アクアヴェルン 婚約破棄された令息は隣国で護衛騎士に溺愛される。

中洲める

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14話 水の魔力<ラステア視点>

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 弓を引き絞り、狙いを定める。
 放たれた矢が真っすぐ砂ヘビの頭を貫き、乾いた音を立てて沈んだ。

「……これで砂ネズミが二匹、砂ヘビにキツネ。これでしばらくは困らないな」

 矢を抜いて、手際よく獲物をまとめながら小さく息をつく。
 オアシスで暮らし始めて、もう一月。
 思っていた以上に快適で、何の不満もない。
 嫌な思い出しかなかったこの国で、こうして平和に暮らしているなんて、あの頃の俺には想像すらできなかった。

 クリスが作ってくれた氷の魔力が込められた革袋を手にして開く。
 冷気が内側から静かににじみ出て、涼しい風が頬を撫でた。
 獲物を入れて口を縛る。
 こうしておけば肉の鮮度を保ってくれる。

 袋から零れた涼しさを感じて、喉の渇きを覚え、腰に手をやる。

「……ん? あれ、水袋がない」

 手が空を切る。視線を落とすと、あるはずの場所ががらんとしていた。
 思わず額に手を当てて、苦笑が漏れる。

「はぁ……、外へ出るのに忘れるなんて」
 今回はオアシス周辺へ狩りに来ただけだからいいようなものの。
 命に係わる大切な物を忘れるなんて……。
 心の底から反省をする。
 けれど、その原因にも思い当たって、つい顔が緩んでしまう。

 長い間、届かないと思っていた想いがようやく報われた。
 クリスと心が通じて、体を重ね愛を交わす日々。
 毎日が信じられないほど幸せなんだ。
 昨日も明け方まで抱き合っていた。
 その幸福に浸りながら狩りの支度をしていたのだから、水袋を忘れたのも当然だろう。

「……まったく、気が緩みすぎだな」
 自分に呆れながら、幸せすぎて笑ってしまうのを止められない。

 いや、だが、命にかかわるものの準備はしっかりしなくては。
 クリスに心配をかけてしまう。
「次は気を付けよう」
 俺は頬を両手で叩いて無理やり表情を引き締め、周辺を見渡す。

 まだ太陽は地平の下にあって、空は淡い橙に染まり始めている。
 夜行性の砂漠に住む生き物たちが静かに眠りにつく時間。
 活動中の深夜の狩りよりも、夜明け前のこのひとときが最も安全で、視界も利く。

 近くにまだ獲物はいないかと冷えた空気を吸い込みながら、視線を遠くへ向ける。
 どこを見ても、果てしなく続く砂の海。
 だが、俺がオアシスの方向を見失うことはない。

 クリスの魔力が満ちた水の気配は、俺にとって位置を示す星の役割も果たしてくれていた。
 住み始めてすぐに気づいた。
 魔力を持たぬ自分でも、彼が作り出した水の気配をたどれる。

「……それだけ強い魔力だ。もしここが人里の近くだったら、きっとすぐに見つかってしまっていたな」

 そう考えると、あの最果てを選んだのは正しかったのだと思う。

 耳を澄ませて目を凝らしても周辺に獲物の気配はない。

 そうしている間にも太陽が少しずつ昇り、夜の冷気を押しのけていく。
 狩りの時間もそろそろ終わりだ。

「帰ろう」

 昨夜たっぷり愛したクリスは、きっとまだ眠っているだろう。
 抱きしめて一緒に眠りたいのを振り切って狩りに来た。

 思い出すと急に顔が見たくなった。

「起きたときにスープが飲めるようにしておくか」

 弓を背負い直し、オアシスの方角へ歩き出す。
 足元の砂が、さらさらと柔らかい音を立てる。

 見渡す限り、同じような砂丘。
 風が吹けば、一晩で形を変えてしまう気まぐれな世界。
 そんな中で、帰るべき場所がわかるというのは、とてつもない安心感だ。

 オアシスで、クリスが待っている。
 俺は足早に砂漠を歩く。

 地平線の向こうから太陽が顔を出すと、砂漠は一気に息を吹き返したように熱気を取り戻していく。
 途端に、空気の温度が跳ね上がった。
 オアシスまでは、まだ少し距離がある。
「……水……」
 少しだけ唇を濡らしたい。水を持っていないと思うと余計に喉が渇く。
 本能が「欲しい」と訴えている。

