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4話 そういえば、婚約者はどこへ……?(オリバー視点)
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窓の外に広がる高くて厚い防壁の向こう側に広がる黒い森を見下ろし、静かに息を吐き出した。
魔物の異常繁殖も、ようやく終息の兆しが見えてきた。
俺の領主としての初仕事も、どうにか一区切りを迎えようとしている。
森から吹く風には、今も焦げたような匂いが混じっていた。あの瘴気がどれほどの命を奪ったことか。
眠る間も惜しみ、剣を取る兵たちの姿を見ながら、何度も自分を責めた。
領主である俺が、もっと早く手を打てば……と。
それが、ようやく終わりが見えた。
「ずいぶん静かになりましたね」
「ああ……」
短い返事の奥に、三年間の重みが滲む。
思い返せば、本当に地獄のような日々だった。
三年前、森から次々と溢れ出す魔獣たち。
それを騎士団と傭兵たちが、入れ替わり立ち替わり倒していく毎日。
人も物資も気力も、どんどん削られていく。
それでも諦めず、食いしばって、この地を守り抜いた。
ここを突破されてしまえば国は魔獣に蹂躙されてしまう。それだけは絶対避けねばならなかった。
決定的な転機となったのは、半年前、領地内で開発された『魔獣除けの薬』だった。
あれがあって初めて、俺たちは夜に眠りを取り戻し、昼に森を攻めることができるようになった。
魔獣除けを身に付けた者は襲われることもなく、安全に狩りを進められる。
たったひとつの薬が戦況を変えた。その功績は、計り知れない。
騎士や傭兵の損耗は目に見えて減った。
三年前の半分近くの仲間を失った。悲しみに暮れる間もなく戦い続けた残された者たちは、今ようやく笑顔を取り戻している。
思えば、この一年で納品される薬の品質も驚くほど高くなり、傷の治りを早め疲労を和らげた。
そのおかげで領地全体が、ようやく息を吹き返したのだ。
それに比べかつて頼りにしていたクロイツ領の薬は、急に質が落ちてしまった。
時を同じくするように領内の薬の質が上がったからよかったものの、クロイツに頼り切りだったら失われた命がたくさんあっただろう。
そして今なぜかこのグラフィカ辺境領へ、腕の立つ錬金術師たちが次々と集まってきているという話を聞いた。
彼らが作り出す薬は、いまやクロイツ領のものを凌ぐほどの完成度を誇っている。
その中心にいるのは人の若い青年だという。
錬金術師たちに感謝を伝えようと謝礼の話を持ちかけると、誰もが揃って「まずは彼に」と口を揃えたと報告を受けた。
まるで『師』を称えるように。
敬意ではなく、絶対の信頼。
そんな響きだった。
どんな人物なのか、興味が湧かないはずがない。
この地を救った立役者。
その青年とは、いったい何者なのだろうか。
会ってみたい……。
そして直接礼が言いたい。
せめて功績を称えたいと、何度も屋敷への招待状を送っているのだが……。
「ナイア、例の青年から返事は?」
「今回も、お断りでございます」
「……そうか」
戦ったのは騎士や傭兵だ。
だが、その背を支えてくれたのは、間違いなく錬金術師たちだ。
彼らなくして、この勝利はなかった。
傭兵たちの間でも「帰る時には絶対に薬を買い込む」と評判になっているほど、その性能に魅入られている。
森はすっかり落ち着きを取り戻し、魔獣除けのお陰で見回りの負担も軽くなった。
もちろん、いつか耐性を持つ魔物が現れる可能性はある。
油断はできない。だが、それでも今の平和が愛しく、胸があたたかくなる。
俺たちに――いや、俺にとって、グラフィカを救ってくれた錬金術師は神のような存在だ。
それほどまでに信頼し、敬意を抱いている。
けれど、いつの間にかその敬意の奥に、別の感情が芽生えていた。
どんな人なのか、どんな声で笑うのか。
一目でいい、会いたいと思うようになった。
感謝の気持ちは日を追うごとに募る一方だった。
それなのに、会うことすら許されない。
いっそ恋と呼んでもいいほど、その人を想ってしまう自分がいる。
「褒章の件はどうなっている?」
「例によって、薬の材料になる魔獣の部位を優先してほしい、とのみ」
「金は?」
「必要ないそうです」
「ふぅ……」
謙虚すぎる。これほど領地に貢献した者へ、褒賞すら拒まれるとは。
何とかして礼をしたい。せめて、一言でも直接伝えたかった。
「直接会って話したいな」
「調整いたします」
功績を称えるだけでは足りない。
この地を立て直したのは彼らだ。領主として、そして一人の人間として、顔を見て礼を言うべきだと思った。
そうして三日後。
訪れた新設された錬金協会で、俺は銀髪の美しい青年と出会った。
意志の強そうな濃い青色の瞳がとても魅力的だった。
青年を見た瞬間背後にいたナイアが、ナイアが息を呑むのが分かった。いつも冷静な男の額に、汗が一筋伝う。
俺にすらその動揺が伝わる。
いつだって心情を見せない男がどうしたことだ?
