真田記

蒼乃悠生

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肆 山母子を添える時

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 新年を迎える元日は、戦が起こらない保障はないが、新年を祝う者が多い。家族や親戚と酒を飲み祝う者、主君へ挨拶へ行く者など、人々にとって意味がある日なのだ。
 そして、忍び者も休みをもらえることが多い珍しい日であり、於江と右近は里に帰っていた。玄葉は信繁の世話係なので残っている。
 場は、九度山。六文銭の屋根瓦がある屋敷。
 奥村がその屋敷でのんびりと寝っ転がっていた。

「奥村さん?」

 縁側を歩いていた玄葉が足を止める。その足音は元より無いのは、彼もまた忍び者故。室内の微動だにしない気配に気付き、気になったようだ。
 彼は障子を少し開ける。その手元には空のお盆。恐らく、主である信繁に茶を運んだ帰りなのだろう。
 中にいる人物が奥村だと確認すると、続けて口を開いた。

「里に帰らないんですか?」

 畳の上でだらしなく横になっている奥村は、起き出すこともせずに口を開いた。腕を枕代わりにし、目を閉じたまま。

「戸隠にか? 帰らねえよ。面倒臭い」

 そう言って、額に巻いていた黒い布をずらし、目元を隠す。
 意地でも里帰りをしない様子に、玄葉は苦笑する。そして、奥村に背を向けるように、その場で正座をした。
 冬晴れ。
 今年の冬は暖かい。雪は降らず、陽に当たれば、うとうとと眠気が襲ってくる陽気な日々が続く。過ごしやすい反面、雪不足が心配だ。
 玄葉は空を見上げた。
 青い空に浮かぶ、引きちぎったような綿雲。ゆっくりとした飛雲を落ち着いた眼差しで追いかける。
 ああ、穏やかな時間だ。
 そう考えながら、後ろにいる奥村に意識を向ける。
 近づきすぎると身構えてしまう。遠すぎると話したい事が話せない。二人の程よい距離は、まるで心の距離にも思えた。

「でも、育てのお母上はご存命でしょう? こんな日くらいは帰って、元気な姿を見せてあげないと」
「母様はもう里にいない」
「え?」

 予想していなかった言葉に、思わず玄葉は振り返った。

「元々里から抜けた忍び者だったし、父様が死んでから里を追い出されたか、殺されたんじゃねえか? 兎に角、もう里にいないのは確かだ」
「戸隠がそんな……」

 ぶっきら棒に答える奥村を見つめていたが、玄葉は戸惑いを隠せずに視線を落とす。
 まるで戸隠の内部を知っているような口ぶりが気になり、奥村は目元に当てていた布を取った。驚く玄葉の姿を目に映す。

「池田さん、戸隠のこと知ってんの? でも、池田さんって戸隠の出身じゃねえよな?」

「よっこらせ」と言いながら、上半身を起こした。

「私は戸隠出身ではありませんが、戸隠には任務上よく行きましたからね」
「ふ~ん……」

 まるで疑いの目を向けられているようで、玄葉は苦笑した。

「戸隠に育ててくれたご両親がいないのなら、〝お父上〟の元へ挨拶をされたらどうです?」

 その瞬間、奥村の表情が曇り、眉を寄せ、あからさまに不機嫌になる。

「……ぁあ⁉︎」
「えっ? ……」

 短い時間に表情がコロコロと変化し、玄葉は慌てる。不味いことを言ってしまったのだろうかと思い、これ以上口から出さない為に持っていたお盆で口元を隠した。

「池田さんが言う〝お父上〟って誰だよ。あれか、真田伊豆守信之様のことか?」

 嫌味に言いますねー……。
 玄葉はそう口から出そうになった言葉を寸前のところで飲み込んだ。まるで口に出すのも不愉快だと言わんばかりの様子に、玄葉は心の中で率直な感想を呟くことにした。
 無理矢理笑顔を作りながら、奥村の機嫌をこれ以上損ねないように気をつける。

