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エピローグ1 21話 あの人は今……??
しおりを挟むようやく訪れた穏やかな日常。
この静けさが、こんなにも贅沢だなんて思いもしなかった。
あの日の雨のぬくもりだけが、今も胸の奥で静かに残っている。
僕らはいつも通りの生活を取り戻しつつあった。
そんなある日、アマハガ第1王子・アレン殿下が、突然オアシスを訪ねてきた。
あまりに予想外の来訪に、僕はしばらく言葉を失った。
殿下によれば、大砂嵐のあとに魔法を使ったのが僕だと察したのだという。
その直後にグレイドルへ向かったものの、国が落ち着かない時期だったため追い返されてしまった。
それでも諦めず、いったんアマハガへ戻って何度も打診を重ね、ようやく訪問の許可を得たのだと。
「ずいぶん時間を費やしてしまった。申し訳ない」
「外交の都合もあるでしょうし、むしろ、こんなところまでお越しくださってありがとうございます」
頭を下げるアレン殿下に、思わず僕たちも姿勢をただし、慌てて頭を下げた。
「だが、待ったかいがあった。あなたたちにはいい土産を持ってこれたと思う」
そう言いながら紙の束と外から次々箱が運ばれてきた。
あの後、リダオンは水脈を通し、王宮に返還した。
国王はそれを受け取り、リダオンの暴挙を深く詫びた手紙と、いくつもの贈り物と共に不可侵を約束する書状を寄越してくれた。
これで本当の意味で平穏が約束された。
僕とラステアはそっと手を取り合って喜び合った。
そのとき、外の荒い足音が響いた。
誰かが止める声、そして……。
「おやめください! ただいま殿下が……!」
必死な制止の声と同時に、壊れそうな勢いでドアが開いた。
「クリス! 俺がわざわざ迎えに来てやったんだぞ! 感謝しろ」
ずかずかと入ってきたのは、見慣れぬ鎧に身を包んだ見慣れた顔だった。
元婚約者、ラカルド様。
できれば二度と会いたくなかった人に、またこんな形で会うとは。
「まったく、愚図な奴め!」
怒鳴り声が室内に響く。
以前なら、そんな声を聞いたら、体が震え、呼吸が浅くなっていた。
けれど今は、何も感じない。
僕とアレン殿下が話す卓にはつかず、護衛時代のように背後に控えていたラステアは、素早く僕を背に庇った。
広くて安心する背中。
ラステアがいてくれるなら何も怖くない。
アレン殿下が立ち上がりラカルド様の前に立つ。
「ラカルド、……シアー男爵領にいたのでは?」
「兄上がグランドルに向かったと聞いて、きっとそこにクリスが居るだろうと思って来ました!」
「……何をしに来た?」
「もちろん! 誤解を解きに来ました!」
「……誤解?」
「そうです! 兄上、全て誤解なのです! おい、クリス、説明しろ! 全ては貴様の不徳の致すところで、この俺に非がないとな!」
腕を組み、反り返るその姿は、昔と何も変わっていなかった。
傲慢で、自信だけに満ちた態度。
その視線にかつては怯えた。怒鳴られる前に言葉を探して、呼吸すら浅くしていた。
けれど今はもう違う。
胸の奥に湧き上がるのは恐怖ではなく、呆れと諦め、それからほんの少しの苛立ちだけだった。
ラステアも同じ思いだったのだろう。
静かな息のあと、低い声がすぐそばで落ちた。
「……この鼻毛、何言ってるんだ」
あまりにも真面目だから、一瞬、思考が止まった。
そして内容がじわじわと染みてきて、ぶっと吹き出した。
「ラステア、そんな顔で言うの反則だろ……!」
「だって、アレといったらソレだろ」
「そうだけど……っ!」
思い出したら今でも笑いが止まらない。
お腹を抱えて笑い、涙がにじむ。
ラステアも同じように肩を震わせながら笑っている。
笑いがようやく落ち着いた頃、部屋の空気が静けさを取り戻す。
アレン殿下の落ち着いた声が、優しく響いた。
「……君たちは、ずいぶん親しくなったのだな」
その声音で我に返る。
笑いすぎたせいで、まだ胸のあたりが妙にくすぐったい。
アレン殿下のまっすぐな視線を受けて、言葉が自然にこぼれた。
「僕たちは、伴侶になったので」
「……そうか」
アレン殿下はゆっくりと微笑んだ。
柔らかくて、どこまでも優しい笑みだった。
そのまなざしに、祝福と安堵が滲んでいる。
胸の奥が、じんと温かくなる。
