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6話 親離れ
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明日から1週間。リオは隣町まで荷運びの手伝いへ行く。
その夜、リオは俺の部屋へやってきた。
「1週間も離れるから……。今日は、一緒に寝たい」
最近は発情期でもない限り、割り当てた自室で眠るようになっていたから、この願いは久しぶりだった。
そう言う声も、どこか頼りなく揺れている。
「いいよ。一緒に寝ようか」
「!? いいのか!」
リオの耳がぴくりと動いた。驚きと喜びが混ざった顔が、子供のころと変わらない。
いつもなら「もう自分の部屋で寝なさい」と諭すところだが、今夜だけは特別だ。
「ほら、おいで」
「やった。トーヤ、好き!」
リオは勢いよく俺の腕の中へ飛び込んできた。
その無邪気さが、胸に刺さるほど愛しい。
こんな風に子ども扱いできるのも、今日が最後かもしれない。
そんなことを思うと鼻の奥がツンと痛くなる。
そんな俺の様子には気づかず、リオは抱きついたまま深く息を吸い込んだ。
「はぁ……いい匂い」
寝るときはいつも縛らない俺の髪を優しく持ち上げて、首に顔を埋めうっとりと囁いた。
俺はそんなリオをあやすように優しく撫でる。
「明日から、頑張れよ」
「うん。ここにないものもあるって聞いたから。お土産、買ってくるね」
「ああ、楽しみにしてる」
そっと頭を手のひらで撫でると、リオは目を細めてそのまま身を預けた。
掌に触れる温もりが、ひどく愛おしい。
これを誰かに譲らなければならない未来が近づいているのだと思うと、息苦しくなる。
ぴくぴくと機嫌良さそうに動く耳を指でなぞると、くすぐったそうに身をよじって笑う。
「お金たくさんくれるんだって。俺、やっとトーヤの役に立てるようになった」
その言葉に、思わず苦笑する。
「リオがいてくれるだけでいい。お前がいると、俺は楽しいよ」
「俺も、トーヤがいるだけで幸せ。俺を拾ってくれてありがとう」
あどけない笑顔のリオ。まっすぐに俺を信じ切っている。
俺のもとへ来たことを幸せだと思ってくれているのなら。
あの時、手を伸ばした判断はきっと間違いじゃなかった。
俺はその背を包み込むように抱き返した。
昔よりずっと大きく広い背中。
俺の腕に収まりきらないほど逞しくなった体。
小さかったあの子が、もうこんなにも育ったのかと思うと、誇らしさと同時にどこか切なくなる。
子供の成長が嬉しいはずなのに、指の隙間からこぼれ落ちていくような寂しさが滲む。
俺はリオの髪を撫で、甘やかすように抱きしめた。
何も言わなくても、リオはすぐに力を抜き、心底ほっとしたように目を閉じる。
俺と眠るときのリオの寝つきは、いつだって驚くほど早い。
規則正しい寝息が頬に触れて、思わず笑みが漏れる。
安心した顔を見せてくれることが、こんなにも嬉しい。
だけど、胸の内では別の痛みがじくじくと広がっていた。
この穏やかな寝顔を裏切るように、俺は明日、リオにだまし討ちのようなことをする。
どうか俺を恨んでくれてもいい。
それでも、お前にはお前の世界を歩いてほしいんだ。
寝顔を見つめながら、渦巻く感情の行き場を探して、ただ静かに息を吐いた。
「帰ってきたお前は、俺に何て言うんだろうな……」
独り言のように呟き、ゆっくりと目を閉じる。
この仕事は、俺が雑貨屋の店主に頭を下げて、無理を言ってお願いしたものだ。
3日後に隣町で開かれる若い男女を集めて行われる見合いを兼ねた祭。
祭りに行くことは現地まで隠して、さりげなく祭りへの参加を促して欲しいと頼み込んだ。
店主はリオに内緒でと言う俺に渋っていたが、最終的に引き受けてくれた。
移動に2日、祭りの滞在に3日、帰りにまた2日。全部で1週間という行程。
祭りの間に誰かと強く惹かれ合えば、一晩を共に過ごす。それがこの祭りのしきたりだという。
「帰ってきたら、『番になりたい相手ができた』って、リオは言うんだろうか……」
胸の奥が不意に波立ち、溢れる感情を押さえつけ、リオの頭をそっと撫でる。
無防備に腕にすり寄り、甘えた仕草を見せるのはあの頃のまま変わっていない。