だが、それを聞く前に青年が歩き出しそれについていく。
それにしても、この青年。初対面のはずなのに、記憶のどこかで何かが引っかかっている。
「閣下……」
何かを話そうとナイアが声をかけてきたが、話を聞く前に応接室へ到着してしまった。
笑顔でソファーを勧められ、腰を下ろすとすぐお茶が運ばれてきた。
「初めまして、グラフィカ辺境伯様。今日はどのようなご用件で?」
……『初めまして』、の声に、妙な圧を感じた。
まるで、何かを隠すような響き。
それにしてもこの声、どこかで聞いたことあがるような気がする。
どこだっただろうか?
記憶を思い起こしながら、出された茶をひと口含む。
「……うまいな」
味に意識を持っていかれ、思考が途切れた。
茶は見たことのないほど鮮やかな緑色で、口に広がる香りは清涼そのもの。
喉を通る感覚は驚くほど軽く、染みわたるように心地よい。
「薬草をお茶にしてみたんです。病の予防になりますよ」
「ほう、そんなものが」
「他にも、薬草を練り込んだクッキーやパンなどもありますよ」
穏やかな微笑みで、次々と品を差し出す青年。
「この領地には素晴らしい薬草がたくさんあるのです。活用しない手はありません!」
その姿は、もはや商いの達人のようだ。
テーブルの上はすぐにいっぱいになり、どれがどんな味で効能があるのかを丁寧に説明してくれる。
聞きやすい声と分かりやすい説明。
青年の賢さが伝わる。
「もしよろしければ、これらを領地の特産品として売る許可を頂ければと」
「いいだろう。これからは自由に取り組め」
「ありがとうございます」
礼を述べた彼に、ようやく本題を切り出す。
「それと、これが本題なんだが。再三拒まれてきたが、褒章を……」
「いりません」
断言する声は、どこまでも静かで、迷いがなかった。
そして微笑みながら言う。
「この地に住む者として、当然のことをしたまでです。何もいりません」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
こういう人間が、この領地にいてくれる。
それだけで救われる気がした。
せめて感謝だけでもと思い、これまで納品された薬の数々を褒め称えた。
青年は嬉しそうに頷きながら、それを聞いてくれていた。
そして、お茶を飲み終えると、もう屋敷へ戻らなければならない時間となってしまった。
この青年と別れるのが惜しい。まだ話していたいと寂しい気持ちになる。
こんなことは初めてで、自分自身に戸惑う。
せめて名前だけでも知りたかったのだが、彼は「ただの錬金術師にすぎません」と名を告げることを拒み続けた。
自分はただの一介の錬金術師であり、辺境伯様に名を覚えて頂く価値もない。恐れ多い、と。
そこまで拒まれると、それ以上は踏み込めなかった。功労者に褒賞を与えに来たのに、無理強いをするのは本意ではない。
名を聞くのを諦めるしかなかった。
背後に居るナイアはずっと動揺していて、青年を見ることすらしない。
奇妙な雰囲気のまま会談は終わった。
「それではまたな」
見送りに出てきた青年へそう言う。
その所作はしなやかで、美しかった。
また会いたい。
心からそう思った。
「さようなら。以後、何かありましたら別の者が対応いたします」
けれど、そんな俺の内心を見透かすように青年はもう会いませんと暗に告げた。
柔らかい微笑みなのに、なぜか胸の奥がざわめいた。
馬車に乗り込んだナイアが真っ青な顔をしているのに気づき、声をかける。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「閣下……あの方……」
「何か知っているのか?」
「あの方は、あなたの婚約者、アッシュ・クロイツ様でございます」
「……!?」
息が詰まった。
心臓が一瞬、止まったようだった。
さっきまで穏やかに笑っていたあの青年が……俺の、婚約者だと……?
