午時葵が咲き

蒼乃悠生

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第五章 春待月

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 一ヶ月後。
 リハビリも通院で十分だと主治医に判断され、わたしは退院の準備の為、病室の片付けをしていた。

(なかなか荷物が多いなぁ)

 入院日数が増えると、荷物も増えるのは何故だろう。特に本や雑誌が増えた。重いものばかりだ。それらを紙袋に詰めていくが、重量がある為か取っ手を持って持ち上げると、紙が悲鳴を上げる。まずい! と思って、すぐに下ろす。持ち手の部分から裂けていた。
 そんな風に滞りながらも一人で荷造りをしていると、ドアをノックする音がした。

「はーい」

 返事をすると、ドアはゆっくりと開いた。そこから現れたのは、白髪で、眼鏡を掛けた中年の男性。

「お父さん!」
「ちぃちゃん、遅くなってすまんね」

 のんびりとした口調で、父はやって来た。

「ううん。こっちこそ仕事休ませちゃってごめんね」
「いやいや、一度もお見舞いに来れなくて悪かったよ」
「しょうがないよ、忙しいんだし」

 今日は忙しいから、ちゃちゃっと終わらせよう。
 そう言って、父は、手際よく手伝ってくれた。本を入れた紙袋も、袋を二重にして破けないように工夫する。
 片付けをしている合間に、父はスマートフォンを取り出し、何枚か画像を見せてくれる。どこかの駅前の写真だった。茶色い路面電車なども写っていた。

「前の出張でね、広島に行ったんだよ」
「うん」

 父の声色は心が弾んでいるように聞こえた。

「原爆ドームを見たよ」
「そうなんだぁ」
「夜に見に行ったらさ、ライトアップされててね……少し怖かった」
「お父さん、ビビりだなぁ」

 はははと笑う父に、思わず、クスッと笑ってしまった。

「歴史的背景を考えると、悲しさ、怒りとか、沢山の人と、感情が複雑に混ざり合ってるんだなぁと思ったら、オレンジ色のライトは残火なのかなぁって」
「残火……?」
「勢いよく燃える火よりも主張はないけど、燃え尽くしてしまったように無くなったわけではない」

 父の目の奥に潜む意志を感じる。

「過去になってしまっても、今も尚、心には現実にあった出来事を根付かせて、決して〝消えない〟し、〝消さない〟」

 父は微笑んだ。

「僕はそう見えたんだよね」
「そっか」

 わたしも微笑んでみた。
 それからも出張先の写真を見せては、土産話を聞かせてくれた。時刻を見た後、スマートフォンをズボンのポケットに片付けた父は、日用品や着替えを詰めた、一番大きい鞄と、本の入った紙袋を持つ。そして、思い出したかのように父が持ってきた鞄も手に取った。

「残りはちぃちゃんが持ってね」
「分かった」
「じゃ、僕は先に会計を済ませてくるから、一階の待合室で待ってて」
「うん」

 そう言って、父は部屋を出て行った。
 と思ったら、すぐにドアが開く。

「ちぃちゃん」

 ひょっこりと顔を覗かせる父。

「ん? なに?」
「随分遅くなったけど、ちぃちゃんのお家を放火した人が捕まってよかったね」

 ニッコリと満面の笑みを浮かべた。

「あぁ、ありがとう」

 兄や前の父を知っているとはいえ、今の義父にはどうしても言いづらかった。しかし、わたしの気遣いは要らなかったのかもしれない。
 そっとドアが閉まる。
 それを合図に、わたしは忘れ物がないか、一通り見渡す。そして、全ての荷物を持った。
 ドアを開け、部屋を出る。




 父が運転する車で、そのままお婆ちゃんが暮らしている施設まで行った。
 自動ドアから入ると、すぐに受付があり、そこで時間と名前を書く。そして予め用意されているアルコールで手を消毒してから、父が前に、お婆ちゃんがいる部屋まで歩いて行った。
 見回りを兼ねているのだろうか。あちらこちらで職員を見かける。
 テーブルが並ぶデイルームには、お爺ちゃんとお婆ちゃん達がお茶を飲みながら、楽しそうに話をしていた。
 老人ホームと言うと、病院のような固いイメージを勝手に抱いていたが、ここでは壁が木材だったり、暖色系のライトを使っていることもあって、思った以上に暖かみのある施設だ。施設内の雰囲気も明るい。
 余所見をしていると、いつの間にか父が遠い場所にいる。わたしは慌てて追いかけた。
 そして、父はある部屋の前で止まる。
 そのドアには、四枚のネームプレートが掛けられていた。一枚は名前が書かれていないが、三人分の名前はある。その中に木佐薫子はあった。