「まあ、伊豆守様のことになりますね。挨拶はしないんですか?」
「行ったら小松がいるだろーが」
「あー……」

 小松姫が苦手だからか……。
 玄葉はそう思いながら、好き嫌いがはっきりしている奥村に暖かな視線を送る。

「でも、伊豆守様が本当の父親なんですから、会いたいと思うのでしょう?」
「んー……そこまで思わない」

 奥村は改めて布を額に巻き直す。気合の入る、定位置の場所へ。

「へぇ。なんだか意外ですねぇ」
「なんでだよ」
「父親に憧れているように見えましたから」
「憧れてねえ」

 躊躇せず、きっぱりと否定する。
 そして、徐に立ち上がった奥村は、玄葉から逃げるように隣の部屋に続く襖を開けた瞬間ーー

「………………よっ!」

 奥村の目の前に出てきたのは、狼狽えている信繁の姿。どうにか誤魔化そうと右手を挙げ、笑顔を作っているが、どこから見ても、つい先程まで盗み聞きしてましたという態度である。体と襖が異様に近い。
 摘み食いをしたのだろう、齧られた干し柿が、口からぽろりと落ち、コロコロと転がっていった。
 まるで時間が止まったかのような間。
 奥村はまるで塵でも見ているかのような目で信繁を眺める。

「…………なにしてんだよ」

 ドスの効いた低い声で信繁に聞く。奥村は初めから信繁がいたことを知っていたのか、驚く様子を見せず、むしろ額に青筋を浮かべていた。
 答えを求められた信繁は、助けを求めるように玄葉に目を遣るが、彼は爽やかな笑みを浮かべるだけ。その目は「ご自身で撒いた種なのですから、ご自身で解決してくださいね」と言っている。
 困った信繁はあたふたとしながら、言葉を探すがなかなか思いつかない。

「たまたま……」
「たまたまじゃあねえよな」

 信繁の言葉に、奥村は間髪入れずに言葉を重ね、見え透いた嘘を潰す。
 長い沈黙の後、耐えかねた信繁は降参と言わんばかりに頭を垂れた。

「すまん。こっそり聞いてた」

 認めた瞬間、まるで火がついたかのように奥村は吠えだした。

「なにしてんだよ⁉︎ つか、足音を消してこっちに来んな! 気配も消しやがって忍び者みてえなことしてんじゃねえよ‼︎」
「ほっほっほー。実は俺、忍び者だったんだよねー」

 信繁は後頭部に手を当てて「いやー、黙ってて面目ない」と満面の笑顔で言う。明らかに茶化す言葉遣いと声色に、奥村は「嘘ばっかつくな‼︎」と牽制した。

「で、なにしに来たんだよ‼︎」

 勢いは止まらないが、聞くことは聞く。

「鍋、食おうぜ」

 信繁は両手で鍋を描くように円を作り、そして、左手はお椀を持つように変え、右手は箸を持ち、食べる仕草をする。
 一変して真剣な眼差しでやるものだから、奥村は怒る気力を無くした。
 長く溜息を吐きながら俯き、無造作に片手で頭を掻く。

「〝若様〟と同じ鍋食えるかよ」

 奥村は忍び者の為、主と共に食事をすることはできない。
 嫌味にも受け止められるが、秩序を守る為、奥村なりに考えての結果だった。決して信繁が嫌いだの、鬱陶しいだの、そんな私情ではない。ーー少しは入っているかもしれないが。
 すると、信繁は奥村の肩を叩き、置いた。

「今日は元日だ。こんな日くらい良いだろう? な? 無礼講といこうじゃないか。 お前が嫌でも俺が命じる。『一緒に鍋を食べませう』」

 大真面目に告げた後、ニカッと笑った。
 そして、更に言葉を続ける。

「あと、夕刻くらいに兄上と小松殿が来るみたいだから〝逃げない〟ように」

 笑顔のまま語尾を強め、思いきり肩を掴む手に力を込めた。
 その瞬間、奥村は血の気を引いた顔で、素早い動きでその手を振り払い、その場からから逃げるように部屋を出て行った。「ふざけんな!」と言い残して。
 気配が離れたところで、やっと玄葉が口を開く。

