力のいい変態か……っ!」

 反射的に叫び返し、くるりと踵を返す。
 足音が速くなるのは、逃げているからじゃない。
 ただ、これ以上――この胸の音を聞かれてしまいそうで怖かった。
 背後で、くぐもったような笑い声が零れ落ちた。

「……やっぱり、お前は放っておけない」

 その声は、夜風よりも優しく、静かに彼の背を撫でていった。
 けれど、その胸の奥では――静かな声に乗らない、もう一つの本音が息を潜めていた。

(……怖いんだ)

 ユリウスの背中が遠ざかっていくのを見つめながら、カインはゆっくりと拳を握った。

(あと数センチ、あの唇に触れていたら――俺は、お前を壊していた)

 あの夜、街で他の男と笑っていた姿を見たとき。
 自分の中にある何かが、確かに軋んだ。
 守りたい、のに、あの瞬間は奪いたいと思った。
 誰の目にも触れさせたくない。
 どこへもやらない。
 そのためなら、どんな理性も焼き尽くして構わない――そんな衝動が、喉元までせり上がっていた。

(でも……それじゃ駄目だ)

 ユリウスの唇に触れそうになったとき、ほんの一瞬、彼のまなざしが揺れた。
 信じてくれている、という目だった――それを裏切りたくなかった。
 抱きしめることも、奪うこともできる。
 けれど、それは自分の欲を満たすだけで、ユリウスの心には届かない。

(お前を俺のモノにしたい。でも――大切にしたいのほうが、勝ってしまったんだ)

 不器用で、頑なで、どこか傷つきやすいその人を壊すような真似だけはしたくなかった。

 ――ほんとうは。

 触れることすら怖いくらい、誰よりも、大事な存在なのに。

 白銀の月が、ふたりの影をそっと重ねるように照らしている。
 互いに気づかぬまま、けれど確かに近づき始めた心の距離をそっと包み込むように。
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