「お邪魔します」

 軽く会釈しながら入ると、部屋はカーテンで四つに仕切られている。利用者がいないところはカーテンが開けっ放しになっていた。棚やベッド、椅子が一つずつ置かれている。
 一番奥にお婆ちゃんは椅子に座って、雪のように真っ白な毛糸で編み物をしていた。その目はどこか虚ろに見える。

「薫子さん、ご無沙汰しております。九藤です」

 父がそう挨拶すると、お婆ちゃんはすぐにわたし達に気づいた。耳には補聴器が付けられている。大きな声で話す必要はないようだ。

「いらっしゃい」

 手を止めて、ニッコリと深いシワを作りながら笑ってくれた。

(あれ? お婆ちゃんってこんな人だっけ?)

 沢山のシワに、白髪。細い手足に、痩せた顔。
 わたしが覚えている姿とかけ離れていて、一気に歳をとったように見える。そう思ってしまう程、お婆ちゃんと長い間会っていなかったということなのだろう。

「こちらのお嬢さんは、あなたのお嫁さんかしら?」
(嫁!?)

 お婆ちゃんの発言に衝撃が走る。
 父の嫁だなんて、とショックを受け、なんの返事もできずにいると、父は苦笑しながら否定した。

「僕はあなたの娘さんの櫻子の夫です。ちせは僕の娘ですよ。薫子さんのお孫さんです」
「そう」

 あまりピンと来ていないのか、お婆ちゃんは短く答えた。
 止めていた、編み物を再開する。

「……」

 話しかけづらい。
 すると、父が口を開いた。

「ちぃちゃん、薫子さんに聞きたいことがあるそうです」

 編み棒は止まらない。

「どうやらお義父さんのことが気になっているようですよ」

 ピクッと止まる。だが、すぐに編み棒を動かし編んでいく。

「澄(きよし)さんのこと?」
(お爺ちゃんの名前って、きよしなんだ)

 あまり下の名前を意識しなかったせいか、いざ名前を聞くと新鮮な感じがする。いつもお爺ちゃん、お婆ちゃんと呼んでいるから、口にする機会がなかったし、離れて住んでいるから手紙などで字として見ることもない。

「そうですよ」

 父がそう肯定すると、お婆ちゃんはわたしを一瞥した。
 その瞬間、ビリッと静電気が走ったかのように、緊張する。久しぶりに会話するから、どんな風に話せばいいのだろうと不安になる。

「お、お爺ちゃんってどんな人でしたか?」
「どんな人……?」

 均等な大きさで編んでいく手を止めないまま、細い首を傾げた。

「え、えっと」

 聞きたい内容は頭に浮かんでいる。しかし、尋ねる為の言葉が喉元で絡まって、詰まっていた。
 すると、背中にそっと温かい手が置かれる。

「緊張しないで、落ち着いて」

 父と目が合い、父は口の両端を吊り上げた。
 それを見て、顔の筋肉を引き締める。シンプルに聞いてみよう。

「お爺ちゃんって、昔、軍人だったの?」

 下手な前置きはせずに、直球で聞くと、お婆ちゃんはやっと編み棒を止める。不思議そうにわたしを見ていた。

「どうしてそんなことを知りたいの?」
「この前、お母さんと話していたら気になって」
「お母さん?」
「ああ、あなたの娘さんの櫻子のことですよ」

 父は苛立つことなく、再び教える。
 思った以上に、お婆ちゃんの認知症は進んでいるようだ。先程説明した母のことでさえ、すぐに記憶はなくなってしまう。長い間会っていなかったとはいえ、わたしのことも覚えていない。そして、これからも。悲しいというより、ショックだった。
 この調子だと、わたしが知りたい昔のことは、もう覚えていないのかもしれない。
 そう思っていると、お婆ちゃんの目元を優しそうに細めた。

「澄さんは海軍の人よ。戦闘機に乗っていたわ。あの時の澄さんは本当に格好良かったの」

 きっと、お婆ちゃんには軍服姿のお爺ちゃんの姿を思い出しているのだろう。目は、恋する乙女のようにキラキラと輝いていた。
 わたしの心配は杞憂だったようだ。
 すると、お婆ちゃんは思い出したかのように、棚に収納されているテーブルを引き出し、そこへ未完成の編み物を置いた。下の棚に置いていた鞄の中をゴソゴソと探している。そして、カードケースのような物を取り出した。その中から一枚の小さな写真を手に取る。手のひらに収まるほど、それは小さなものだった。