「結局分かってなさそうですね、彼」
「まあ、いつか分かるさ」
「改めて、山茶のおかわりはいかがです?」
「そうだなぁ……茶菓子もつけてくれ」
「……それは安岐姫に相談しておきます」

 玄葉は立ち上がると、お盆を持って土間の方へ姿を消した。
 信繁は袖に腕を入れ、長く溜め息を吐いた。誰にも気づかれないように。




 信繁の言った通りに、昼食時、奥村を含めた真田の家族と共に鍋を囲み食した。とはいっても、部屋の隅で、信繁が食べ終わった後に箸をつけたのだが。
 ただ、昌幸だけは顔は見せず、自室に篭ったままである。その世話として、玄葉もいなかった。
 偉大な父を持つが、今は配流の身である。
 決して豪華な食事ではないが、真田家やその家来が世話をした野菜、そして兄である信之と小松姫が前もって贈ってくれた肉や果物、酒に感謝しながら腹を満たした。これほどまで腹も気持ちも満足した食は、いつぶりだろうか。
 太陽が落ち始めた頃、屋敷に近く、最も高い木の上で座っていた奥村が異変に気づく。慣れた動きで木から降りると、信繁がいる部屋に入って行った。
 奥村が姿を消して暫くすると、外でウロウロと徘徊していた野犬が吠え始める。よそ者が来た、気を付けろと仲間に知らせる為に。

「真田のおっさん、真田伊豆守信之様が来たぞ」

 ゴロンと横になって書物を読む信繁に報告した奥村は、非常に不愉快そうな表情をして、部屋の隅で座る。

「兄上が来たか~。陽が沈む前とは言っていたが、相変わらず時間通りだなぁ」

 そう言いながらも信繁はページを捲る手を止めない。

「伊豆守様の前でも読むつもりか?」
「さすがに片付けるさ。優しい兄上でも怒る」

 自身でそこまで言っていても、手は止まらない。
 奥村はそんな主の姿を尻目に、気付かれないようにそっと溜め息を吐いた。今から会わなければならない人物を思うと、吐き出さずにはいられなかった。理由を探して逃げ出したい気分だ。だが、信繁が納得をするような理由もなければ、身代わりになる忍び者もいない。
 数ページを捲った時、障子の向こうから玄葉の声がした。

「信繁様」

 名を呼ばれてから、信繁はいそいそと書類を片付ける。

「ん?」
「真田伊豆守信之様と小松姫が来ましたよ」
「分かった」

 信繁が上座に座ると同時に障子が開き、信之と小松が部屋に入り、付き人は入らずに一礼をする。
 玄葉はそれを合図に障子を閉めた。
 二人は信繁の前まで歩くと、その場に座った。

「信繁、久しいね」
「お久しぶりです、兄上」

 よそよそしい挨拶が交わされている間にも、小松は奥村に目を遣り、だらしない座り方をしないの! と言わんばかりに睨む。
 奥村は気づかぬフリを貫き通す為、視線を合わせないように明後日を見ていた。しかし、突き刺さるような視線を受け流すことも苦痛のようで、顔をしかめる。

「さて、挨拶はほどほどにして。お父上はいかがかな?」
「父上は床に伏せてる。恐らく、もう二度と戦場の地を踏むことはないだろうと本人に言われたよ。帰る前に顔を見ていくといいさ」
「そうか。なら、お言葉に甘えて顔を見てから帰るとしよう」
「おう、そうしていけ」
「一晩、よろしくな」