二年前、ほとんど押し付けられるような形で交わされた婚約だった。
あれは、ただ薬を得るために必要な“手続き”でしかないと、自分に言い聞かせて、そのまま忘れたふりをしていた。
契約の中身は、正直言って足元を見られた酷い条件ばかりだった。
切羽詰まった状況でなければ、決して受け入れたくはなかった。
けれど、あの時のグラフィカには、どうしてもクロイツの薬が必要だった。
そのうえ婚約者として愚息を押し付けておきながら、クロイツからは恩着せがましく、さらに要求だけが積み増されていった。
不信と憤慨、それから、そんな理不尽な契約を飲むしかなかった自分の不甲斐なさに、何度も打ちひしがれた。
屋敷まで図々しく送りつけられてきた厄介者。
あの時の自分にとって、婚約者とはその程度の存在でしかなかったから、まともに顔を見ることすらしなかった。
だから、彼がどんな姿をしていたのか、今でもあの日の記憶だけは、空白のままだ。
わずかに交わした会話ですら、どんなものだっただろうか記憶にない。
「好きにしろ」と言った気がする。
だからてっきり屋敷の中で自由に暮らしていると思っていたのに、どういうことだ!?
けれど、あの穏やかな瞳には、恨みの影すらない。
まるで最初から、何も期待していなかったように。
胸の奥が痛む。
その痛みは後悔か、それとも別の何かか。
あの笑顔の意味をどうしても、確かめなければならない。
そして、知りたい。
彼がこの二年間、どこで何を背負ってきたのかを──。
夜風が、遠くの森を揺らす。
黒い枝のざわめく音が、まるで呼び声のように耳に残った。
魔物の異常繁殖も、ようやく終息の兆しが見えてきた。
俺の領主としての初仕事も、どうにか一区切りを迎えようとしている。
森から吹く風には、今も焦げたような匂いが混じっていた。あの瘴気がどれほどの命を奪ったことか。
眠る間も惜しみ、剣を取る兵たちの姿を見ながら、何度も自分を責めた。
領主である俺が、もっと早く手を打てば……と。
それが、ようやく終わりが見えた。
「ずいぶん静かになりましたね」
「ああ……」
短い返事の奥に、三年間の重みが滲む。
思い返せば、本当に地獄のような日々だった。
三年前、森から次々と溢れ出す魔獣たち。
それを騎士団と傭兵たちが、入れ替わり立ち替わり倒していく毎日。
人も物資も気力も、どんどん削られていく。
それでも諦めず、食いしばって、この地を守り抜いた。
ここを突破されてしまえば国は魔獣に蹂躙されてしまう。それだけは絶対避けねばならなかった。
決定的な転機となったのは、半年前、領地内で開発された『魔獣除けの薬』だった。
あれがあって初めて、俺たちは夜に眠りを取り戻し、昼に森を攻めることができるようになった。
魔獣除けを身に付けた者は襲われることもなく、安全に狩りを進められる。
たったひとつの薬が戦況を変えた。その功績は、計り知れない。
騎士や傭兵の損耗は目に見えて減った。
三年前の半分近くの仲間を失った。悲しみに暮れる間もなく戦い続けた残された者たちは、今ようやく笑顔を取り戻している。
思えば、この一年で納品される薬の品質も驚くほど高くなり、傷の治りを早め疲労を和らげた。
そのおかげで領地全体が、ようやく息を吹き返したのだ。
それに比べかつて頼りにしていたクロイツ領の薬は、急に質が落ちてしまった。
時を同じくするように領内の薬の質が上がったからよかったものの、クロイツに頼り切りだったら失われた命がたくさんあっただろう。