こうして伴侶であることを、親しい人の前で初めて口にした。
少しくすぐったくて、どこか誇らしい。
ラステアも同じ気持ちなのだろう。
ちらりと隣を見れば、彼はわずかに耳を赤くしながら、けれど誇らしげに微笑んでいた。
ふと目が合い、柔らかな空気が流れる。
これが平穏というものなんだ。
そんな実感に、……浸っていたかった。
突然笑い出した僕たちを呆然と見ていたラカルド様が、口を開く。
「クリス! 俺は無実だと証言しろ! あの件は全部誤解だった。そうだろ!?」
ラカルド様の声が室内に響き渡った。苛立たしげに床を踏み鳴らす音が、場の空気を震わせた。
責め立てるようなその眼差し。
昔なら、その一瞥だけで体が強張り、声も出せずにただ怯えていた。
けれどもう全く気にならない。
「……あの件?」
どの件のことを言っているのか本気で分からない。
浮気の件か、婚約破棄の件か、それとも、鼻毛の件なのか。
いずれにせよ、僕が謝る理由なんて1つもない。
「なんでもいい! お前が『ラカルド様は悪くありません』って言えばいいんだ!」
かつてなら、あの怒鳴り声が怖くて、曖昧に頷いていたかもしれない。
そうやって何度も自分を殺して、相手の機嫌ばかりを伺ってきた。
けれど今は違う。
この人に従う義理はない。
ラカルド様が荒々しく一歩、僕の方へ踏み出した。
それを遮るようにラステアが無言で前に出て、僕を背中に隠す。
背中越しに感じるその存在は頼もしく、真っすぐで、あたたかい。
握り拳がいつの間にか解けていた。
「たかが護衛風情がでしゃばるな!」
ラカルド様が唾を飛ばすように怒鳴る。
しかしラステアの声は揺るがなかった。
「俺はクリスの護衛であり、伴侶でもある。大切な人を危険に晒す相手を近づけるわけがない」
まっすぐな声だった。
言葉ではなく、その声音そのものが盾のように僕を包んでいた。
ラカルド様の手が剣に伸びかける。
同時に、アレン殿下が静かに制止の声をかけた。
「ラカルド。その方はグランドル王家の血を引く。無礼な振る舞いをするな」
「……な!?」
ギリ、と歯を噛む音が聞こえた。顔色が見る間に変わっていく。
それでもなお、彼の目は憤りと苛立ちで濁り、僕をまっすぐに睨んできた。
「クリス!!」
かつてはこうやって一言僕を怒鳴れば何でも思い通りになった。
そして今もそうだと信じて疑っていない。
けれど、そんな関係はもうないんだ。
「運命のお相手を見つけたのでしょう? 不細工な僕など放っておいて、その方と幸せになればいいじゃないですか」
あの日、言えなかった言葉をようやく吐き出せた。
「な、貴様! 口答えを……」
僕の言葉にラカルド様が一歩足を踏み出しかけるのを、ラステアが腕を広げることで止めた。
その仕草が優しくて、誇らしくて、僕はこっそり、その広い背中に抱きついた。
ラカルド様に見えないよう、少しだけ顔を埋める。
そして心の中で、舌を出してやった。
小さな反抗が、どうしようもなく愉快だ。
「いつまでも隠れているな! 人としゃべるときは顔を見せろ!」
「あなたが顔を見せるなと命令したんでしょう」
「それでも隠れられていると気分が悪い!」
苛立ち混じりの声と、床を踏み鳴らす音。
この人は結局、自分の思い通りにならないことが我慢できないだけなのだ。
その単純さが、もう滑稽に見えて仕方ない。
僕はラステアの背中に「大丈夫」と囁いた。
彼は一瞬だけ迷い、そして仕方なさそうに半歩だけ体を横へずらす。
ラカルド様の視線が僕の顔を貫いた。
変わらない威圧的な見下す視線が、不快感を煽る。
「大体いつもお前は辛気臭くて、愛想がなくて……!」
溢れです僕へ対する罵詈雑言。
なぜそんな言葉だけは語彙が豊富なのか。
返事をするのもばからしくただ聞いていると不意にそれが止まった。
沈黙。
それから息を呑んだような音がした。
「……」
そして彼の視線が、僕の目元から口元へゆっくりと彷徨う。
まるで別人を見ているかのようだ。
「……おまえ、クリスか?」
「そうですが?」
「いや、偽物だな」
「なんでですか?」
即答されて、思わず眉をひそめた。
この期に及んで偽物扱いとは、もう呆れるしかない。
ラカルド様は一歩下がり、そして鼻息荒く言い放った。
「決まっているだろう。クリスは貴様のように美しくはなかった!!」