 信之がそう言った刹那、

「はあ⁈ 泊まっていくのかよ⁉︎」

 部屋の隅で静かにしていた奥村が、思わず身を乗り出しながら割って入った。
 夫に余計な手間をかけさせないように、小松は奥村を睨みつける。

「暗い夜道の中を帰れと?」
「まあまあ。奥村、一晩くらい泊まらせてやれ。山賊やら襲われたら大変だろ?」

 信繁は両手で下げる仕草をしながら、奥村に落ち着けと促す。

「~~~~!」

 なにか文句を言いたげな顔をしているが、信繁の目が「後で文句を聞いてやるから、今は落ち着いてくれ」と言っているように見え、奥村はぐっと堪えた。舌打ちをしてから、また部屋の隅に腰を下ろす。
 すると、小松はその態度が気に入らなかったようで、奥村を睨むと、信繁にも鋭い眼差しを送った。

「失礼極まりないこと。左衛門佐殿、一体なにを教えているのです?」
「小松殿、申し訳ない。奥村は隠したり、嘘を付くのが下手で、素直な子なんだよ」

 信繁はそう弁解するが、小松の怒り解けそうにない。
 あたふたする信繁を尻目に、信之は静かに溜め息を吐く。

「小松、許してやれ」
「伊豆守様! 甘えはよろしくありません」

 夫である信之に対しても吠えてかかる。

「あの崩した座り方! 粗暴な口! 目つきの悪さ! なに一つ良いところがありません!」

 小松は奥村を指差し、信繁に対しても訴えているようだった。
 存在すら否定されたような気持ちになった奥村は眉間に深い皺を刻み、「んだと‼︎」と叫ぶ寸前、信之が口を開き、思わず飲み込んだ。

「よしなさい。恥ずかしい」
「しかしッ‼︎」
「まるで嫉妬に狂った女にしか見えない。我が弟の前でいつまでその見苦しい姿を晒すのか?」

 牽制の眼差しを向けられ、小松は口を一文字に紡ぐ。まだ言い足りないという表情を浮かべているが、口に力を入れて堪える。そして間を置いてから「申し訳、ありま、せん」と、信繁に辿々しく謝罪をした。その顔には悔しさが滲み出ていた。
 信繁は苦笑しながら「いえ。こちらも誠に申し訳なかった」と奥村の無礼さを代わりに謝る。
 その間も奥村は悪びれる素振りを見せずに、そっぽを向いていた。掴みかからなかっただけ有難いと思えと言わんばかりに座り直す。
 粗方落ち着いた頃を見計らって、信之が口を開いた。

「奥村、急な話で悪かった。そして、小松が申し訳ないことをした」

 そう言った瞬間、再び小松が口を挟みそうになるのを、信之が目で阻止をする。

「悪かったな」

 深々と頭を下げる。その姿は、一人の忍び者にするものではない。だが、どんな相手でも真摯に受け止め、行動に移すところが信之の人柄なのだろう。
 流石に、大名に頭を下げさせたことに焦りが体を駆け抜け、奥村は慌てて口を開いた。

「別に、お前が謝ることねえし」

 お前という単語が耳に入った瞬間、小松は激昂し、目をカッと開いた。奥村の傍まで足早に歩み寄る。着物の布同士が擦れる音が歩く速さを物語る。
 右手を大きく振り上げながら、怒気を帯びた声色で叫んだ。

「貴方の父である伊豆守様を無礼極まりない言葉で呼ぶことは許さない!」

 怒り狂った双眸で右手が振り下ろされる刹那、奥村の周りを漂う空気が刃のように鋭くなろうとした。
 その時ーー信繁が真っ赤な扇子を開く音がした。
 奥村の目に信繁の顔が映る。己を止めようとする仕草はない。ただ信じているぞと言うような眼差しが向けられていた。
 それに戸惑っていると、バチンッと甲高い音が鳴り響く。

「口には出しませんが、伊豆守様はいつも貴方のことを心配しておいででした。父だと知られていなかった間も、贈り物を選ぶ際には、左衛門佐殿を通じて貴方の好きなものも選んでいた。身も心も離れていても、ここまで愛されておきながら、貴方はなに一つ返さない」