そして今なぜかこのグラフィカ辺境領へ、腕の立つ錬金術師たちが次々と集まってきているという話を聞いた。
彼らが作り出す薬は、いまやクロイツ領のものを凌ぐほどの完成度を誇っている。
その中心にいるのは人の若い青年だという。
錬金術師たちに感謝を伝えようと謝礼の話を持ちかけると、誰もが揃って「まずは彼に」と口を揃えたと報告を受けた。
まるで『師』を称えるように。
敬意ではなく、絶対の信頼。
そんな響きだった。
どんな人物なのか、興味が湧かないはずがない。
この地を救った立役者。
その青年とは、いったい何者なのだろうか。
会ってみたい……。
そして直接礼が言いたい。
せめて功績を称えたいと、何度も屋敷への招待状を送っているのだが……。
「ナイア、例の青年から返事は?」
「今回も、お断りでございます」
「……そうか」
戦ったのは騎士や傭兵だ。
だが、その背を支えてくれたのは、間違いなく錬金術師たちだ。
彼らなくして、この勝利はなかった。
傭兵たちの間でも「帰る時には絶対に薬を買い込む」と評判になっているほど、その性能に魅入られている。
森はすっかり落ち着きを取り戻し、魔獣除けのお陰で見回りの負担も軽くなった。
もちろん、いつか耐性を持つ魔物が現れる可能性はある。
油断はできない。だが、それでも今の平和が愛しく、胸があたたかくなる。
俺たちに――いや、俺にとって、グラフィカを救ってくれた錬金術師は神のような存在だ。
それほどまでに信頼し、敬意を抱いている。
けれど、いつの間にかその敬意の奥に、別の感情が芽生えていた。
どんな人なのか、どんな声で笑うのか。
一目でいい、会いたいと思うようになった。
感謝の気持ちは日を追うごとに募る一方だった。
それなのに、会うことすら許されない。
いっそ恋と呼んでもいいほど、その人を想ってしまう自分がいる。
「褒章の件はどうなっている?」
「例によって、薬の材料になる魔獣の部位を優先してほしい、とのみ」
「金は?」
「必要ないそうです」
「ふぅ……」
謙虚すぎる。これほど領地に貢献した者へ、褒賞すら拒まれるとは。
何とかして礼をしたい。せめて、一言でも直接伝えたかった。
「直接会って話したいな」
「調整いたします」
功績を称えるだけでは足りない。
この地を立て直したのは彼らだ。領主として、そして一人の人間として、顔を見て礼を言うべきだと思った。
そうして三日後。
訪れた新設された錬金協会で、俺は銀髪の美しい青年と出会った。
意志の強そうな濃い青色の瞳がとても魅力的だった。
青年を見た瞬間背後にいたナイアが、ナイアが息を呑むのが分かった。いつも冷静な男の額に、汗が一筋伝う。
俺にすらその動揺が伝わる。
いつだって心情を見せない男がどうしたことだ?
だが、それを聞く前に青年が歩き出しそれについていく。
それにしても、この青年。初対面のはずなのに、記憶のどこかで何かが引っかかっている。
「閣下……」
何かを話そうとナイアが声をかけてきたが、話を聞く前に応接室へ到着してしまった。
笑顔でソファーを勧められ、腰を下ろすとすぐお茶が運ばれてきた。
「初めまして、グラフィカ辺境伯様。今日はどのようなご用件で?」
……『初めまして』、の声に、妙な圧を感じた。
まるで、何かを隠すような響き。
それにしてもこの声、どこかで聞いたことあがるような気がする。
どこだっただろうか?
