午時葵が咲き 木五倍子編 (高島藤次)

蒼乃悠生

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第二章 木五倍子の花

五.道化師の産声

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 基地に帰ると、中の様子は異様なほど騒々しかった。
 みんなが走り回っている中、こちらを見る視線も、普段と異なる気がする。
 チクチクとした針のような視線。
 敵意に似た空気。
 その空気は張り詰め、ただ重いだけじゃないというところが、今までに感じたことがない異質さ。
 正直に言えば、居心地が悪い。
 すると、少し離れた場所から伍賀さんの叫び声が聞こえた。焦って、力んでいるように声だった。
「高島!」
「伍賀さん、なにかあったんですか?」
 珍しく走ってきた伍賀さんは両膝に手を付き、肩で息を吸う。
「今までどこにいた!?」
「え、急にどうし」
「早く答えろ!!」
 伍賀さんの様子もおかしい。
 俺の言葉を遮ってくる程余裕がないなんて非常事態だ。
 そんな彼に内心驚きつつ、口を開く。
「……今まで小秋ちゃんの家にいました。金髪の少女、二ノ宮さんを送ってきましたよ。確認が取りたければ、小秋ちゃんに尋ねてください」
 不愉快な気持ちだ。
 まるでこちらが犯罪を犯し、尋問を受けているような感覚。
 きっとこの顔には、不愉快ですと文字が書かれているだろう。
「なら、良い!!」
 全て吹っ切れたかのように、伍賀さんは歯切れよく、爽快に答えた。なんの曇りもない、満面の笑み。
「どうしたんですか?」
 周りを気にしがら改めて聞くと、伍賀さんは神妙な顔持ちをした。
「たった今入った情報からだと、高島によく似た人物が刀を振り回してるのだとか」
「は?」
「朝、報告を受けたように、ただの徘徊から始まったらしいんだが」
「てことは、侵入者の話ですか」
「今は刀を振り回した後、狂ったかのように隊員を傷つけているんだとか」
「いや、しませんから、俺」
 眉間に皺を寄せていると、伍賀さんがその眉間に一発殴ってきた。
「分かっとるわい!! でも、実際に見たっつー奴が多いから確認したんだろーが!」
「あーすみません。だから殴らないでください」
 眉間をさする。
 と、ここに二人と隊員が走ってきた。
「高島大尉! 一体なんのおつもりなんです!?」
「まあまあ、落ち着いて」
 血が付いた第一種の軍服を着た男が口早になり、顔が青ざめている。心に余裕がないのが、見てすぐに分かった。
「なにを悠長に! 急に斬りかかってくるなど、狂乱にもほどがありますよ!!」
 胸倉を掴まれる。
 力が篭るその腕に、そっと手を添えた。
 小刻みに震える腕。恐怖からか、怒りからか。はたまた両方か。
「俺は今まで小秋ちゃんの家にいた。だから基地で暴れたという俺は、この俺じゃない」
「じゃあ、誰だと言うんです!! 俺はこの目でしかと見たんですよ!! 高島大尉が叫びながら桐嶋に斬りかかるのを!!」
 充血した目で、今にでも射殺さんとする鋭い眼光が突き刺さる。
 この者が嘘をついているようには見えない。
 だから余計にどのように答えたら良いのか悩んだ。
 その悩む時間が、彼を更に追い込ませる結果になり、彼の右腕が振りかざされる。
 と、同時に伍賀さんがその腕を掴んだ。
「伍賀さん! 止めないでいただきたい!!」
 もう一人の作業着姿の男は伍賀さんに向かって叫んだ。
「君達、とりあえず落ち着いたら? 軍人たる者、ここまで心をなくしてどうするの?」
 さっきまで自分も落ち着いてなかったくせに、よく言う。
「瀬田まで被害に遭ったというのに、その落ち着きぶり、まさか貴方までも共犯なのでは!?」
「はあ?」
 まさかの共犯呼ばわりに、伍賀さんは額に青筋を浮かべる。
 やばい。
「良いから落ち着け!!!!」
 声を張り上げると、伍賀さん以外の二人はこちらを見た。
「瀬田がやられたのか? 容態は?」
 そう尋ねると、軍服の男は胸倉から手を離した。
「……顔と首、胸に刺し傷があり、重症です」
「急所を明確に狙う当たり、相当な手慣れかと思われます」
 作業着姿の男が俺を見て言う。
 その目は犯人はお前だろ!と言わんばかりに怒りが籠っていた。
「待て待て。俺は剣道はそこまで得意じゃないぞ。喧嘩も伍賀さんに勝てないくらいだし」
 と言っても、興奮状態の相手に通じる訳もなく。
 どうしたものかと、頭をぽりぽりと指で掻いていると、悲鳴が聞こえてきた。
 逃げてきた隊員がこちらを見て驚く。
「え、高島大尉?」
 開いた口が塞がらず、目を開閉し、俺を見つめていた。
「高島ですよ」
「ついさっき、あっちにいました、よね?」
 男は背後を指差す。
「いませんよ。ずっとここにいたからね」
 ハハッと自笑すると、ずっとここにいた二人が俺を見て、表情を申し訳なさそうに歪ませた。
 しまった!と言わんばかりの分かりやすい表情でよろしい。
「高島大尉、申し訳ありませんでした!!」
「人を斬っといて、返り血を浴びないことは難しいと思うよ」
 自分のワイシャツを摘まみ上げ、ニッコリと笑うと、二人はバツが悪そうに頭を深く下げた。
「さあ、俺にそっくりと言う奴に会いに行こう」
 そう言いながら歩き出すと、後ろに付いてきた伍賀さんが口を挟む。
「ドッペルゲンガーだったらどうする?」
「どっぺるなんちゃらって、害があるの?」
「会うと死ぬとか、死なないとか」
「会うと死んじゃうのかー。死んでいる俺はどうなるんだろうね」
だ。煙草、いる?」
 伍賀さんがズボンのポケットからタバコの箱とマッチを取り出した。
 前に出された煙草に対して、右手を軽く上げ、横に振る。
「だから、俺、生前から吸わない主義ですから」
 すると、伍賀さんはなにも答えない。
 不思議に思って振り返ってみると、こちらをじーっと見つめていた。
 不意に前から雫が落ちる音が聞こえた。