この子が、誰の前でもこんなに素直な顔を見せるわけじゃないと知っている。
俺の前だけでしかしない、無防備な姿を見ると愛しさと誇らしさが湧き上がった。
けれど、それと同時に、どうしようもなく切なくて、胸を締め付けられるような焦燥感がつきまとう。
この寝顔を、できるだけ長くこの腕に留めておきたい。
夜明けまで、俺はリオの柔らかな髪をただ黙って撫で続けていた。
東の空が白み始めるころ、リオが小さく瞬きをした。
頭を撫でる感触で起きてしまったようだ。
俺の寝不足顔を見て、心配そうに眉を寄せる。
「トーヤ、大丈夫?」
「平気だよ。さぁ、朝ごはんを食べようか」
「うん!」
いつも通りの朝。もしかしたら、最後の朝……。
「行ってこい」
そう言う俺の声が、自分でも驚くほど掠れていた。
リオは荷を担ぎ、朝日を背に振り返り手を振った。
いつか思い描いた景色そのもので、その笑顔がやけにまぶしくて、目を細めた。
ああ、もう子供じゃないんだ。
そう思うほど、喉に詰まる。
そして、リオが見えなくなった頃、ようやく息を吐いた。
「さて、俺は仕事をするか」
寂しさを振り払うように背伸びをして、いつも通りの生活を始めた。
……けれど。
仕事はこなしている。
日常生活も、特に問題はない。
誰かに心配されるようなこともなく、いつものように時間は過ぎていく。
けれど、どんなに集中していても、ふとした拍子にリオの顔が浮かんでしまう。
片付けた道具に残る、短い毛の一本。
洗濯した服にしみついた匂い。
棚に並んだ同じ柄で揃えた対の食器。
静かな部屋の中に、気配だけが置き去りになっている。
……寂しい。なんて俺に思う資格はないのに。
こんな生活が、いつか俺の日常になるんだろうか。
本当にリオが出て行った時、俺はどんなふうに生きるんだ?
想像が、できない。
そんな日が続いて、4日。
昨日から、祭りが始まっている。
リオはもう誰かを見つけ、昨日の夜は思う相手と過ごしたのだろうか。
俺も昔、一度だけあの祭りに行ったことがある。
無数の灯りが夜風に揺れ、音楽が響き、人々の笑い声が満ちていた。
若者たちは目と目で惹かれ合い、手を取り合っては月明かりの下へ消えていく。
けれど、その輪に入る勇気が俺にはなく、一晩中ひとりで人の流れを眺めていた。
リオはどうしているだろう。
知らない誰かに笑いかけ、頬を染めてうなずいたりしているのだろうか。
そう思った瞬間、息が止まった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、思わず顔を覆った。
「リオ……」
胸は痛い。
けれどこれでいい。
幸せになれと背中を押したのは、俺自身だ。
リオが番を見つけてここを巣立ったら……。
「……そっか、俺、この世界で独りなんだ」
初めて、それを自覚した。
この世界に迷い込んでから、ずっと生きることで精一杯だった。
治癒の力を見出した時は嬉しかった。人を救い、この地で役に立てることが心を支えた。
医者として培った知識と経験は無駄じゃなかったと誇らしかった。
けれど、必死に生きる裏で、孤独を見ないふりをしていたのかもしれない。
リオが来てから、俺の暮らしは変わった。
食事を作り、叱り、笑い合った。
その時間が静かに積み重なって、気づけば彼のいる日常が、俺の世界になっていた。
今、それがぽっかりと空いている。
暗い部屋でベッドに寝転がると、音のない涙が頬を伝った。
親として、立派に育てあげた。
そう胸を張るべきなのに、心の底では、手放したくないと駄々をこねる。
俺の方こそ子供のような感情が暴れていた。
親なんて無理だったのかもしれない。
「……泣きたくなんて、ないのに」
枕に顔を埋め、息を押し殺して目を閉じた。
明日の朝には、平気な顔をしていられるように。そう願いながら。
そうして、……いつの間にか眠っていた。
夜更け、戸口を激しく叩く音で目を覚ます。
「……ん、急患か?」
涙の跡が乾いて張りついたままの目元をこすり、ベッドから立ち上がった。
「トーヤ! 開けろ!」
「この声……リオ?」
予想よりずいぶん早い。
聞き慣れた名を呼ぶ声に心臓が跳ねる。
慌てて扉を開くと、旅装のままのリオが立っていた。
まだ冷たい朝の空気に包まれ、息を荒げ、目は真っ赤に腫れている。
なんで泣いているんだ?