「ほら、どう? 格好良いでしょう?」

 満面の笑みで、わたしに写真を見せてくれる。
 そこに写っていたのは、若かりし頃のお爺ちゃん。カラー写真ではないので色は分からないが、色の薄い軍服を身に纏い、一人でニカッと笑う男性。
 そして、わたしはその顔を見て、目を見開いた。

「ああ‼」

 閉じていたドアをバーンッと思い切り開けたような、そんな感覚が頭に走る。

「伍賀さん‼」
「ごがさん? て、誰だい?」

 父は目をパチパチと開閉し、小首を傾げた。
 しかし、お婆ちゃんの反応は違い、嬉しそうに微笑んでいた。

「あら、あなた、澄さんのことを知ってるじゃない」
「え、じゃあ、伍賀澄って言うの?」
「もしかして木佐さんは旧姓が伍賀なんですか?」

 話の流れを読んで、父は会話に割って入る。

「そうよ。戦後に、伍賀から、亡き親友の姓である木佐に変えたの」
「亡き、親友?」

 そんな話は知らない。

「澄さんには親友の木佐さんという方がいらしたの。でも、天涯孤独の身でね、伍賀家が代わりに養っていたそうよ」

 伍賀家に養子として入らないかと誘ったらしいんだけど、頑なに拒まれたらしいわ。
 お婆ちゃんは、そう付け足した。

「そうなんだぁ」
「詳しくは知らないけれど、兄弟のように育ったみたいだから、戦争で木佐さんを亡くした時に木佐家を潰したくなかったみたいなの。唯一彼がいたという残せるものだからって。そうしたら伍賀家がなくなっちゃうのにね」

 ふふっと笑った。
 お爺ちゃんの事となると、お婆ちゃんは表情は柔らかい。目元も優しくなって、わたしが知るお婆ちゃんではないようだ。

「それで伍賀から木佐に改姓されたんですね」
「そうよ」

 わたしは写真を眺める。
 しかし、

「ちぃちゃんはどうして伍賀さんを知ってたの?」

 そう尋ねられて「確かにな」と率直に思った。
 たった今、お爺ちゃんの旧姓が伍賀だと知ったばかりだ。それなのにお爺ちゃんのことは、木佐というよりも伍賀の方がしっくりとくる。
 どれだけ記憶を思い返してみても、そんな話を聞いたこともなければ、名前を目にすることもなかった。

「分からない」

 わたしは胸に抱く感覚を、そのまま口にした。

「わたし、伍賀さんに会ったことがある……気がする」
「そりゃあ伍賀さんはお爺さんだから会ったことはあるだろう?」
「いやいや、そういう意味じゃなくて」

 わたしは慌てて父の言葉を否定する。木佐のお爺ちゃんとしてではなくて、伍賀さんとして――と。
 しかし、自分で言っておいて、頭の中が混乱する。木佐のお爺ちゃんも伍賀さんも同一人物だ。抱える感覚は、木佐のお爺ちゃんと伍賀さんは、まるで別人のように抱いていた。
 すると、お婆ちゃんは、わたしを見上げた。

「じゃあ、本当に会ったのよ。私も最近よく会うもの」
「え?」
「この椅子にね、その写真の姿で座っているの」

 お婆ちゃんは自ら座っている椅子を撫でた。
 しかし、お婆ちゃんの目元に寂しさのような色が映る。

「でもね、呼んでも目を開けてくれないのよ」
「どうして……」
「私の声が聞こえないのかしらね。いつも寝ているように見えて可愛いのだけれど、やっぱり少し寂しいわね」
「そっか……」

 わたしは写真をお婆ちゃんに返した。

「疲れたわ。そろそろ休ませてちょうだい」

 お婆ちゃんは急に編み物を片付け始めた。まだ編みきっていない編み物。なにを作ろうとしているのだろう。

「お婆ちゃん」

 片付けるために開けられた棚には毛糸があった。しかし、量は少ない。妙だと、直感で思う。なにを作っているのか見当がつかないほど、未完成な編み物。残り少ない毛糸では、恐らくなにも作れないのではと思う。