 ポタッ
 ポタッ

 それはあまりにも不自然なむせるほどの鉄臭さ。
 更に、殺気も加わることで肌を突き刺すように鋭く、冷たい空気に気付かぬふりをすることは到底できなかった。
 前を見ると、立ち竦む自分の姿。
 あまりにも姿形がそっくりなものだから、ゾワッと悪寒が全身を走った。
 相手は飛行服を纏い、右手には血で染まった太刀を握り、左手には斬りつけたのであろう血だらけの隊員。
 目元は飛行眼鏡を装着して、顔が見えにくいが、あれが俺であるのは間違いない。
「伍賀さん、どっぺるなんちゃら、いた」
「なんで片言なんだよ、貴様」
「……気持ち悪過ぎて」
 自分と同じ姿の人間が、目の前に立っている。
 気味が悪くないわけがない。
 更に言えば、明らかに悪いことをした自分の姿である。
 やはり気持ちが悪い。
 ぼそぼそと言葉が聞き取れない呟き、鉄のような血生臭さ、浴びた血は時間が経って黒くなっている。
 太刀の刃には伝い落ちる血。
 そして、血溜まり。
 自分の姿をしていなければ、恐怖の塊である。ホラー映画か何かだ。
「!」
 目が合う。
 真っ黒な瞳だ。深い闇の中に堕ちたような、光が入らない瞳。
 あれが自分とは、到底思えない。
 全くの別人である。
(何者なんだ)
 すっと、相手の足が動いた。
 その瞬間、痺れるような緊張が走る。
「何故だ」
 相手の口から出た声は己そのもの。
 それに気付いた瞬間、また全身が震えた。
「は?」
「何故、お前がをしているんだ」
「いや、それは俺の台詞……」
 左手で掴んでいた隊員を放り投げる。
 投げられた隊員は呻き声を上げながら、僅かに身動ぐ。
 作業着姿の隊員がその隊員の傷の深さを確認する。
 俺は、相手の太刀を握る手に力が入る瞬間を見逃さなかった。
 体に全神経を集中させる。相手がどんな動きをしようとも反応できるように。
「なあ、教えてくれよ」
 ゆっくりと、近づいて来る。
「何故、が俺に成り代わっているんだ?」
 その名前が耳に入った瞬間、心臓を一突きされたような気分だった。
「……え?」
 辛うじて出た言葉は短かった。出たというより、漏れたと表現する方が適切か。
 目の前にいるは、俺の前で止まった。
 まるで鏡のように瓜二つ。もし双子がいたら双子の方が似てないと思うほど、俺達は鏡に映る自分を見るように酷似し過ぎていた。
「広次」
「違う。俺は藤次だ。弟の、広次じゃない」
 思い切り頭を横に振る。
 しかし、相手は迷うことなく否定する。
「馬鹿を言うな。本人である俺が言うんだ。お前は偽物だ」
「違う!」
 どうなっている。
 何故俺が二人いるんだ。
 数分前の冷静だった自分が嘘のように、心を掻き乱されている。そのくらい目の前に自分の姿があるという事実は非現実で、身の毛もよだつ恐ろしいもの。
「お前が藤次だという証拠はあるのか?」
「証拠……?」
 そんなもの、どうやって証明するんだ。
 証拠もなにもあるわけがないじゃないか。
「ああ、そうか」
 目の前の俺が、妙に納得したような表情を浮かべた。
「お前、
 心の中で、ピシッと音を立てて亀裂が入る音がした。
 自身の時間が止まる。
「なにを、言ってるんだ……」
 得体の知れない男の言葉が理解できない。
 この男が誰なのかも。
 その時、
「そのままの意味だよ、高島隊長」
 それは伍賀さんの声だった。
 思わず振り返ると、伍賀さんは涼しい顔で俺を見ていた。
 周りがザワザワしている。
「隊長、本当に己が高島藤次だと思ってるの?俺、前から気づいていたんだよね。隊長は言ったよね。『生前からタバコは吸わない』て」
 伍賀さんが、伍賀さんに、見えない。
「生前の藤次は、煙草を吸うんだよね。所謂、ヘビースモーカーっていう奴?」
「やめろよ! そんな冗談笑えないだろ!? 今は、あの血だらけの男をなんとかしなきゃ……」
 必死だった。
 どうしても問題の焦点をすり替えたかった。
「確かにね。隊員殺し……じゃないね、俺たちは死なないから。隊員傷害事件とは、なんとまあ、酷い事をしてくれるよねーー藤次」
 意識が吹っ飛ぶかと思った。
 何故アイツを俺の名前で呼ぶのか。
 それじゃあ、俺が高島藤次じゃないみたいじゃないか。
 伍賀さんに、俺は高島藤次だと認知されていないことに動揺する。
 体が強張る。
 打つ鼓動の音が、煩い。
「伍賀、さん……」
「やあ」
 伍賀さんの口角が釣り上がる。
「広次クン。なんだい?」
 今までの伍賀さんの笑顔じゃないみたいだ。
 俺の知らない笑顔。

(やめてくれッーー)