 左頬を押さえながら、奥村はやり返すこともなく、ただ黙ってそれを聞いていた。

「伊豆守様が父だと知り、挨拶くらいするのかと思えば挨拶すらない。伊豆守様の気持ちを蔑ろにすることは私が決して許さない……!」

 感情が昂り、目に涙を溜める。肩を上下させながら、ジンジンと痛む右手を左手で握り締める。
 信繁は、口許を隠していた扇子を閉じた。

「どうしたものかの~」

 わざとらしく声を張る。一体誰に向けられた言葉なのか、誰もが理解できずにいると、そこに、

「源次郎? どうしたの?」

 縁側の向こうから安岐の声が聞こえた。
 障子を開けずに、彼女は心配そうに言葉を続けた。

「開けていい?」

 来客がいるにも関わらず、そう尋ねてくる安岐に、信繁はニヤッと笑い答えた。

「おお、入れ入れ」
「はーい」

 そう言って、障子を開けると、顔に手を添える奥村の前に仁王立ちする小松、困ったかのように微笑む信之、そして面白そうに笑う信繁。
 来客中だったことに初めて気づいた安岐は顔を真っ赤にして、その場で土下座をする。

「伊豆守様、小松姫がいらっしゃるにも関わらず、無礼な立ち振る舞い、も、申し訳ございませんでした!」

 慌てて何度も土下座をしていると、信之は「大丈夫、気にすることはない。信繁がこうなることを確信してやったのだから」と言った。それでも己が犯した失敗を思うと恥ずかしく、顔の色を変えずに、ひたすら謝り続けた。
 すると、奥村は静かに立ち上がり安岐の横を通って、部屋を後にした。

「え? 奥村さん?」

 狼狽える安岐を尻目に、小松は信之の隣に座った。右手を握り締めたまま不機嫌な顔で。
 その様子に状況が見えてきた安岐は、小松を見て言った。

「あの子がまた無礼なことをしてしまったのですね。奥村の代わりに謝罪致します」

 改めて頭を下げると、小松は罰が悪そうに「私も申し訳ありません……」と初めて謝罪の言葉を口にした。

「ただ、あの子は複雑な環境で育った為、人に勘違いされやすく、不器用な子です。でも、とても良い子なんですよ」

 にっこりと微笑むと、信繁が口を開いた。

「奥村は誰よりも素直で優しいぞ。俺の息子の為に雪で鼠を作ったりするし」

 あの面に似合わずと言いながら、信繁と安岐はお互いに見やると笑った。まるで自分の子の自慢をしている親のように温かかった。

「そんな風には見えませんが……そうおっしゃるのならば、そうなのでしょうね」

 俯き加減で小松は答えた。己に相手のそのような部分を見極めることができなかったことが悔しかったようで、項垂れるように頭を下げた。
 一緒にいなかった故に知らなかった息子の事を知り、信之は優しく目を細める。

「お前と共にしてから真っ直ぐな子に育ったのだな」
「俺んとこに来た直後は、そりゃーもう野獣でも扱っているかのように刺々しかったからなぁ」

 当時の光景を思い出し、信繁は苦笑した。

「人の関わり方が分からなかっただけだ。これから少しずつ理解していくだろう」
「人を見抜く目は安岐姫に負ける」
「そんな、私なんてまだまだです。では、私は奥村さんを追いかけに行ってきますね」

 そう言って、両手を膝より前に揃えた時、信之は安岐を見た。

「ありがとう」
「とんでもございません」

 安岐はニッコリと微笑んだ。
「ここで失礼します」と言い、そして深々と頭を下げると、障子を静かに閉め、奥村が姿を消した方向へと歩いて行った。
 そして、信之は目を閉じ、口角を上げた。