 限界にはまだ遠い。それでも、せめて一口……。

「クリスがいたら水を出してもらえるのにな」

 クリスが当たり前のように掌の上で水を生み出す光景を思い出す。
 掌に浮かぶ光を受けて輝いていた透明な水の球。
 何度も見たその動作を、無意識のうちに真似していた。

「……?」
 掌の上に違和感。
 目を凝らすまでもなく空気が陽炎のように揺らぎ、水の粒となり重なり合って形を取る。
 俺の右掌の上には拳ほどの輝く水球が浮かんでいた。

「……え」
 声にならない息とともに、水球は弾けて消える。

 頭の中が真白になる。
「今、何が……?」
 地面の下落ちた水はあっという間に砂へ吸い込まれたけれど、握りしめた手にはまだ水が残っている。

 ……今のは、幻覚ではない。

 乾きかけているけれど、たしかにまだ掌が濡れている。

「なんだ、何が起きた?」

 俺が、魔法……?

 信じたい気持ちと、信じられない現実が胸の中でせめぎ合う。

「俺、……夢を見てる?」
 もし今目を開けたら、隣でクリスが寝息を立てているんじゃないか。
 そんな錯覚に囚われる。

 けれど、見回してもそこにあるのは変わらぬ砂と陽炎だけ。
 誰もいない。
 いるのは、俺だけ……。

「……もう一度」

 震える息を整え、再び右手を上げる。
 集中すると、再び水滴が集まり……。水球がふわりと姿を現した。

「……」

 震える唇を寄せて、水を口に含む。

「……冷たい」
 唇に触れた感触が、ありえないほど確かな現実を実感させる。
 それはまぎれもなく水。
 クリスが魔力で出してくれたのと同じ、澄んだ味。
 頭では信じたくても、心が追いつかない。