「なにを作ってるの?」

 編み棒が付いたまま片付けられ、棚はそっと閉められた。

「時間があればマフラーでも作ろうとは思っていたんだけれど……」

 お婆ちゃんはそう言いながら、カードケースには戻さず、まるでずっと共にいたいと言わんばかりに、写真を棚に置いた。

「完成したら誰にあげようかねぇ」

 そう言って、笑った。わたしの問いには全く答えずに。
 わたしたちがドアに向かって歩こうとした時、わたしの手になにかが触れた。

「ちせちゃん」

 ドキリとする。認知症のお婆ちゃんが、わたしの名前を呼んだことに。
 振り返ると、お婆ちゃんはわたしの手を握っていた。

「私とはお話をしてくれないくせに、澄さんはたまに独り言を言っているの」
「え、うん」
「『蔵の一番奥の右にある棚』て言ってるんだけど、見てきてもらえないかしら? 気になって仕方がないのよ」
「うん、分かった」

 ああ、あと……そう言って、ベッドに置いていた一通の手紙をわたしに渡してきた。もう中身は確認済みのようで封は開いている。

「これ、高島さんから手紙が届いたんだけれどね」

 手紙を受け取り、裏を見る。そこには確かに差出人は高島藤也(たかしまとうや)と書かれていた。

「これはあなたが持っていなさい」
「え?」
「そう〝書いてある〟のよ」
「でも、わたし、この人知らないから違う人なんじゃあ……」

 お婆ちゃんはゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。確かに〝書いてあった〟わ。では、また後ほどね、九藤さん」

 わたしが再度否定しようとしたら、お婆ちゃんは父に目配せをしていた。なにも言えないまま、父に促されてドアに向かって踵を返す。わたしがカーテンをを閉めた瞬間、お婆ちゃんの声が微かに聞こえた。

「これで、よかったのよね」

 カーテン越しに見える、椅子に座る影。

「高島さんもこれで成仏できるかしら」

 その言葉が聞こえた瞬間、わたしのすぐ隣に気配がした。一瞬で体が寒く感じる。隣を振り向くと、わたしと同じくらいの青年が立っていた。お婆ちゃんの方を向いているが、目は閉じたままだ。
 この人は――
 声を掛けようとした時、青年はすぅっと目を開ける。わたしは開口していたが、そのまま空気だけを吐き、ゆっくりと閉じた。

「ね。澄さん」

 お婆ちゃんは名を呼ぶと、青年は笑った。



    ■ ■ ■




 一旦実家に帰ると、懐かしい匂いがわたしを出迎えてくれた。
 わたしが使っていた部屋はすっかり物置小屋に変わっている。仕方がないので、居間の隅に荷物を置いた。またすぐにアパートに戻るだろうから構わないだろう。今の時点では、一人暮らしをやめるつもりはない。

「はあ……」

 帰り道に寄ったコンビニで温かいカフェオレを買った。息を吐いてから、それを飲む。特になにかをするわけでもなく、テレビを付けてのんびりと過ごいた。実家でこんな風に過ごすのは何年振りだろうか。
 トイレに行った後、なんとなく台所に立ち寄ると、そこには父がいた。あまりにも小難しそうな表情をしていたものだから、気になって覗いてみた。

「お父さん、なんか作ろうか?」

 包丁を握りしめて、人参を切ろうとしていた。いや、人参の持ち方を見ていると、恐らく皮を剥こうとしていたようだ。

「ちぃちゃんは退院したばかりなんだから、ゆっくりしていいよ」

 そう言って、皮を剥くのだが、なんともぎこちない。モヤモヤしてくる。むしろ怪我をしないかヒヤヒヤしてきた。
 わたしは手を洗い、父から無理矢理包丁と人参を奪った。

「見てるこっちが怖いよ。皮を剥けばいいんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど」

 歯切れが悪い。
 わたしは父よりは早く皮を剥く。そう、〝父よりは〟。
 人参はできるなら皮を剥かない方が良い。そこに栄養があるのだと聞いた。だが、この皮が口に残って嫌いだと母は言う。なので、根っこが付いている箇所だけ剥いた。あとは、なにがなんでも食えというつもりだ。

「おー。櫻子が話していた通りだね。本当に料理ができるようになったんだ」
「あれだけ言っているのに、未だに嘘だって思っていたことが腹ただしい」

 頬をぷくーっと膨らませる。
 すると、父は申し訳なさそうに「嘘をついているとは思ってなかったんだけど、ここまでとは思ってなくてね」と言った。一体どこまで料理ができると思っていたのだろうか。しかし、今はそう尋ねる気すら起きない。
 そこに、遠くからドアを開ける音がした。

