没落令息は、元許嫁の護衛騎士に買われ所有物になりました。

桜塚あお華

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第20話 不穏な気配※微

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 夢の中で、ユリウスは見慣れた屋敷の回廊を歩いていた。
 けれど、空気がどこかおかしい。
 重く湿った気配が、肌にまとわりつくようだった。
 足元の石畳は濡れていて、まるで冷たい粘液のように足を取る。

 その先に、一人の男が立っていた。
 間違いなくその人物はエドガー・リドフォードだった。
 そして、この屋敷は『あの時』と同じ場所だ。
 これから起こる事を想像したユリウスは急いで逃げようとする。
 しかし、彼は笑いながらユリウスの手を掴んだ。


『――君は、俺のものだろう?』

「や……っ、やめ……」

 口から漏れた声は震えていた。
 体を引こうとしても、足がすくんで動かない。
 まるで見えない鎖に縛られているかのようだ。
 エドガーの指先が、頬に触れる。
 冷たい――けれど、それ以上にその触れ方が優しすぎて、ぞっとする。

「っ……やだ、来ないでくれ……!」

 息が詰まりそうになる。
 叫びたいのに、声にならない。
 重苦しい空気が喉を塞ぎ、夢だとわかっていても、抜け出せない。

 ――助けて、カイン。

 心の中でそう叫んだ瞬間、視界が弾けた。

   ▽

「うわぁぁぁっ!!」

 ユリウスは、叫ぶと同時にベッドの上で跳ね起きた。
 胸が苦しくなるほど速く鼓動していて、シャツは寝汗でぐっしょりと濡れていた。
 息が荒い。喉が乾く。
 シーツの感触が、まるで過去の記憶を引きずっているようで――身体が震えた。

「……夢、だよな?ああ、ゆ、夢なんだ……大丈夫。もう過去だ、大丈夫……」

 震える手で胸元を握る。
 シャツの布地が湿っていて、手のひらの中で無様にしがみついてきた。
 顔を上げると、カーテンの隙間から午後の光が射していた。
 窓の外には、秋の青空が広がっているはずだったのに。
 どうして、こんなにも冷たく感じるのだろう。

 ――嫌な予感がする。

 理由はわからない。
 けれど、肌が警鐘を鳴らしていた。
 胸の奥でざらつくような気配を抱えながら、ユリウスはゆっくりとベッドを降りた。

    ▽

 午後、落ち着かない素振りを見せながら、ユリウスは用意されている紅茶を飲んでいる。
 その時、カイン邸の正門に一台の馬車が音もなく停まった。
 城下からそう遠くないこの屋敷には、日頃から物資の出入りはある。

 けれど――この馬車は、どこか違った。

 黒ずんだ木の車体、磨かれていない金具。
 商人と呼ぶにはあまりに品がなく、貴族と呼ぶには野暮ったい。
 馬車から降りてきたのは、中年の男だった。
 肥えた身体を濃い紫のマントで包み、口元には薄く笑みを浮かべている。
 だがその笑みは、ただの挨拶ではない。
 相手の反応を観察する、どこか蛇のような視線だった。

「お客様……でしょうか?」

 門の前で対応したのは、執事グレアム。
 いつも通り丁寧に頭を下げるが、その背筋はぴんと張っている。

「ヴァルドと申します。ユリウス殿に少々、挨拶を」
「恐れ入りますが、ただいまご当主もユリウス様も取り込み中でして」
「ふふ……そう固いことを。昔なじみの再会ですぞ? ねぇ、『元』令息殿になら、会って損はありませんやろ」

 グレアムの目が細くなる。
 その言い回しに、品も敬意もなかった。
 警戒心を高めたその時だった。

「……これはこれは、ヴァルドさんではありませんか」

 その声に、グレアムが振り返る。
 屋敷の中から姿を現したのは、まさにその『元』令息――ユリウス本人だった。
 顔色は少し悪い。
 だが、目だけは強く光っていた。
 息を吸いながら、ユリウスはヴァルドに視線を向け、演技のように言葉を発した。
 ヴァルドの顔に、いやらしい笑みが広がる。

「おお、これはこれは。ユリウス殿。以前よりずいぶんお元気そうで……ようございましたなァ」

 その声が耳に触れた瞬間、ユリウスの全身がこわばった。
 記憶が、波のように押し寄せる。

 ――気持ち悪い、顔だ。

 借金取りであるこの男は最後には自分を『商品』にしようとした。
 しかし、金はカインが支払ったはずなのに、どうしてここにいるのかわからない。
 二度と、会う人物ではなかったはずなのだが。

「……何故、この屋敷に?」

 ユリウスの声は低く震えていた。
 『あの夢』を思い出していたのかもしれない。
 嫌な予感が頭の中に過り、それでも何とか崩さないように、冷静に話をしようとした瞬間、突然ユリウスの視界が塞がれる。
 カインだった。
 無言のまま、彼はユリウスの前に立ち、まるで盾のように間に入った。

「……その呼び方は、やめろ」

 その声は、氷より冷たく、刃のように鋭かった。
 カインの眼差しが、ヴァルドを射抜く。
 感情を表に出すことが少ない男が、明らかに“怒って”いた。

「この邸は、貴様のような者を迎える場所ではない。帰れ」

 わずかに低くなった声。
 その一言に、空気が張りつめる。
 ヴァルドは口元だけで笑っていた。

「いやいや、物騒ですなぁ。旧知の仲にそんな目を向けるとは」

「旧知ではない。貴様はユリウスを売った人間で、ただの借金取りだ」
「『保護』しようとしてやっただけですよ。行き場もなかった、哀れなお方をね」
「二度とその口で彼の名前を出すな」

 カインの視線が、さらに鋭くなる。
 その背で、ユリウスが目を見開いていた。

 怒っている――カインが、こんなふうに声を荒げることは滅多にない。

 けれど、今は違った。

 彼の背中は、どこまでも大きく、頼りがいがあって――何よりも、あたたかかった。

「カイン……」

 ぽつりと名前を呼ぶ。
 それに応えるように、カインが一度だけ短く頷いた。

「グレアム。門を閉じろ」
「はっ」

 老執事が深く礼をして、静かにヴァルドの前に立つ。
 門が音を立てて閉じられる直前、ヴァルドが一言だけ残した。

「……ほんに、惜しいお方ですわ」

 そう呟いた時、その言葉は何か意味があるのか。
 何か嫌な感じがしてならない。

(……また、来る)

 ぞわりと、背筋に冷たいものが走った。

 そして――それを理解しているのは、ユリウスだけではない。
 カインの瞳が、閉ざされた門をじっと睨みつけたまま動かない。

「……放ってはおけない」

 その低い呟きが、秋の空気に溶けて消えた。
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