思う相手と上手くいかなかったのか?
それとも仕事で失敗したのか?
原因がわからず狼狽える俺を、リオはきつく睨みつけた。
「トーヤ、なんで……?」
その声は震えていた。
「なんで俺を、あんなところに送ったの?」
リオは見合い祭りに送り出したのが俺の仕業だと知ったんだ。
「……いい人は、いなかった?」
かろうじてそんな返事をした俺の顔を、リオが苦しそうに見つめた。
「……」
リオが奥歯を噛みしめた音が聞こえる。
怒りのあまり手が震えているのが見えた。
「そんなの、いるわけない!!」
リオの叫びが、冷たい空気を切り裂いた。
次の瞬間、俺の腕を掴む。指に力が入りすぎて、爪が食い込んだ。
痛みが生々しく伝わっても、振りほどけなかった。
縋られている。その事実が、ひそやかな安堵を呼び起こした。
「俺は、トーヤが好き! トーヤ以外、好きになれないのに!!」
リオの肩が震えていた。
涙がぽたりと落ち、服の上に小さな染みを作る。
「なんで? 俺のこと、邪魔になった?」
「そんなはずない」と否定して抱きしめたかった。
けれど、ここで頷いて手を離してやることが、親の役目なのかもしれない。
……けれど、俺にはどうしてもそれが出来なかった。
どういっていいかわからず、握る力を制御できず掌に痛みが走る。
けれど、かろうじて俺の本当の望みを吐き出した。
「……お前に、幸せに、なって欲しかったんだ」
「俺の幸せはトーヤと一緒にいる事なのに!!」
リオが叫び、拳で俺の胸を叩く。
そのたびに鈍い痛みが響く。だが、その衝撃より、リオが涙を流す悲しそうな泣き顔の方が何倍も痛かった。
「トーヤがいい。トーヤじゃないと嫌なんだ。なんでわかってくれないの」
子供みたいに縋る声。
それなのに、その必死さが胸をえぐる。
リオはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、指先から徐々に力が抜けていく。
リオのためだと思っていた。
けれど、それは全部、俺が自分の気持ちから逃げるための言い訳だったんだ。
「……悪かった」
膝をついて目線を合わせ、静かに言葉を絞り出す。
その瞬間、リオは捕まえた獲物のように俺を抱き締めた。
俺の体が折れてしまいそうなほどの力。
痛い、けれどこれはリオの心の痛みだ。
俺はリオの背中に腕を回す。
「俺はトーヤが好き。俺の番はトーヤ。ずっと前から決めてる。トーヤ以外、いらない」
その声には迷いが1つもなかった。
他の誰も必要とせず、ただ俺だけを求める熱が、息苦しいほどに伝わってくる。
その表情はもう少年ではなかった。
目をまっすぐに向けて愛を叫ぶリオは、雄の顔をしていた。
俺は、何を見ていたんだろう。
傷つくことを恐れて、いつまでも子供として見ようとしていたのは、俺の方だったんだ。
「ねぇ、ちゃんと伝わる? 好きだよ。愛してるのはトーヤだけ。他の誰も、好きになったりしない」
リオの両手が俺の頬を包み込む。
震える指先ごと、心を掴まれたような感覚に、息が詰まる。
次の瞬間、柔らかな唇が触れた。
その微かな熱に、思考が一瞬で溶けた。
今ならはっきりわかる。
これは親愛のキスなんかじゃない。
胸の奥に、ずっと押し込めていた想いが音を立てて崩れていく。
拒む理由も、言い訳も、もうどこにも見つからなかった。
「……んっ」
息を飲むように、唇を重ね返していた。
愛欲を含んだその口づけは、驚くほど甘く、そして痛いほど気持ちがいい。
これほどの温もりを、俺はずっと、知らないふりをしてきたんだ。
唇を離し、目を開ける。
間近には金色に光るリオの瞳。
闇の中でその瞳が、確かに獣のように見えた。
「トーヤ……」
名を呼ぶ声が低く響く。
もう一度、唇を重ねてきた。
差し込まれる舌を受け入れ、ためらいなど微塵もなかった。
理性が悲鳴を上げる。
確かめるように舌を絡めた瞬間、世界が一度軋んで、静かに回りはじめる。
もう、後戻りはできない。
その夜、リオは俺の部屋へやってきた。
「1週間も離れるから……。今日は、一緒に寝たい」