「ただいまー!」

 元気のあるその声は、母だ。
 そして、声とは打って変わって、体を引きずるように来た母は台所に来て、驚いた様子で駆け寄ってきた。やっぱり元気はあるようだ。

「あんた、皮が剥けるようになったんだぁ」
「失礼な人」
「嘘だと思ったのに」
「その目で見て確かめてよ。嘘じゃないとこ」
「はー……人って変わるもんね」

 母が珍しく感嘆の声をあげた。




 テーブルに置かれたサラダ、焼き魚、そしてわたしが作った筑前煮。
 久方ぶりの家族揃っての晩御飯。

「そういやー、今日婆ちゃんとこに行ったんでしょ? どうだった?」
「お義母さん、元気だったよ。編み物してたし」
「ちせは聞きたいこと聞けたの?」
「うん、まあ……」
「なんか言われた?」

 わたしの様子を見て、母は追求してくる。

「蔵を見てきてって言われた」
「蔵? なんで今更」
「お婆ちゃん、お爺ちゃんがそう言ってたみたいで気になるんだって」

 母は一瞬止まり、眉を寄せる。

「どゆこと?」
「幽霊なんじゃない?」
「そーゆう話は好きじゃないんだけど」
「だからお義母さんは櫻子には言わないんだろね」

 父は笑う。

「だからさ、今度、蔵を見に行ってもいい?」
「次の日曜なら連れてってあげるわ。休みだから」
「その日は仕事だなぁ」

 カレンダーを見る父は溜息を吐く。

「あ、ちぃちゃん。お義母さんから手紙貰ってたよね。なんて書いてあったの?」
「あ! 忘れてた‼ ちょっと取ってくる」

 わたしは箸を茶碗に置いて、鞄にしまった手紙を取りに行った。
 そして、テーブルに着くと、椅子に座り、手紙の中身を確認する。そこには紙が三枚入っていた。
 封筒に書かれた高島という名前に、母が反応する。

「それって高島って書いてない?」
「え? あ、そういえば……」
「あれだけ、病室であたしが高島って話をしたのに」
「すっかり忘れてた」
「まあ、あんたは忘れるのが十八番だもんね」
「失礼な」

 わたしはこれでもかと思うほど、眉を寄せる。
 焼き魚を突きながら、封筒を眺めていると、母はニヤニヤとした顔で見てきた。

「で?」
「で? って?」
「なんて書いてんの? 愛しの高島さんから」

 言葉も口調も顔も、もうからかう気満々である。
 そんな母にげんなりする。

「愛しのって……。どーせ、わたしが言ったのは高島藤也さんのことじゃないでしょ」
「あーうん。とうやとは言ってなかった気がする」

 わたしは改めて封筒の中身を確認した。 

「あ」

 取り出そうとしたが、写真に気づき、封筒から出す前に戻した。なんとなく誰にも見られたくなかった。でも、どうして? 自問自答するが、答えは返ってこない。

「なによ。見せなさいよ」
「後にする」
「ぇえ? 意味分かんない……それ!」

 母は残念そうな顔をして、手紙を奪おうとしてきた。が、すかさず手紙を遠ざけた。本当にこの母親はとんでもない親だ。力づくで見ようとするなんて。

「勝手に取ろうとしないでよ!」
「まあまあ、二人共落ち着いて」

 父はまったりとした口調で制す。

「ちせのケチ」
「ケチで結構」

 手紙の中で見た言葉。
 確かにわたしの名前が書かれていた。
 なんとなく、一人で見たいと思った。




 ご飯を食べ終えて、一番最後に風呂に入り、ポカポカな体で過ごす。
 父と母は先に寝室で過ごしているため、居間には一人だ。そしてその居間に布団を敷いて、テレビを見ながらゴロゴロと過ごす。
 手紙の中に入っていた三枚の紙。一枚ずつ並べてみる。

「写真と手紙が二枚……ん?」

 手紙は二枚で一つではなく、書き手が二人のようだ。
 一枚は、大きな紙で高島藤也という人がお婆ちゃんに宛てて書いたもの。

「『叔父、高島藤次の手紙が出てきました……木佐のお孫さんに』……て、わたしのことか」

 読んでいくと、高島藤次の手紙の内容が、時系列と合わないのでどうしようかと悩んだ結果、とりあえずお婆ちゃんに送りましたという内容だった。確かに木佐さんのお孫さんはちせさんだと記憶しておりましたので、と。
 小さな紙で書かれた方は、高島藤次という人物が書いた手紙だった。いや、手紙という言える程、大きな紙でもなく、長く書いた文章でもない。
 その高島藤次が書いた文字は、達筆で綺麗だった。そして、力強かった。