 歩きながら、水球を作っては口に含んだ。
 それは確かに、何度でも現れる。幻ではない。
 けれど現実を受け止めきれず、胸の奥で思考が空回りしていく。

 気づけば、太陽はもう昇りきっていた。
 混乱のまま、俺はオアシスへと足を速める。



 家の前まで来ると、風が微かに涼しく頬を撫でた。
 指先がわずかに汗ばんでいる。心臓が早鐘を打って、呼吸の仕方さえぎこちなく感じる。

 一刻も早くクリスに会いたい。
 そうすれば、この揺らぐ現実にも意味を見つけられる気がする。

 ドアを押し開けた瞬間、心地よい冷気が迎えてくれた。
 そしてその中に、待ち望んでいた声があった。

「お帰り、ラステア。今日は遅かったね」

 小さな部屋にその声が響いた途端、堰を切ったように全身の力が抜けていく。
 胸の奥がじんわり熱くなり、世界の色が少しだけ戻ってきた。

「クリス、ただいま」

 言葉を返すよりも早く、軽やかな足音が近づいてくる。
 次の瞬間、柔らかな体が胸に飛び込んできて、その温もりが腕の中いっぱいに広がった。


 胸いっぱいにクリスの匂いを吸い込んで、大きく息を吐きだした。
 ようやく現実が追いついた。

 俺は何度も抱きしめたまま深呼吸をして、ようやく言葉を吐きだした。

「クリス、俺……魔法が使える」

 口にした途端、自分の声がやけに遠く感じた。
 その言葉を信じきれないのは、他でもない俺自身。

 腕の中でクリスが身動ぎをして、俺の顔を見上げる。
「魔法?」
「クリスと同じ、水の魔法だ」

 冗談なんかじゃないと、掌の上に小さな水球を浮かべて見せる。
 太陽の光を受けて淡く輝くその球は、確かに現実だった。

 クリスがそっと伸ばした指先で水球に触れ、俺の手首を掴んでそばに寄せると、まるでキスをするようにそれに口を付けた。

「……僕の魔力だ」
 その声はかすかに震えていた。
 クリスが俺の背中に腕を回し強く抱き着いて、魔力で全身を包んだ。

 温かな魔力が体の奥まで流れ込んでくる。
 体の内側をなぞるように巡るその力は、優しさと歓び、そして深い安堵を伝えてくる。

 胸の奥まで満たされて、やがて魔力は静かに散って行った。
 それからクリスは顔を上げ、うっとりとした笑みを浮かべて胸に頬を当てた。

「ラステアの中にね、魔力の器ができたんだ」
「魔力の……器?」
 思わず繰り返す。

 魔法を使える者には、必ず『器』と呼ばれるものがある。
 そこに満たされた魔力の量と質が、魔法の威力や精度を決める。
 そう教わってきた。

 俺には、その器がなかった。
 器がないものは何をしても魔法が使えない。
 後天的に器ができるなど聞いたこともない。

 なのに、それが……?

「俺に……ある、のか?」
 自分でも信じられず、もう一度問い返す。
 クリスは真剣な目で、はっきりとうなずいた。
「うん。ラステアの中に、確かに器がある」

 信じられない。
 けれどクリスの瞳が、それを確信しているから。
 確かにそれは『ある』のだろう。

 でも、何故……?

 混乱している俺にクリスは笑いかける。

「僕たちヴェイルはね、深く結び合った相手に、魔力を少しずつ分け渡すことができるんだ」
 そしてその魔力は相手の体に蓄積して『器』を形成する。
「……じゃあ、俺の中にあるのは……」
「うん。僕の魔力で出来た器。それがラステアに馴染んでくれたんだ」
 嬉しそうに言うその言葉に息を呑む。

「そんなことが出来るのか? というかなぜできることを教えてくれなかったんだ?」
「器が形成されるかは運なんだ。だから……」
 そう言ってからクリスはハッと気づいたように顔を上げた。
「もしかして魔力、いらなかった? 僕、余計なことをしちゃったかな」
「いや、驚いただけで。そうか、クリスがくれたんだな」
「うん。ラステアと心身ともに結ばれたからもしかしたらって思って……」
「そうか、うん。いや、そうか」
「ヴェイル自体が少ないうえ、魔力を持たない伴侶を選ぶ者はほとんどいない」
 その上で器ができるかどうかも運でしかない。

 確実性はなかったから言えなかったというクリスの背中を撫でる。

 クリスがくれたものだと分かった途端、戸惑うばかりだった魔力が急に愛おしく思えてくるから不思議なものだ。

「ヴェイルって、本当にすごい存在なんだな」
 神に愛されたという言葉を、あらためて実感する。
 抱きしめたまま、腕の中のクリスをもう一度強く抱き寄せた。

「いらなかった、なんて言われたらどうしようかと思った」
「クリスがくれるもので、嫌なものなんてひとつもない」
「……へへ、よかった」

 柔らかく微笑むクリス。

「ラステアの器はすごく大きいね。僕との相性がすごくいい証だ。嬉しいな」
 クリスは俺を抱きしめる腕に力を込めた。

 心臓の鼓動が重なり、互いの体温が溶け合っていく。
 こうして抱き合うと2人で1つの生き物のようだといつも思う。
 
 これが相性がいいということなのか。

「もしかしたら、ずっとラステアに僕の魔力過多を鎮めてもらっていた影響も、あるかもしれない」
 その言葉に胸の奥が熱くなった。
 大量に吐き出されるクリスの濃い魔力を何度も間近で浴び続けた。
 そのお陰で俺の体は魔力に馴染む下地が作られていたんだ。