「俺を弟の名前で呼ぶなよ!!!!」
 全身で叫ぶ。
 肩で息をしていると、〝藤次〟はニヤリと笑った。
「まだ自覚してないのか? 君は口の悪い、高島広次。俺の弟だ。まあ、本当に
 周りにいる人たちが、俺を見ているのが分かる。
 その視線は、酷く冷たく、そして痛い。
 全員を敵に回し、全員に拳銃を突きつけられている気分だ。
 敵は、あの〝藤次〟なのに。
 俺じゃないのに。
 俺は、誰も殺してない。
 あっちの〝藤次〟が殺したのに。
 仲間を傷つけるクソ野郎より、俺が高島藤次じゃないことが重大な問題なのか。
(俺の存在が
 分からない。
 頭を占めるのは、これだけ。
「ずっと……頭の中に声が聞こえるんだ。『コロセ、コロセ』てね」
 嘲笑するかのような笑み。
「これを言ってるのは広次じゃないの? 広次が俺を操ってるのかな? それとも、広次がにそうお願いしているのかな」
「馬鹿な……!!」
 〝藤次〟の言葉に、侮辱されているような気分に陥る。
 しかし、周りからの冷ややかな視線を浴びて、これ以上口が動かない。

「本当なのか?」
(違う)

「じゃあ、あの偽物が仲間を切りつけたのと同じ意味じゃないか!」
(違う)

「隊長に血が付いてるのも、全部この偽物が隊長に命じたか」
(違う!)

「俺達を初めから騙していたのか?」
(違うんだ!!)