最近は発情期でもない限り、割り当てた自室で眠るようになっていたから、この願いは久しぶりだった。
そう言う声も、どこか頼りなく揺れている。
「いいよ。一緒に寝ようか」
「!? いいのか!」
リオの耳がぴくりと動いた。驚きと喜びが混ざった顔が、子供のころと変わらない。
いつもなら「もう自分の部屋で寝なさい」と諭すところだが、今夜だけは特別だ。
「ほら、おいで」
「やった。トーヤ、好き!」
リオは勢いよく俺の腕の中へ飛び込んできた。
その無邪気さが、胸に刺さるほど愛しい。
こんな風に子ども扱いできるのも、今日が最後かもしれない。
そんなことを思うと鼻の奥がツンと痛くなる。
そんな俺の様子には気づかず、リオは抱きついたまま深く息を吸い込んだ。
「はぁ……いい匂い」
寝るときはいつも縛らない俺の髪を優しく持ち上げて、首に顔を埋めうっとりと囁いた。
俺はそんなリオをあやすように優しく撫でる。
「明日から、頑張れよ」
「うん。ここにないものもあるって聞いたから。お土産、買ってくるね」
「ああ、楽しみにしてる」
そっと頭を手のひらで撫でると、リオは目を細めてそのまま身を預けた。
掌に触れる温もりが、ひどく愛おしい。
これを誰かに譲らなければならない未来が近づいているのだと思うと、息苦しくなる。
ぴくぴくと機嫌良さそうに動く耳を指でなぞると、くすぐったそうに身をよじって笑う。
「お金たくさんくれるんだって。俺、やっとトーヤの役に立てるようになった」
その言葉に、思わず苦笑する。
「リオがいてくれるだけでいい。お前がいると、俺は楽しいよ」
「俺も、トーヤがいるだけで幸せ。俺を拾ってくれてありがとう」
あどけない笑顔のリオ。まっすぐに俺を信じ切っている。
俺のもとへ来たことを幸せだと思ってくれているのなら。
あの時、手を伸ばした判断はきっと間違いじゃなかった。
俺はその背を包み込むように抱き返した。
昔よりずっと大きく広い背中。
俺の腕に収まりきらないほど逞しくなった体。
小さかったあの子が、もうこんなにも育ったのかと思うと、誇らしさと同時にどこか切なくなる。
子供の成長が嬉しいはずなのに、指の隙間からこぼれ落ちていくような寂しさが滲む。
俺はリオの髪を撫で、甘やかすように抱きしめた。
何も言わなくても、リオはすぐに力を抜き、心底ほっとしたように目を閉じる。
俺と眠るときのリオの寝つきは、いつだって驚くほど早い。
規則正しい寝息が頬に触れて、思わず笑みが漏れる。
安心した顔を見せてくれることが、こんなにも嬉しい。
だけど、胸の内では別の痛みがじくじくと広がっていた。
この穏やかな寝顔を裏切るように、俺は明日、リオにだまし討ちのようなことをする。
どうか俺を恨んでくれてもいい。
それでも、お前にはお前の世界を歩いてほしいんだ。
寝顔を見つめながら、渦巻く感情の行き場を探して、ただ静かに息を吐いた。
「帰ってきたお前は、俺に何て言うんだろうな……」
独り言のように呟き、ゆっくりと目を閉じる。
この仕事は、俺が雑貨屋の店主に頭を下げて、無理を言ってお願いしたものだ。
3日後に隣町で開かれる若い男女を集めて行われる見合いを兼ねた祭。
祭りに行くことは現地まで隠して、さりげなく祭りへの参加を促して欲しいと頼み込んだ。
店主はリオに内緒でと言う俺に渋っていたが、最終的に引き受けてくれた。
移動に2日、祭りの滞在に3日、帰りにまた2日。全部で1週間という行程。
祭りの間に誰かと強く惹かれ合えば、一晩を共に過ごす。それがこの祭りのしきたりだという。
「帰ってきたら、『番になりたい相手ができた』って、リオは言うんだろうか……」
胸の奥が不意に波立ち、溢れる感情を押さえつけ、リオの頭をそっと撫でる。
無防備に腕にすり寄り、甘えた仕草を見せるのはあの頃のまま変わっていない。
この子が、誰の前でもこんなに素直な顔を見せるわけじゃないと知っている。
俺の前だけでしかしない、無防備な姿を見ると愛しさと誇らしさが湧き上がった。
けれど、それと同時に、どうしようもなく切なくて、胸を締め付けられるような焦燥感がつきまとう。
