枷と鎖、首輪に檻

水鏡こうしき

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 翌日の朝、いつものように彼を見送りアイがテレビをつけてくれる。どの局も砂嵐で、唯一映るのは国営放送の局だけだった。朝のドラマや天気予報すら流さず、例のウイルスのニュースばかりを、男性タイプのアンドロイドアナウンサーが読み上げている。
 窓の外もいつもより静かな気がした。思えば、昨日から車のエンジン音を聞いていない。大通りから離れているとはいえ、住宅地なのだから毎朝通勤の車は通るというのに。それに加えて子供たちのはしゃぎ声や鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。三日前までやたらと聞こえていた救急車のサイレンすら聞こえなくなっていた。
 何かがおかしい……そう過った刹那、玄関の鍵が開き扉が開いた。

「け……啓くん? どうしたの? まだお昼前だよ?」
「ひかり……いいから黙って僕の言うことを聞いてくれる?」

 仕事着──白衣姿のまま、ケージの前で彼は小型のアタッシュケースを開く。中には注射器と、小さな瓶に入った液体……薬剤だろうか。

「アイ」
「はい」
「今から君のご主人様は僕とひかりの二人だ。僕に何かあったときはひかりを頼む」
「承知いたしました」
「君の判断で動いてもらって構わない」
「……啓くん?」

 ガチャリとケージの鍵が開く。薬剤の入った注射器を手に持った彼が私との距離を詰めてくる。

「大人しくしてて」
「それ……なに? 私に刺すの?」
「そうだよ」
「待ってお願い……! 啓くん、私が注射怖いの知ってるよね?」
「……」
「お願い……枷を外して、抱き締めて刺して欲しい。じゃないと怖いよ……」

 予防接種の注射でさえ、目を固く閉じて誰かに寄り添って貰わないと打てないくらい注射は苦手だった。彼もそれを知っている筈だし、二度ほど病院に付き添ってもらったことがあった。「そういえばそうだった」と思い出したのか、彼は注射器片手に私を繋ぐ枷を手早く外してゆく。

「おいで」
「それは何なの? 怪しい注射じゃないよね?」
「教えるとひかりが危ない目に会うから」
「教えてもらえないのに痛い思いしなきゃいけないの?」
「フェアじゃないのはわかってる。恨んでくれて構わない。大丈夫、他には何も隠していない」

 疑いの視線を向けると、彼は溜め息を一つ。白衣とカッターシャツ、それに下着まで取り去り私とお揃いの格好になると、彼は「ほらね、安心して?」と言って私の頬を撫でた。

「これからもずっと傍にいる、だから大丈夫」
「うん……」
「抱きしめてあげる、来て」
「うん……」

 彼の腕の中にするりと滑り込むと、すぐに注射針が腕に迫った。ゆるりと顔を上げ、そっと彼と唇を重ねる。きっとこれが最後だからと、私から彼の中に踏み行った。初めてのことに驚いたのか、彼の手が一瞬止まった次の瞬間──。

「い゛っ……んぐ!? うあ゛っ!?」

 がぶり、と薄い唇にかぶり付き、彼が怯んだ隙に手から滑り落ちた注射器を奪い取る。剥き出しの太股に容赦なく乱暴に針を刺してやった。

「はぁっ……はぁっ……やっ……!」
「おい! ひかりっ!!」

 渾身の力を込めて彼を押し退け、ケージの外に出る。急いで檻を閉め、震える指先で鍵を掛け勢いよく立ち上がる。足をもつれさせながら事を静観していたアイの背後に回り、首の後ろの非常停止ボタンを押し電源をオフにする。がくん、と首を手前に折ったアイは目を閉じてその場に膝を正した。

「馬鹿なことをっ……! ひかりっ! うっ……」

 くるりと振り返りケージの中の彼を見る。全裸でうずくまる彼の太股は赤く腫れ上がり、刺された箇所は痺れて動けないのか両手で強く押さえつけている。

「やっぱり変な注射だったんじゃない!」
「違うっ! これは……!」

 最後まで聞かず、彼が脱ぎ散らかしたカッターシャツと白衣を羽織り玄関扉へと飛び付いた。靴を履くのも忘れ夢中で鍵を開けて外へ飛び出すと、辺りは薄暗く静寂に包まれていた。コンクリートの床を掛けると、鼻につく腐敗した臭いが充満していることに気がつく。

「誰か……誰か助けて!」

 エレベーターは動かなかった。非常階段を掛け下り、階下の時々顔を合わせていたおばさんの部屋のインターホンを押す。真っ昼間のこの時間ならば専業主婦のおばさんはきっと在宅しているはずで。

「花江さん、蒼井です! 助けて下さい!」

 インターホンを何度押しても花江さんは出てこなかった。扉を何度も何度も叩くが全く反応がない。監禁されてしばらく彼女とも顔を合わせていなかったので、声を聞けば飛び出してくれると思っていたけれど。


 ──がちゃり。


 断りを入れてドアノブを引くと同時に、吐き気を催す程の腐敗臭。足元には見たこともない虫が大量に這っていた。白衣の袖で鼻を覆い、つま先立ちでそろり、そろりと廊下を進む。角を折れた所で全身の血がサッと引き、吐き気を堪えながら外へと駆け出した。

「死んでる……嘘、なんで……まさかあのウイルス……?」

 息を切らしながら一階まで階段を掛け下りる。途中、廊下で事切れている人を二人見た。マンションの一階ホールの隅では、管理人のおじさんが目も当てられない姿で倒れていた。

「嘘でしょ……こんなの、こんなの!」

 自動ドアを手動でこじ開け、道路に飛び出すも走っている車などいなかった。変わりに電線に止まっていた何百ものカラスが、私の姿を見つけた瞬間、一斉に気持ちが悪いくらいカァカァと鳴き始めた。



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