 いろんな推測。
 全てがデタラメだ。
 でも、声を出して否定できない。
 伍賀さんの言葉がグサリと胸を突き刺さり、声を出そうとすると傷付いた胸が痛んで声にならない。音にならない空気が漏れる。
 その時、
「高島さん……?」
 群衆から、女性の声がした。
 こんな場面に一番相応しくない彼女がいると分かった途端に体が震える。
「九藤、さん」
 声の主の名を呼ぶことさえも、罪のように思えてきて、息苦しい。
 視線を落とし、一瞥すら彼女を見ることができない。
「あの……血が……」
 〝藤次〟を見たのだろう。
 恐怖で声が震えていた。
 あんな姿を見て怖くないわけがない。
 すると、金属の甲高い音が聞こえた。
 音につられて顔を上げると、〝藤次〟の傍らに太刀が転がっている。手は太刀を離していた。
「あぁ」
 〝藤次〟の目は九藤さんに釘付けだった。
 嫌の予感がする。
 その目は異性を見る獣の目だ。
「九藤さん。聞いてくれよ」
「ちょっと待って。高島さんが二人って」
 九藤さんに近づいた〝藤次〟は、彼女の肩をぎゅっと握った。
「この偽物が俺に成り代わろうとしてるんだ」
「え?」
「しかも、俺に仲間をコロセと命令するんだ」
「嘘を言うな!!」
 そう叫ぶと、周りの視線が集まる。もちろん俺を萎縮させるような冷ややかなもの。そして、罵倒にも似た言葉が飛んでくる。
「お前が言うな!」
「こいつの言うことは信じちゃ駄目だ」
 終わった。
 全部終わった。
 信じてもらえるわけがない。
 俺が本物なのに。
 俺はなにもしていないのに。
 殺してなんかない。殺してなんか。
(俺と同じ声で、なにも言わないでくれ)
 口を動かすこともできなかった。
「俺の居場所をこいつが奪ったんだ。俺はなにもしてないのに、酷いよね?」
 こいつとは、俺のこと。
「弟の広次って言うんだ。同じ面、体、声で俺に成り代われると、本気で思っちゃったのかな? 頭の悪い奴」
「高島さん……」
 もう、やめてくれ。
 俺の存在を、否定しないでくれ。
(くそっ、くそっ、くそぉ……)
「じゃあ、藤次さんと広次さんは双子ってこと?」
「違う違う。双子ではないよ。広次が俺の真似をしてるってこと」
 〝藤次〟が九藤さんの体を撫でるように触れる。
 汚い。
 汚い汚い汚い!!
(汚い手で彼女に触るな!!)
「おい! 九藤さんに触るな!!」
 無我夢中だった。
 叫ぶと、〝藤次〟は不気味に笑った。そして、俺を挑発するように、九藤さんの腰に手を回す。
「この子、可愛いよね」
「いいから触るなよ!!」
 ピトッと体と体を合わせる。
 〝藤次〟は九藤さんの頭に頰づりをするように、顔を寄せた。
 俺は駆け寄って、彼女から離そうとするが、伍賀さんに止められる。
「伍賀さん! 離してください!」
「広次クン、落ち着け」
 その名で呼ばれる度に、全身の力が抜けていくような錯覚がした。
 しかめっ面をする彼女に気づいてか、はたまた俺が煩いか、〝藤次〟はすんなりと彼女から離れた。