「安心した」
「そうか。兄上がそう言ってくれて嬉しいのぅ。呼んだ甲斐があったというものよ」

 再び扇子を広げ、大口で笑う口許を隠す。
 すると、小松が重たい口を開いた。

「わざわざ私達を呼んだのは、本当の奥村を知ってもらいたいからですか?」
「もちろん。小松殿は特に先入観から奥村と接しているような節がありましたのでね」
「そのようなつもりでは……。私はただ、奥村には誰に見せても恥ずかしくないように……」

 申し訳なさそうに身体を小さくする小松に、信之はそっと背中に手を置いた。

「少々力が入り過ぎていただけだ。その思いは我々も分かっているし、本人もきっと気付いているだろう」
「あやつは俺らが住む世界とは一歩ずれた世界にいる。俺らの常識は奥村には必要がないんだろうよ。なあ? 兄上」
「恐らく、今まで負の鎖で縛られていた分、解放された今、再び縛られるのが嫌なんだろう。小松殿の気持ちは分かるが、これからは奥村を自由にやらせてもらえないか?」

 決して二人とも小松を責めるような物言いではなく、穏やかな空気のままだった。小松を理解していることは口先だけではないことが分かる。
 小松はゆっくりと首を縦に振った。




 次の日。
 朝早くから、既に屋敷に信之と小松の姿はなかった。陽が上り始め、道が見えるほど周りが明るくなってから出発したようだ。早くから発たないと、城に着く時間が遅くなってしまう。世話になっている小松の家族と徳川家への挨拶周りに支障をきたさない為だった。
 太陽が顔を出し始めた早朝、父である昌幸以外は二人とその付き人の背を見送った。
 彼らに見送られる際、馬に跨る小松は非常に不機嫌な表情を浮かべていた。そして、馬が歩み出した瞬間、小松は少しばかり口を開く。

「やはりあの子はなにも分かってないわ……」

 見送る者達には聞こえないように小さく出す声。誰かに伝えようという言葉ではない。だが、それは明らかに不愉快な声色だった。
 それに気づいた信之は、「……奥村のことか」と、彼女と同様、後ろで見送る信繁達に聞こえないように尋ねた。

「見送りに来なかったではありませんか」
「我々の普通が、忍び者の彼が思う普通と同じだとは限らないだろう」
「ですが、このような場合はどんな者であろうが、一般的な礼儀としてやらなければならないことです」
「確かに礼儀は必要だが、私への複雑な想いがあるのだろう。難しい年頃なんだ」

 どこまでも奥村を甘やかす信之を見て、小松は眉間に皺を寄せる。

「そうやってすぐに甘やかすからいけないのです」

 馬は頭をブルッと震わす。

「本多家は厳しいな」

 ははっと、信之は苦笑した。

「心配するな。奥村は大丈夫だ」

 信之がそう言うと、小松は乱暴に息を吐き捨て、前を見据えた。そして、彼女の小言は始まる。その小言を上手く躱しながら、信之は楽しそうに笑った。




 屋敷のすぐ近くにある背の高い木。奥村はそこにいた。
 信之と小松の背を遠くから見送る。決して別れの挨拶はしない。声は出さない。
 そして、姿が見えなくなる前に跳ぶように木から降りた。その目が捉えるのは、信繁の背。
 両手を空へ掲げ、体を伸ばしながらゆっくりと歩く。思わず欠伸が出た。張り詰めていた体の力が抜ける。

「ふぁ~……」

 目尻に涙が溜まる。
 奥村の気配に気がついた信繁が振り返る。

「遅かったな」

 その信繁の言葉に鼻で笑う。見送りに行っていたわけねえだろと、言いたそうに。そして視線は縁側に座っている玄葉に移る。

「池田さん。今日の朝ご飯は?」

 玄葉の返答を待たずして、奥村はくるりと身を翻し、屋敷へ向かって歩き出す。二回目の欠伸をしながら、眠たそうに目をこすった。
 玄葉はキョトンとしていたが、すぐにクスッと笑った。奥村の凍りついた心が少しずつ溶けていっていることを感じながら。
 
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蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

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