「ちせ……え、わたし?」

 名前が書かれていた。


『九藤ちせに贈ります 高島藤次』


 目を通すと、彼の声が読んでいる気分になった。声なんて聞いたこともないのに。
 しかし、何故わたしの名前を知っているのか。何故わたしに贈ろうとしたのか。なにを贈ったのか。

「高島藤次って、この人かな」

 お爺ちゃんの写真と同じように手のひらサイズの写真。
 大きな飛行機の前で空を仰ぐ男性。

(……かっこいい人)

 思わず、赤面してしまう。恥ずかしくて、目を見ていられない。いや、ただの写真ではあるのだが。
 写真の裏を見ると、名前と日付が書かれていた。高島藤次大尉、昭和……。

(もしかして、この写真をわたしに?)

 藤也さんはなにを思って、この二枚を送ってくれたのだろうか。

(分からないなぁ)

 ゴロンと転がってみる。
 スマートフォンの音が鳴った。メールを受信した時の音だ。

(誰だろ)

 画面を見ると小秋という名前が。

(え!? いつの間に⁈)

 メールアドレスを交換した記憶はないのだが。

(高島大尉の写真を見ましたか……て、小秋さんが藤也さんに言ったとか?)

 たまたまお婆ちゃんから高島さんの手紙を受け取り、たまたまその中に高島藤次の手紙と写真が入っていた。そして、小秋さんから、たまたま高島大尉の写真を見たかというメール。それらを偶然と片付けるには、収まり切れない大きな疑問点が残る。
 わたしは、小秋さんが藤也さんに写真をわたしに送るように言ったのか聞いてみた。返事はすぐに来た。

(確かに藤也さんにちせという名前の子が木佐のお孫さんにいるとは教えたけど……か)

 ということは、高島籐也さんと小秋さんは知り合いで間違いない。
 画面を暫く見つめた後、スマートフォンを握ったまま万歳をするように布団の上で大の字になる。

(小秋さんって一体何者なんだろ……不思議なことが起こってばっかりで、訳わかんないよ)

 大きく息を吐いてから、天井を見つめる。
 すると、またスマートフォンが鳴った。

「今度の日曜日、藤也さんがうちに来る!? 遺品整理をして出てきたお爺ちゃんの物を渡しに来てくれるんだ……行動力があるなぁ」

 驚いて、思わず飛び起きた。
 小秋さんからのメールにそんな内容が書かれていた。

「ちょっと待って! 日曜は蔵を見に行かなきゃいけないのに」

 その旨を伝えると、小秋さんからまたすぐに返事が来た。

「むしろそちらの方が好都合って……藤也さん、お婆ちゃんの家を知ってるんだ……」

 どうやら元海軍の人達は、親戚を含めて、強い繋がりがあるようだ。定期的に会ったり、ご飯を食べたりしているらしい。しかし、最近は亡くなる方も増えて、少しずつその規模は小さくなっていると、小秋さんは説明してくれた。
 すると、小秋ちゃんのメールには、『高島大尉の写真は見ましたか?』と再度来く。

(見たよ。イケメンさんだね、と)
『なにか思い出しましたか?』
(どういうこと? 特になにも、と)

 スマートフォンの文字を打つのはあまり慣れておらず、時間がかかる。

『おかしいですね。相場ではここで思い出すはず』
(相場ってなんだろう)

 小秋さんは、たまによく分からない。

『日曜に蔵を見に行くってことは、伍賀さんの蔵ですよね? その中ならなにかありそう。私も行きたいです』
(あれ? 小秋さんも伍賀の名前を知ってるんだ)

 小秋さんもどうぞと打ち、更に小秋さんは伍賀さんのことを知ってるの? と聞くと、

『伍賀さんもお客様として店に来てましたから』

 と、答えた。
 兄との関係を聞いた時と同じ。
 一体どういうことなのだろうか。
 これでは、幽霊を客とする店の従業員をしていますと言っているように聞こえてくる。

「いや、まさかなぁ~」

 ハハハと空笑い。
 しかし、香具山と呼んだ男の人の声を説明できず、やはりイメージ通りの人ではないかと思うと真顔になる。もし幽霊だったら、正直怖い。
 と、言うわけで、日曜は藤也さんと小秋さんも蔵に来ることになった。わたしが勝手に決めてしまったが、どうにかなるだろう。

