何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第38話 クリス視点

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 時が止まったような静寂が小屋の中に広がっている。
 窓の隙間から差し込む陽光は、季節が進んだことを告げるように少しずつ角度を変えていたが室内の空気はあの日から何一つ動いていないかのようだった。
 クリスは、ベッドの横に座っていた。変わらぬ姿勢で。変わらぬ想いで。
 その手は、今もハイデンの手をしっかりと握ったままだった。
 ハイデンの寝顔は穏やかだった。まるでただ、少し長い眠りに落ちているだけのように――けれど、どれだけ呼びかけてもどれだけ手を握ってもその瞼はぴくりとも動かない。

 「……もう、一ヶ月か」

 ぽつりとこぼれた声は、自分に向けた呟きだった。

 水はある、食料も最低限は確保されているのだが、クリスはほとんどそれらに手をつけていなかった。喉の渇きや空腹すら、どこか遠い感覚になっていた。
 ただ、ハイデンの手だけは、どうしても放せなかった。

「……お前がいないなら、俺の時間なんか止まったままだ……もう一度俺の名前、呼んでくれよ、クリスって」

 たとえ返事がなくても、たとえ目を覚まさなくても、ハイデンがここにいる限りクリスはその傍を離れる気はなかった。
 どれだけ世界が進もうと、この小屋だけは――あの日の夜に閉じ込められたままだった。

「こんにちはー!」

 窓の外から風が入り込んだと同時に、突然大きな声が響く。
 ノックの音が何回もなり、そしてそのまま扉が勢いよく開けられた。

「……クリス、いるよね! 開けるよー!!」

 扉が軋む音とともにひょこりと顔をのぞかせたのは、小柄でひょろりとした少年だった。
 浅黒い肌に、風に跳ねた短い髪。手には籠を提げ、薬草の匂いをまとっている。

「よっ、と。今日はちょっと早めに来れた」

 扉の隙間から器用に身体を滑り込ませて、慣れた様子で靴を脱ぎ、まっすぐにテーブルへ向かう。
 少年の名前はリド、近くの村に住む、名もない薬師の孫。
 二日に一度、食料や水、簡単な薬草や手製の軟膏を持ってこの小屋にやってくる少年だった。

「はい、パンとスープ……あとばあちゃんが乾かしたハーブも入れておいたってさ。風邪に効くらしいよ、気休めかもしんないけど」

 軽やかな口調で言いながら、籠から荷物を一つひとつ並べていく。
 乾いたパン、ぬるめのスープ、いくつかの香草。瓶に詰められた軟膏。全て贅沢ではないが誠意がこもったものだった。

「あ、ハイデンさん、こんにちはー。今日も……元気、とは言えないけど、落ち着いてるね」

 ベッドで眠り続けるハイデンへ、リドはまるで話し相手にするように、当然のように声をかけた。そして、そのまま傍に用意された小さな椅子に腰を下ろす。
 クリスはその間、ずっと無言だった。
 背を向けたまま、視線をハイデンから離さない。
 顔色は悪く、目の下には隈――だが、それ以上に彼の【熱】が失われていることがリドにはわかっていた。

「今日のパン、ちょっとだけ焼きすぎたってさ。ばあちゃんがごめんって言ってたよ」
「……十分だ」

 漸く返ってきた短い返事にリドはにこっ、と笑った。
 慣れたやりとり、けれどそれがあるだけでも、今日は少しマシな日だ。
 テーブルに荷物を置きながら、リドはちらちらとクリスを見やる。
 片手はずっとハイデンの手を握ったまま。姿勢も表情も変わらない。まるで彼の時間だけがどこかで止まってしまったかのようだった。

「ねえ、しゃべらないと腐るよ」

 突然の言葉――クリスの肩がほんのわずかに動いた。

「……は?」

 視線をようやく向けてきた男の顔は、眠っていない目の色をしていた。

 「人ってさ、言葉にしないと、どっか壊れちゃうんだって……うちのばあちゃんが言ってた」
 「……ばあちゃん、何者なんだよ」
 「ただの薬師だよ。でも、たぶん王宮の魔術師よりよっぽど正しいよ」

 さらりと答えて、リドはスープの瓶の蓋を軽く締め直す。
 それから何気ない顔で、眠り続けるハイデンに目を向けた。

「魔術で寝てる人って、腐るのかな。体の中から魔力が漏れて、変になったりしないの?」
「腐らない……【多分】」
「【多分】って何さ。クリスって魔術ちょっと使えるんでしょ? 知らないの?」
「……知らねぇよ。俺、そんな勉強してない……それに、俺は傭兵だったから、そんなに魔術は使わなかった」
「へぇ、そうなんだ」

 口をとがらせながら答えるクリスに、リドは満足そうににやりと笑った。言葉が返ってくる。それだけで、この小屋の空気が少しだけ生き返る気がする。
 彼は知っているのだ――こうして言葉をかわすことが、どれだけ貴重か。

「でも、あの人が腐るより……クリスが先に倒れる気がするな」

 ぽつりと落とされたその言葉に、クリスは返事をしなかった。
 けれどその口元が、ほんの僅かに、微かに動いた。
 それは笑みだったのか、あるいは哀しみの緩みだったのか。どちらともつかない表情を、リドはじっと見ていた。

「……次、明後日また来るよ。今度はスープ、もうちょいマシなのにするって」
「……ああ」
「食べなかったら、次はあーんって食べさせるからな。俺」
「……お前、いくつだよ」
「十と二。思ったより大人だろ?」
「……十二であーんは大人じゃねぇよ」
「は? じゃあ、おじさんはいくつ?」
「……おじさんではない」
「じゃあへたくそな大人って事で」
「今ぶん殴りたいな……」

 そんな風に、ほんの少しだけ交わされる言葉たち。
 リドは悪戯っぽく笑いながら手を振り、小屋を後にした。その背中は、相変わらず小さい――けれど、クリスにとっては嵐の中で息継ぎさせてくれる風のようだった。
 ドアが閉まり、再び静けさが戻る。けれど、クリスはハイデンの手を握ったまま、小さく呟いた。

「……十二に、言われるとはな思わなかったな……そう思わないか?ハイデン」
「……」

 ハイデンに声をかけるが、彼はしゃべらない。静かに眠る彼の姿に、クリスは愛おしそうな顔をしながら、そのまま手の甲にゆっくりと口づけをするのだった。
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