この寝顔を、できるだけ長くこの腕に留めておきたい。
夜明けまで、俺はリオの柔らかな髪をただ黙って撫で続けていた。
東の空が白み始めるころ、リオが小さく瞬きをした。
頭を撫でる感触で起きてしまったようだ。
俺の寝不足顔を見て、心配そうに眉を寄せる。
「トーヤ、大丈夫?」
「平気だよ。さぁ、朝ごはんを食べようか」
「うん!」
いつも通りの朝。もしかしたら、最後の朝……。
「行ってこい」
そう言う俺の声が、自分でも驚くほど掠れていた。
リオは荷を担ぎ、朝日を背に振り返り手を振った。
いつか思い描いた景色そのもので、その笑顔がやけにまぶしくて、目を細めた。
ああ、もう子供じゃないんだ。
そう思うほど、喉に詰まる。
そして、リオが見えなくなった頃、ようやく息を吐いた。
「さて、俺は仕事をするか」
寂しさを振り払うように背伸びをして、いつも通りの生活を始めた。
……けれど。
仕事はこなしている。
日常生活も、特に問題はない。
誰かに心配されるようなこともなく、いつものように時間は過ぎていく。
けれど、どんなに集中していても、ふとした拍子にリオの顔が浮かんでしまう。
片付けた道具に残る、短い毛の一本。
洗濯した服にしみついた匂い。
棚に並んだ同じ柄で揃えた対の食器。
静かな部屋の中に、気配だけが置き去りになっている。
……寂しい。なんて俺に思う資格はないのに。
こんな生活が、いつか俺の日常になるんだろうか。
本当にリオが出て行った時、俺はどんなふうに生きるんだ?
想像が、できない。
そんな日が続いて、4日。
昨日から、祭りが始まっている。
リオはもう誰かを見つけ、昨日の夜は思う相手と過ごしたのだろうか。
俺も昔、一度だけあの祭りに行ったことがある。
無数の灯りが夜風に揺れ、音楽が響き、人々の笑い声が満ちていた。
若者たちは目と目で惹かれ合い、手を取り合っては月明かりの下へ消えていく。
けれど、その輪に入る勇気が俺にはなく、一晩中ひとりで人の流れを眺めていた。
リオはどうしているだろう。
知らない誰かに笑いかけ、頬を染めてうなずいたりしているのだろうか。
そう思った瞬間、息が止まった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、思わず顔を覆った。
「リオ……」
胸は痛い。
けれどこれでいい。
幸せになれと背中を押したのは、俺自身だ。
リオが番を見つけてここを巣立ったら……。
「……そっか、俺、この世界で独りなんだ」
初めて、それを自覚した。
この世界に迷い込んでから、ずっと生きることで精一杯だった。
治癒の力を見出した時は嬉しかった。人を救い、この地で役に立てることが心を支えた。
医者として培った知識と経験は無駄じゃなかったと誇らしかった。
けれど、必死に生きる裏で、孤独を見ないふりをしていたのかもしれない。
リオが来てから、俺の暮らしは変わった。
食事を作り、叱り、笑い合った。
その時間が静かに積み重なって、気づけば彼のいる日常が、俺の世界になっていた。
今、それがぽっかりと空いている。
暗い部屋でベッドに寝転がると、音のない涙が頬を伝った。
親として、立派に育てあげた。
そう胸を張るべきなのに、心の底では、手放したくないと駄々をこねる。
俺の方こそ子供のような感情が暴れていた。
親なんて無理だったのかもしれない。
「……泣きたくなんて、ないのに」
枕に顔を埋め、息を押し殺して目を閉じた。
明日の朝には、平気な顔をしていられるように。そう願いながら。
そうして、……いつの間にか眠っていた。
夜更け、戸口を激しく叩く音で目を覚ます。
「……ん、急患か?」
涙の跡が乾いて張りついたままの目元をこすり、ベッドから立ち上がった。
「トーヤ! 開けろ!」
「この声……リオ?」
予想よりずいぶん早い。
聞き慣れた名を呼ぶ声に心臓が跳ねる。
慌てて扉を開くと、旅装のままのリオが立っていた。
まだ冷たい朝の空気に包まれ、息を荒げ、目は真っ赤に腫れている。
なんで泣いているんだ?