『藤也さんを見たら、きっと驚きますよ』

 後から、小秋さんのメールで送られてきた。




    ■ ■ ■




 日曜日の午後一時。
 お婆ちゃんの家に集合。
 先に着いたわたしは蔵の前で待つ。
 母は蔵の鍵を取りに行っていない。
 スマートフォンをいじっていると、砂利の上を走る車の音がした。顔を上げると、若葉マークを張り付けた白い車が、祖父母の敷地内に入ってくる。車の助手席には小秋さんが乗って、運転席には男性が座っていた。
 お母さんの車の隣に駐車する。田舎にある家は広く、敷地も広い。車を停めやすかっただろう。車が完全に駐まってから、小秋さんが勢いよく出てきた。

「ちせさん、こんにちは!」
「こんにちは」

 私服姿の小秋さんも可愛い。
 微笑ましく眺めていると、男性の声が聞こえ、そちらの方へ顔を向けた。

「こんにちは、高島です」
「こんにち、は!?」

 高島さんの顔を見て驚く。
 すると、この反応を見た小秋さんは凄く嬉しそうな顔をしていた。

「びっくりするでしょう?」

 高島さんは困ったように黙る。

「写真の高島さんと……非常に似てますね」

 上着ポケットに入れていた、桜色のカードケースを取り出した。電車のカードも入れている、それに入れた写真の彼と、目の前にいる高島さんを見る。失礼だと十分承知しているが、まるで、生写しのようにそっくりな顔を見ると、見比べてしまう行動が止まらない。
 あのイケメンさんが目の前にいる。ボッと、顔が熱くなる。

「ああああ、あの、わたしが木佐澄の孫の、九藤ちせと申します」

 顔を見るのが恥ずかしくて、思いっきり顔を下げた。こんなブスな顔を見られたくない。

「あ、いや、その、僕の方が年下なんで敬語とか気にしないでください」

 少し照れているような表情。
 どんな表情でもイケメンさんはイケる。……そんなイケメンさんが、怖い。

「ちせさん、ダメですか?」

 小秋さんが心配し、覗き込んでくる。
 顔が真っ赤なことに気づくと、優しく微笑んだ。

「やっぱり、ちせさんはちせさんですね」
「ぅぅ、どういう意味ですか、小秋さん」
「高島大尉のこと、心から愛しているんだなぁと」
「叔父のことを、ですか?」
「当たりですよ」

 高島さんの言葉を肯定する。小秋さんは、弾けるような笑顔で、とても嬉しそうだ。

「でも叔父が戦死した後に九藤さんがお生まれになったんですよね? おかしくないですか」
「ふふ。内緒です~」

 小秋さんは口元に立てた人差し指を添えて、高島さんの問いに答えようとはしなかった。
 高島さんに九藤さんと呼ばれて、心に小さなあたたかさが生まれる。呼ばれると懐かしいような気持ちは心を擽った。でも、ほんの少し、その呼び方じゃないと言いたくなる感情がある。
 匂い袋を握り、高島さんと小秋さんのやりとりを眺める。

(わたし)

 わたしたちの間に冬の冷たい風が吹き抜ける。
 寒くて、身震いをする。

(わたし)

 断片の記憶。
 頭の中にある、一つ一つの記憶のカケラを繋げていく。すると見えてくる、一枚の画像。
 今ここにいる高島さんの姿に、見慣れない服が重なる。それはテレビの画面を通してみているような、映像の乱れを見ているようだった。

「白い、マフラー」

 首元に巻かれたマフラー。
 額にゴーグル。
 飛行服。
 そっと、頭に手を添える。頭が痛い。ズキンズキンと心臓に合わせて、頭痛が襲った。
 視界がブレる。

(これ、なにを見ているの?)