 俺たちが歩んできた日々のひとつひとつが、奇跡を育てていたのだ。
 そう思うと、息が詰まるほどの幸福感が湧き上がる。

 辛かった夜も、虚しさを抱えた朝も、ささやかな幸せのひとときも。
 そのすべてに意味があって、無駄な時間など、1つもなかったんだ。

 ようやく実感が湧く。

 一体、クリスはおれにいくつの幸せくれるんだ。
 本当にキリがない。




「クリス、嬉しい。俺も魔法が使えるんだな」
「うん!」

 頷いたクリスが、太陽みたいに笑う。


「嬉しい、すごく嬉しいね!」
 クリスの声が弾む。
 その笑顔がまっすぐで、眩しかった。

 俺も、こんな風に純粋に喜べたらいいのに。
 一緒に笑いたいのに。

 かつて、狂おしく求め、どんな代償を払ってでも欲しかった魔力。

 それが、今になってずっと夢見てきたものが、形となってここにある。
 クリスが俺にくれた、この愛おしい力。
 長い間追い求めてきたものを得たという確かな歓びがある。

 けれど、その一方で。
 胸の奥の深い場所に沈んだ、魔力を渇望していたあの頃の絶望が、まだ微かに息をしているのも感じる。


 そんな俺に気付いたのだろう。
 クリスが柔らかく微笑んで、俺に魔力をくれた本当の理由を教えてくれた。

「ラステアに魔力があるなら……」
 クリスは言葉を止めて、頬をわずかに赤らめた。
 胸の鼓動が早まった理由を考えるよりも早く、彼の唇がつづきを告げる。
「子供が、できるよ」

 時が止まった。
 心臓が胸を突いて跳ね上がる。
 

「子供……俺たちの……?」

 静かに、けれど幸せそうに微笑むクリスは、水面を撫でる風みたいに優しく俺の頬を撫でる。



 魔力持ち同士、あるいは、ヴェルンと魔力を持った伴侶が子を成すのに性別は関係ない。

 愛と魔力が一体となり人の形をとって生まれる『祝福の恩恵(ヴェルン)』。
 クリスがそうして生まれたように、俺たちの子供も同じように新たな命として誕生する。

 その可能性に、嬉しさがじわじわと足元から湧き上がり、全身を包み込んでいく。
 こんな奇跡、自分とは無縁の遠い誰かの物語だと思っていた。
 けれど今、それが俺たちの未来の形として、確かにここにある。

 言葉の意味を理解するより早く、胸の奥が熱くなり、息が上手く吸えなくなった。
 心の奥に刺さっていた小さな棘が、歓びの波に押し流されて消えていく。



「……すごいな、クリス。俺たちの子供が……」
 ただその事実が嬉しくて、涙が滲んだ。

「すごい……、すごいぞ!」
「わ、わあっ! ラステア!」
 この感情をどう表現していいかわからず、とにかくクリスを力いっぱい抱きしめた。
 そうか、だからクリスは俺に魔力をくれたのか……!
「喜んでくれるの?」
「当たり前だ! お前と俺の子供ができるかもしれないんだぞ!? こんなの喜ばずにいられるか!」
 腕の中のクリスが笑って、頬を寄せる。
 込み上げた感情が堰を切り、気づけばクリスを抱き上げていた。
 胸の奥から溢れる喜びが抑えきれず、笑いながらそのまま軽く回る。

 くるくると視界が回り、クリスの笑い声が風に溶けて響いた。
 その音が部屋いっぱいに広がって、まるで幸せそのものが満ちていくようだった。

 戸惑いも、迷いも、心の靄ももうどこにもない。

 あるのは、ただ愛しさと喜びだけだった。

 クリスが笑いながら頬を寄せる。

「楽しみだね、ラステア」
「……ああ。なんて幸せなんだ」
 腕の中の温もりが、過去の痛みをひとつずつ溶かしていく。
 かつて憎んだこの命が、今は愛しくてたまらない。

 ……俺は、生まれてよかった。

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