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3話 口紅
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入社してまだ一ヶ月の新人──川野 祐吏。さぞやあたふたと仕事をしているのだろうと売り場に出てみれば。
「ゆうり~。おはよ」
「おはよ、なつ」
「おはよー」
「リナ、おはよ」
「は?」
一応付け加えておくけれど、最後の「は?」は私である。販売部社員のなっちゃんとリナ両名に対してまさかの下の名前呼び、おまけに呼び捨て更にはタメ口ときた。
「おー涼じゃん! 治ったん!」
「治った……ご迷惑おかけしました」
なっちゃんとリナに背中をバシバシと叩かれ、横目にシフトを確認する。今日のラストは私と──……川野君である。
「ゆうり! ちょっといいか!」
厨房から川野君の名前を呼んだのは店長だった。「ゆうり」とそう呼んだのだ……まだ入って一ヶ月程度の彼を。店長の呼びかけに表情を変えず足早に向かった彼の背中を無言でビシッと指差す私を見て、リナが思い出したように両手を打った。
「あぁ涼華、ゆうり初めてだったか」
「なに、あの生意気なガキ」
「ガキって……ゆうり二十六って言ってたよ」
「私より四つも下じゃん! ガキだよ!」
「接客業初めてなんだって~。接客ベテランの涼華が指導してやって」
「なんでよ!」
「自分そろそろ休憩行くから~。お客様入ってくるよ~。いらっしゃいませ~!」
「ちょ……リナ!」
「いらっしゃいませー」
リナと入れ替わる形で売り場に現れたのは言わずもがな川野君だった。抑揚のない単調なトーンの「いらっしゃいませ」は、なんだか冷たく感じられた。
「川野君、ちょっと」
「なんですか」
「もう少し語調柔らかく、語尾は上げて」
「いらっしゃいませ~?」
「ふざけてんの?」
「ちょっといいですか?」
「は?」
華やかで甘い香りの売り場から、ひんやりと冷めきった厨房へ手招きをされる。なっちゃんにアイコンタクトを送り、彼に着いて厨房へと下がる。
「何?」
「僕、けっこう仕事覚えてるんで指導とか要らないです」
「はあ?!」
「覚えるの早いんですよね」
「でも接客はあんなのじゃ駄目!」
「今のところ問題ないです」
「はあぁ?!」
「じゃあ、なつ一人なんで戻りますね。円下さんも早く来てください」
「はああぁっ!?」
呼び出したのお前だろうが、というか何その態度! と呼び止める暇も与えず私が壁を殴り付けていると、食材を取りに現れた職人の光ちゃんにクスクスと笑われてしまった。
「光ちゃん! 川野君と絡んだ?」
「円下さん怒ってますねぇ。苦手なタイプですか?」
「寧ろ顔と体型は好みなんだけど態度がいけ好かない!」
「アッハッハ! 私戻りますねぇ」
アラザンを手に颯爽と厨房に戻る光ちゃん。気は強いがさっぱりとした性格の彼女は、男性職人に囲まれていてもブレずに仕事に取り組む様が高く評価されている。そんな彼女の背を見送り、私も売り場へと急ぐ。
売り場へ戻った頃には来店客の姿はなく、なつと川野君が仲睦まじげに談笑中。たった一ヶ月休んだだけなのに、私の居場所がなくなっているように感じた。
「涼、ゆうりのモテ話聞く~?」
「はあ? モテ話?」
「ヤバイよね、昔10股してたって」
「クズかよ……」
何故か得意気な顔の川野君を睨み付け、溜め息を吐く。まあこの容姿に女性とのコミュニケーションをとるのも上手いとくれば、引く手数多ではあろう。だからといって10股とは信じられないことをする男もいたものだ。
「なつ、試しに俺と付き合ってみる?」
声をかけられたのは私ではないというのに、その妖艶な唇から溢れる艶っぽい声に胸がどきりと跳ね上がる。その言葉は──声は、なっちゃんただ一人に向けられたものであるというのに、ただ傍にいるだけの私を完全に虜にしたのだ。
「ゆうりと? ないない、ありえんわ」
「え~なんで?」
「なつは~、なつの純潔を大事にしたいのっ。ヤリチンが初めての相手は無理」
「言い方」
「事実でしょ?」
「俺、処女にも容赦ないよ?」
「だから無理だってば」
笑いながら背を向けるなっちゃんは、バックヤードに下がってしまった。残された私はただただ気不味い。
「円下さんは彼氏とかいるんですか?」
「へっ?! あっ、う……」
その時、店の入口のドアが開いた──来客だ。中途半端に途切れた気持ちの悪い会話は、お客が去っても続くことはなく、胸にもやもやとした不快な感情を残したままただ時間だけが過ぎていった。
*
午後六時。閉店の時間だ。
幸い、今日は夕方からのお客が多く、川野君との気まずい時間が発生することはなかった。まさに不幸中の幸いである。──が、問題はここからであった。
店の鍵を閉め売場の電気を消し、滞りなく業務を終了するところまではよかった。
(……気まずい)
店内には私と川野くんたった二人。彼はあれから無駄口を叩くことなく、黙々と仕事をこなしていた。中途半端になったままの会話は、再開することもなく──……。
(ひょっとして私、期待してるの)
馬鹿みたいだ、と首を振り顔を上げると無言で私を見つめる彼。
「何?」
「いや。別に。ていうか、円下さん口紅替えました?」
「口紅? 替えたけど……」
言われてみれば確かに、今日は最近手に入れた新作の口紅を使っている。テラコッタピンクの、可愛らしいカラー。