記憶を思い起こしながら、出された茶をひと口含む。
「……うまいな」
味に意識を持っていかれ、思考が途切れた。
茶は見たことのないほど鮮やかな緑色で、口に広がる香りは清涼そのもの。
喉を通る感覚は驚くほど軽く、染みわたるように心地よい。
「薬草をお茶にしてみたんです。病の予防になりますよ」
「ほう、そんなものが」
「他にも、薬草を練り込んだクッキーやパンなどもありますよ」
穏やかな微笑みで、次々と品を差し出す青年。
「この領地には素晴らしい薬草がたくさんあるのです。活用しない手はありません!」
その姿は、もはや商いの達人のようだ。
テーブルの上はすぐにいっぱいになり、どれがどんな味で効能があるのかを丁寧に説明してくれる。
聞きやすい声と分かりやすい説明。
青年の賢さが伝わる。
「もしよろしければ、これらを領地の特産品として売る許可を頂ければと」
「いいだろう。これからは自由に取り組め」
「ありがとうございます」
礼を述べた彼に、ようやく本題を切り出す。
「それと、これが本題なんだが。再三拒まれてきたが、褒章を……」
「いりません」
断言する声は、どこまでも静かで、迷いがなかった。
そして微笑みながら言う。
「この地に住む者として、当然のことをしたまでです。何もいりません」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
こういう人間が、この領地にいてくれる。
それだけで救われる気がした。
せめて感謝だけでもと思い、これまで納品された薬の数々を褒め称えた。
青年は嬉しそうに頷きながら、それを聞いてくれていた。
そして、お茶を飲み終えると、もう屋敷へ戻らなければならない時間となってしまった。
この青年と別れるのが惜しい。まだ話していたいと寂しい気持ちになる。
こんなことは初めてで、自分自身に戸惑う。
せめて名前だけでも知りたかったのだが、彼は「ただの錬金術師にすぎません」と名を告げることを拒み続けた。
自分はただの一介の錬金術師であり、辺境伯様に名を覚えて頂く価値もない。恐れ多い、と。
そこまで拒まれると、それ以上は踏み込めなかった。功労者に褒賞を与えに来たのに、無理強いをするのは本意ではない。
名を聞くのを諦めるしかなかった。
背後に居るナイアはずっと動揺していて、青年を見ることすらしない。
奇妙な雰囲気のまま会談は終わった。
「それではまたな」
見送りに出てきた青年へそう言う。
その所作はしなやかで、美しかった。
また会いたい。
心からそう思った。
「さようなら。以後、何かありましたら別の者が対応いたします」
けれど、そんな俺の内心を見透かすように青年はもう会いませんと暗に告げた。
柔らかい微笑みなのに、なぜか胸の奥がざわめいた。
馬車に乗り込んだナイアが真っ青な顔をしているのに気づき、声をかける。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「閣下……あの方……」
「何か知っているのか?」
「あの方は、あなたの婚約者、アッシュ・クロイツ様でございます」
「……!?」
息が詰まった。
心臓が一瞬、止まったようだった。
さっきまで穏やかに笑っていたあの青年が……俺の、婚約者だと……?
二年前、ほとんど押し付けられるような形で交わされた婚約だった。
あれは、ただ薬を得るために必要な“手続き”でしかないと、自分に言い聞かせて、そのまま忘れたふりをしていた。
契約の中身は、正直言って足元を見られた酷い条件ばかりだった。
切羽詰まった状況でなければ、決して受け入れたくはなかった。
けれど、あの時のグラフィカには、どうしてもクロイツの薬が必要だった。
そのうえ婚約者として愚息を押し付けておきながら、クロイツからは恩着せがましく、さらに要求だけが積み増されていった。
不信と憤慨、それから、そんな理不尽な契約を飲むしかなかった自分の不甲斐なさに、何度も打ちひしがれた。
屋敷まで図々しく送りつけられてきた厄介者。
あの時の自分にとって、婚約者とはその程度の存在でしかなかったから、まともに顔を見ることすらしなかった。
だから、彼がどんな姿をしていたのか、今でもあの日の記憶だけは、空白のままだ。
わずかに交わした会話ですら、どんなものだっただろうか記憶にない。
「好きにしろ」と言った気がする。
だからてっきり屋敷の中で自由に暮らしていると思っていたのに、どういうことだ!?
けれど、あの穏やかな瞳には、恨みの影すらない。
まるで最初から、何も期待していなかったように。
胸の奥が痛む。
その痛みは後悔か、それとも別の何かか。
あの笑顔の意味をどうしても、確かめなければならない。
そして、知りたい。
彼がこの二年間、どこで何を背負ってきたのかを──。
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