フンス、と鼻息と共に、立派な鼻毛が陽光を受けてきらりと舞った。
お鼻から零れる鼻毛はそうやって、鼻息を荒くして話すのが原因だと思います……。
舞い落ちた鼻毛を視線で追っていると、ラステアが再び僕を庇うように前に出た。
「クリスは昔から可愛くてきれいだったが? あなたの目が節穴だっただけだ」
ラステアが呆れたように言い放つ。
彼の声音は静かだが、刃のような冷たさを帯びていた。
「な、何だと!?」
ラカルド様は突っかかろうとしたが、相手が王族だとようやく思い出し、歯噛みして一歩退いた。
「ラカルド、いい加減にしろ」
「兄上は騙されております。はやり諸悪の原因はクリスなのです!」
本当に、会話にならない。
けれどもう、腹も立たず、ただ哀れみのような気持ちだけが残った。
何とも言えない沈黙が落ちる。
重い空気を断ち切るように、アレン殿下がもう何度目か分からない深いため息をついた。
「ラカルド。この方は間違いなくクリス殿だ」
「!?」
ラカルド様の表情が、目に見えて歪んだ。
顔色が変わり、唇が震える。まるで世界の秩序が崩れたかのような錯乱。
その様子を眺めていると、怒りでも優越感でもない、ただひとつの感情だけが残った。
……疲れた。
この場にいる全員がそんな表情でラカルドを見ている。
そして思い知る。
この人の中で、僕は最初から人ではなく飾り物だったのだろう。
捨てたいのに、持っていなければならない忌まわしいアクセサリー。
「そんな馬鹿な……」
呆然と呟くラカルド様は、僕を2度見し、3度見し、しまいには10回ほど上から下まで視線を動かした。
目を瞬かせ、頭を振り、それでも納得できないまま恐る恐る僕に声をかけてきた。
「クリス、なのか?」
ようやく掠れた声を出す。
「はい」
「……俺を謀っていたのか!」
「はい?」
「そのような容姿なら婚約を続けてやったものを!」
……続けて『やった』?
頬の筋肉がひくりと動く。
「ずっとこの顔ですが? 『見苦しいから顔を隠せ』と命じたのは、あなたですよ」
「髪を切ればそのような容姿だと言わなかったではないか!」
「あなたが前髪を伸ばせと命じたのに!?」
「醜いそばかすがあっただろう!?」
「成長と共に薄くなりました!」
「そんなわけあるか! やはり貴様は偽物だ。それにクリスは俺に口答えなどしなかった」
「我慢してたんです!!」
顔だけは好きだって思っていたけれど、もう見るのさえ忌々しい。
早く消えて欲しいとそんな風に思ってしまった。
気づけば声が少しだけ大きくなっていた。
アレン殿下が横で耐えかねたように額を押さえ、静かに呟く。
「うん、わかった。廃嫡は正しかった。もういい」
その言葉が、ゆっくりと部屋の空気を鎮めた。
殿下が軽く手を振ると兵士たちが動き出し、ラカルド様の両腕を拘束する。
「な、何故ですか! 兄上!」
「お前は既にアシェリ殿と婚約している。今さら『誤解だった』と騒いで何になる」
「俺が王族でないなどありえないからです!」
アレン殿下は短く息を吐いた。
その音には、疲れと失望と、兄としてのわずかな哀れみが混じっていた。
「連れて行け」
兵士たちが動く。
ラカルド様は叫び散らしながらも、抵抗らしい抵抗もできずに遠ざかっていく。
「兄上、何故です!? おい、クリス、謝れ! 今なら許してやる!!」
その声が次第に遠のき、やがて乾いた風にかき消された。
胸の奥で、ようやくひとつ息が抜ける。
「無能な働き者が……」
アレン殿下が低く呟く。皮肉とも溜息ともつかない、疲労の混じった声だった。
再び卓につくと、彼は深い礼をした。
「本当に、申し訳ない。まさかついてきているとは……」
「あの方、兵士の格好をしてましたよね。いつから紛れていたんでしょう?」
「小賢しいところだけはあるのだ……」
苦い笑みを浮かべる殿下に、苦笑が漏れた。
「なんというか……殿下もご苦労なさいますね」
「すまない。王家として、あの愚弟は責任をもって隔離するつもりだ。幸いなことに、アシェリ殿はアレを愛してくれているらしい」
「なんと……寛大なお方なのですね」
別の相手を選ばれたと知ったときは、胸が痛んだ。けれど今の言葉を聞いたら、アシェリ様はまるで神のように思えた。
「……本当に」