 目の前にいる高島さんのような人がわたしを見て、わたしに言っている。微笑みながら、優しい眼差しで、いつも。


『俺の分まで、生きてくれ』


 高島さん?
 いや、違う。
 この声は違う。
 この声は――

「高島、藤次」

 誰にも聞こえないぐらい、小さな声で呟いた。
 もう一度、写真を見る。

「あんた、なに泣いてんの」

 母の声。
 バッと顔を上げると、蔵の鍵をクルクルと回している母が傍にいた。全く気づかなかった。すぐに反応できずにいると、母は溜息を吐きながら、蔵の錠前に鍵を差し込んだ。

「他の奴らがいんのに、写真を見て泣くとか、意味分かんない」

 ガチャリと音を立てて、鍵が開く。
 そして、重たい戸を開けた。
 みんなが蔵の中に入っていくのを見守る。
 わたしはそっと袖で涙を拭いた。
 それからわたしも蔵に入った直後、小秋さんがこっち振り返って待っていてくれた。夕日色の瞳が、真っ直ぐにわたしを捉えている。

「私が然るべき場所に置いて、縁があったからちせさんの元に帰ってきましたね」
「そう、だね」

 小秋さんの言葉が、わたしの知らない記憶の扉を開ける。そしてそれは、すとんと降りてきた。先程までしていた頭痛も、同じタイミングで消える。
 わたしは忘れていた。
 あの世界での出来事を。
 出会ってきた人々を。
 現実世界のわたしと、異世界のわたし。
 両手を取って、額を合わせる。




〝ああ、やっとわたしは帰ってきた〟




「ありがとう、小秋ちゃん」

 わたしは小秋ちゃんに笑いかけた。
 小秋ちゃんもまた、わたしの中の小さな変化に驚くこともなく、笑顔を返す。彼女はいつもわたしの前を行く。そして、彼女はいつもわたしを待ってくれる。

「さあ、伍賀さんが言う〝ちせさんにとって気休めになる物〟を見に行きましょう」

 夕日色の瞳を細くして、わたしに手を伸ばす。

「うん」

 わたしはその手を取った。
 一番奥の右にある棚。その棚の下の引き出しを開けると、布に包まれたものや、いくつもの木箱が入っていた。それら全てに埃がかぶっていて、物を持つ度にそれは舞い上がる。わたしはくしゃみを繰り返した。それにつられるように、藤也さんも何度もくしゃみをする。
「汚い」と文句を言う母を尻目に、わたしは黒く汚れる手を気にすることなく、兎に角手を動かした。

「伍賀さんが言ってた木箱ってどのことだろう……」

 うーんと悩んでいると、母は隅に隠れていた、最も小さい箱を取り出した。

「これじゃない?」
「なんで分かるの?」
「だって、ほら。ここに伍賀澄って書いてんじゃん」

 母は箱の側面に書かれた名前を指差す。墨で書かれた達筆な字。伍賀さんも綺麗な字を書くなぁと感心した。わたしは手を伸ばし、その箱を受け取る。

「なんだか宝物を見つけたような……ドキドキしますね」

 小秋ちゃんがそわそわしている。

「めちゃくちゃ高い宝石とか、腕時計とかですかね」

 すぐ後ろで藤也さんもそわそわしていた。少し緊張しているのか、表情が硬い。

「爺ちゃんがそんなもん隠してたら、婆ちゃんがすぐに売ってるよ」
「確かにねー」

 わたしはそっと木箱の蓋をずらし、開ける。
 折角だから、ここは焦らすようにゆっくりゆっくりと開けてみる。
 と、見せかけて、バッと勢いよく開けてみた。
 ご開帳。




「ぁあ?」




 全員の声が重なる。

「しゃ、写真…………」

 何枚も重ねられた写真。
 わたしは、一番下になにかあるんじゃないかと思い、一度全て取り出してみたが、下の紙も写真で終わっており、それ以外の物は一切入ってなかった。

「…………」

 誰も口を開かなかった。
 黙々と一枚ずつ写真を確認してみる。念の為に。
 段々と口がバツ印に変わる。どこかのウサギの口のように。

「伍賀さん、調子に乗ってますね」

 毒づく小秋ちゃん。

「値打ちはありそうにないですね」

 ゴミでも見ているかのような目で見つめる藤也さん。

「このポーズ、カッコいいと思ってんだろな」

 カスを見るような目つきの母。

「伍賀さん……これを見て、どう気休めをすればいいの?」

 複数で飛行機役と飛行機を飛んでいるように見せる影役に分かれているもの。
 褌姿で休憩をしている様子のもの。
 パイナップルを手刀で割ろうとしているもの。
 とりあえず、遊び心が満載の写真ばかりだ。きっと基地内だろうが、よく写真として残ったなと感心する。処分されてもおかしくないほど、度が過ぎるものもあったのに。
 そして、小秋ちゃんはクスッと笑った。

「伍賀さんらしいですね」
「そうだね。真面目に働いてるイメージないもん」

 わたしも小秋ちゃんに同意する。二人で笑いあっていると、藤也さんと母は顔を見合わせていた。
 
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