思う相手と上手くいかなかったのか?
それとも仕事で失敗したのか?
原因がわからず狼狽える俺を、リオはきつく睨みつけた。
「トーヤ、なんで……?」
その声は震えていた。
「なんで俺を、あんなところに送ったの?」
リオは見合い祭りに送り出したのが俺の仕業だと知ったんだ。
「……いい人は、いなかった?」
かろうじてそんな返事をした俺の顔を、リオが苦しそうに見つめた。
「……」
リオが奥歯を噛みしめた音が聞こえる。
怒りのあまり手が震えているのが見えた。
「そんなの、いるわけない!!」
リオの叫びが、冷たい空気を切り裂いた。
次の瞬間、俺の腕を掴む。指に力が入りすぎて、爪が食い込んだ。
痛みが生々しく伝わっても、振りほどけなかった。
縋られている。その事実が、ひそやかな安堵を呼び起こした。
「俺は、トーヤが好き! トーヤ以外、好きになれないのに!!」
リオの肩が震えていた。
涙がぽたりと落ち、服の上に小さな染みを作る。
「なんで? 俺のこと、邪魔になった?」
「そんなはずない」と否定して抱きしめたかった。
けれど、ここで頷いて手を離してやることが、親の役目なのかもしれない。
……けれど、俺にはどうしてもそれが出来なかった。
どういっていいかわからず、握る力を制御できず掌に痛みが走る。
けれど、かろうじて俺の本当の望みを吐き出した。
「……お前に、幸せに、なって欲しかったんだ」
「俺の幸せはトーヤと一緒にいる事なのに!!」
リオが叫び、拳で俺の胸を叩く。
そのたびに鈍い痛みが響く。だが、その衝撃より、リオが涙を流す悲しそうな泣き顔の方が何倍も痛かった。
「トーヤがいい。トーヤじゃないと嫌なんだ。なんでわかってくれないの」
子供みたいに縋る声。
それなのに、その必死さが胸をえぐる。
リオはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、指先から徐々に力が抜けていく。
リオのためだと思っていた。
けれど、それは全部、俺が自分の気持ちから逃げるための言い訳だったんだ。
「……悪かった」
膝をついて目線を合わせ、静かに言葉を絞り出す。
その瞬間、リオは捕まえた獲物のように俺を抱き締めた。
俺の体が折れてしまいそうなほどの力。
痛い、けれどこれはリオの心の痛みだ。
俺はリオの背中に腕を回す。
「俺はトーヤが好き。俺の番はトーヤ。ずっと前から決めてる。トーヤ以外、いらない」
その声には迷いが1つもなかった。
他の誰も必要とせず、ただ俺だけを求める熱が、息苦しいほどに伝わってくる。
その表情はもう少年ではなかった。
目をまっすぐに向けて愛を叫ぶリオは、雄の顔をしていた。
俺は、何を見ていたんだろう。
傷つくことを恐れて、いつまでも子供として見ようとしていたのは、俺の方だったんだ。
「ねぇ、ちゃんと伝わる? 好きだよ。愛してるのはトーヤだけ。他の誰も、好きになったりしない」
リオの両手が俺の頬を包み込む。
震える指先ごと、心を掴まれたような感覚に、息が詰まる。
次の瞬間、柔らかな唇が触れた。
その微かな熱に、思考が一瞬で溶けた。
今ならはっきりわかる。
これは親愛のキスなんかじゃない。
胸の奥に、ずっと押し込めていた想いが音を立てて崩れていく。
拒む理由も、言い訳も、もうどこにも見つからなかった。
「……んっ」
息を飲むように、唇を重ね返していた。
愛欲を含んだその口づけは、驚くほど甘く、そして痛いほど気持ちがいい。
これほどの温もりを、俺はずっと、知らないふりをしてきたんだ。
唇を離し、目を開ける。
間近には金色に光るリオの瞳。
闇の中でその瞳が、確かに獣のように見えた。
「トーヤ……」
名を呼ぶ声が低く響く。
もう一度、唇を重ねてきた。
差し込まれる舌を受け入れ、ためらいなど微塵もなかった。
理性が悲鳴を上げる。
確かめるように舌を絡めた瞬間、世界が一度軋んで、静かに回りはじめる。
もう、後戻りはできない。
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育て方間違ったか…。でも、美形に育ったし、可愛い息子だ。拒否も出来ないままに流される。
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