「でも、なんで」
私が彼とこの職場で会ったのは、今日が初めてだというのに。私は彼をお客として認知はしていたけれど、彼は私を──……。
「そんなの、決まってるじゃないですか」
「ゆうり~。おはよ」
「おはよ、なつ」
「おはよー」
「リナ、おはよ」
「は?」
一応付け加えておくけれど、最後の「は?」は私である。販売部社員のなっちゃんとリナ両名に対してまさかの下の名前呼び、おまけに呼び捨て更にはタメ口ときた。
「おー涼じゃん! 治ったん!」
「治った……ご迷惑おかけしました」
なっちゃんとリナに背中をバシバシと叩かれ、横目にシフトを確認する。今日のラストは私と──……川野君である。
「ゆうり! ちょっといいか!」
厨房から川野君の名前を呼んだのは店長だった。「ゆうり」とそう呼んだのだ……まだ入って一ヶ月程度の彼を。店長の呼びかけに表情を変えず足早に向かった彼の背中を無言でビシッと指差す私を見て、リナが思い出したように両手を打った。
「あぁ涼華、ゆうり初めてだったか」
「なに、あの生意気なガキ」
「ガキって……ゆうり二十六って言ってたよ」
「私より四つも下じゃん! ガキだよ!」
「接客業初めてなんだって~。接客ベテランの涼華が指導してやって」
「なんでよ!」
「自分そろそろ休憩行くから~。お客様入ってくるよ~。いらっしゃいませ~!」
「ちょ……リナ!」
「いらっしゃいませー」
リナと入れ替わる形で売り場に現れたのは言わずもがな川野君だった。抑揚のない単調なトーンの「いらっしゃいませ」は、なんだか冷たく感じられた。
「川野君、ちょっと」
「なんですか」
「もう少し語調柔らかく、語尾は上げて」
「いらっしゃいませ~?」
「ふざけてんの?」
「ちょっといいですか?」
「は?」
華やかで甘い香りの売り場から、ひんやりと冷めきった厨房へ手招きをされる。なっちゃんにアイコンタクトを送り、彼に着いて厨房へと下がる。
「何?」
「僕、けっこう仕事覚えてるんで指導とか要らないです」
「はあ?!」
「覚えるの早いんですよね」
「でも接客はあんなのじゃ駄目!」
「今のところ問題ないです」
「はあぁ?!」
「じゃあ、なつ一人なんで戻りますね。円下さんも早く来てください」
「はああぁっ!?」
呼び出したのお前だろうが、というか何その態度! と呼び止める暇も与えず私が壁を殴り付けていると、食材を取りに現れた職人の光ちゃんにクスクスと笑われてしまった。
「光ちゃん! 川野君と絡んだ?」
「円下さん怒ってますねぇ。苦手なタイプですか?」
「寧ろ顔と体型は好みなんだけど態度がいけ好かない!」
「アッハッハ! 私戻りますねぇ」
アラザンを手に颯爽と厨房に戻る光ちゃん。気は強いがさっぱりとした性格の彼女は、男性職人に囲まれていてもブレずに仕事に取り組む様が高く評価されている。そんな彼女の背を見送り、私も売り場へと急ぐ。
売り場へ戻った頃には来店客の姿はなく、なつと川野君が仲睦まじげに談笑中。たった一ヶ月休んだだけなのに、私の居場所がなくなっているように感じた。
「涼、ゆうりのモテ話聞く~?」
「はあ? モテ話?」
「ヤバイよね、昔10股してたって」
「クズかよ……」
何故か得意気な顔の川野君を睨み付け、溜め息を吐く。まあこの容姿に女性とのコミュニケーションをとるのも上手いとくれば、引く手数多ではあろう。だからといって10股とは信じられないことをする男もいたものだ。
「なつ、試しに俺と付き合ってみる?」
声をかけられたのは私ではないというのに、その妖艶な唇から溢れる艶っぽい声に胸がどきりと跳ね上がる。その言葉は──声は、なっちゃんただ一人に向けられたものであるというのに、ただ傍にいるだけの私を完全に虜にしたのだ。
「ゆうりと? ないない、ありえんわ」
「え~なんで?」
「なつは~、なつの純潔を大事にしたいのっ。ヤリチンが初めての相手は無理」
「言い方」
「事実でしょ?」
「俺、処女にも容赦ないよ?」
「だから無理だってば」
笑いながら背を向けるなっちゃんは、バックヤードに下がってしまった。残された私はただただ気不味い。
「円下さんは彼氏とかいるんですか?」
「へっ?! あっ、う……」
その時、店の入口のドアが開いた──来客だ。中途半端に途切れた気持ちの悪い会話は、お客が去っても続くことはなく、胸にもやもやとした不快な感情を残したままただ時間だけが過ぎていった。
*
午後六時。閉店の時間だ。
幸い、今日は夕方からのお客が多く、川野君との気まずい時間が発生することはなかった。まさに不幸中の幸いである。──が、問題はここからであった。
店の鍵を閉め売場の電気を消し、滞りなく業務を終了するところまではよかった。
(……気まずい)
店内には私と川野くんたった二人。彼はあれから無駄口を叩くことなく、黙々と仕事をこなしていた。中途半端になったままの会話は、再開することもなく──……。
(ひょっとして私、期待してるの)
馬鹿みたいだ、と首を振り顔を上げると無言で私を見つめる彼。
「何?」
「いや。別に。ていうか、円下さん口紅替えました?」
「口紅? 替えたけど……」
言われてみれば確かに、今日は最近手に入れた新作の口紅を使っている。テラコッタピンクの、可愛らしいカラー。
「でも、なんで」
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