アレン殿下はそっと顔を覆い、深く息を吐いた。そして、再びまっすぐに僕を見つめてきた。
「王家としても、クリス殿の名誉の回復を望んでいる。もう2度と、あのようなことは起こさせない」
卒業式の日。世界の全てが敵のように感じていた。
けれどそうではなかったんだ。
僕の尊厳を、正式な立場で守ろうとしてくれる人たちがいる。
それだけで、過去の痛みが少しずつ溶けていく。
「ありがとうございますアレン殿下」
「こちらこそ、長い間あれを押し付けていたことも含め、重ね重ね本当に申し訳なかった」
僕とアレン殿下は頭を下げ合った。
「次に現れたら、今度は私が切ってしまいそうです。その時はどうかご容赦を」
ラステアの淡々とした声。けれどその響きには妙な迫力があった。
ラステアも、冗談を言うようになったんだ。
そう思いかけたが、その眼差しの奥にほんのわずか残る殺気を見つけて、背筋がひやりとした。
そういえば冗談にしては、少しも笑っていない。
「必ず、約束しよう」
引きつった顔でアレン殿下が頷く。
「それと、クリス殿へラーカイル家および領地の返還をしたい」
「……え?」
思わず息を呑んだ。
耳に流れ込んだ言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
考えたこともなかった。
もう手に戻ることはないと思っていたのだから。
「今日ここへ来た本題はこれだ。はぁ、ようやく伝えられる」
アレン殿下が手を差し出すと、傍に控えていた騎士が書状を持ってきた。
「不当にラーカイル家を乗っ取っていた者は捕らえ、すでに投獄した。横領した金は労働をもって賠償させるつもりだ」
殿下の言葉に、胸の奥で静かな安堵が広がっていく。
そうか、もうあの人たちはいないのか。
長い間張りつめていた糸が、音もなく切れるような感覚だった。
「領地は現在、王家の預かりだが、正当な後継者であるあなたに返還したい。よければここにサインを」
「ラーカイル領を……僕に……?」
その名を聞いた途端、胸の奥から懐かしい情景が一斉に蘇った。
果樹の花の香り。朝露に濡れた畑の土の感触。
晴れた日に空を渡る風のやわらかい匂い。
幼いころ、両親の笑い声を聞いたあの居間のあたたかさ。
失われたと思っていた記憶が、形を持って心の奥によみがえる。
そして、それらが再び自分のものとして差し出されていることが信じられなかった。
「領地は無傷だ。あなたへの報酬を領全体の資産と勘違いしていたおかげで、金も人も守られていた」
殿下がそう告げると、胸の奥がほっとゆるむ。
あの人たちは華やかな王都での暮らしに夢中だった。
だからこそ、領地を顧みることなく僕の稼ぎを浪費していた。
皮肉にも、その無関心がすべてを守ってくれていたのだ。
無理をして必死で与えられた仕事をこなしていたのは無駄じゃなかった。
「……よかった。領民たちが苦労していないのなら、それだけで十分です」
微笑むと、隣のラステアが優しく視線を寄せてきた。
あの頃、逃げるように失った居場所。
今は彼と手をつなぎながら、もう一度そこへ帰ることができる。
両親との思い出と、ラステアと出会った奇跡。
その両方をつなぐ場所が、今も確かに残っているなんて。
「現在の領主代理は今もカーライル家の家令が務めている。あなたが戻るのを待っているそうだ」
「……」
言葉が出なかった。
胸が熱くなり、喉が少し痛い。
そっとラステアの手を握る。
その温もりが、これは夢ではないと教えてくれる。
「婚約の話もなくなり、クリス殿が王都に留まる理由もない。希望するならラーカイル領の領主として戻ってほしい」
アレン殿下の穏やかな口調が、未来への扉を静かに開く。
「……ラステア」
「クリス」
呼び合っただけで心が通じた気がした。
「僕、どうしよう」
「決まっているでしょう」
ラステアは優しく微笑みながら、迷いのない声で答える。
「帰りましょう。ラーカイル領へ」
その言葉が胸の奥に染み込んでいく。
帰る。
たったそれだけのことなのに、涙が出るほど嬉しい。
僕はゆっくりと頷いた。
もう居場所を追われることはない。
今度はこの手で、大切な物を守っていけるんだ。
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