 そして〝藤次〟が触ったことで彼女の体に残る、血。
 嫌な気分だ。
 でも、九藤さんから離れてくれたことに安堵を覚える。
「な~んてな」
 背中がゾクッとする声がして、〝藤次〟を見た瞬間、
「ん」
 彼女は色っぽい声を漏らした。
 〝藤次〟は、九藤さんの体を拘束し、顎を抑え、そして。
 唾液が絡み合う音を漏らす。
「んん、ん」
 男と女が、絡み合う姿を、見せつけられた。
「んー! んん、ん」
 九藤さんは手で彼を離そうとする。
 しかし、その細い腕では太刀打ちできない。
「ッはっ、あ、ん」
 一瞬の解放。
 そして、すぐに犯される口。
「やめろ……」
 見たくない。
「やめてくれ……」
 見たくない。
「ちせちゃん……ッ!!」
 悲鳴にも似た声で彼女の名前を叫び、伍賀さんの腕を振り切り、俺は〝藤次〟へ一直線に走った。
 俺が偽物でもなんでもいい。
 でも、九藤さんのこんな姿を見たくない、声を聞きたくない。
 あんな女の顔も、声も、違う誰かに支配されてる姿を見せられるのは御免だ。
「〝藤次〟ぃぃぃいい!!!!」
 叫ぶと、〝藤次〟はこちらを見て笑った。
「認めたな」
 そう言って、さっと九藤さんを盾にしてきた。
 すかさず足を止め、振りかざしていた腕も下ろすしかなかった。
 今、目の前にいるのは、顔を朱色に染めた女。目にうっすらと涙を溜め、唇も相手の唾液で潤っている。
「俺が偽物でもなんでもいい! だが、九藤さんには手を出すな!! 彼女は全く関係がないだろ!!」
 彼女の背後に立つ〝藤次〟は、九藤さんの体を弄るような触れていた。
 蛇のような手つきで、彼女の胸に向かっていく。
「いや、いやぁ……」
 九藤さんは今からどんなことをさせられるのか分からない恐怖からか、体を震わせていた。
「伍賀さん! あなたのお孫さんがこんなことになっているのに、なにも感じないんですか!?」
 叫びながら伍賀さんの顔を見ると、彼はただ〝藤次〟を見ていた。
「クソッ!! 手を離せ!!」
 普段は孫孫孫孫言っているくせに、薄情すぎるだろ。
「広次、この子、好きなんだ」
「煩え!!」
「可愛いもんね。分かるよ」
「黙れ!!」
「小鳥みたいな接吻に声。男には可愛くて堪らないよね」
「今すぐその口を閉じろ!!」
 頭に血がのぼる。

「犯したくなるよね?」

 あり得ない言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。
 たった一言が強力な凶器となって、心を裂く。
 しかし、それは九藤さんが一番聞きたくない言葉だ。
「ぇ……」
 彼女の顔がみるみるうちに青白くなっていく。
「広次はもうヤったんだろ? じゃあ、二番手は俺がもらってもいいよね?」
 狂ってる。
 人を傷つけて、次は女を犯すのか。
「え? もしかしてまだヤってないの? ハハ!じゃあ、一番は俺が貰うね。だって、お兄ちゃんだからね。さすが俺の自慢の弟」
 俺の表情を見て、〝藤次〟は笑う。
 全て分かっていて言ってるんだ。
「や」
 やめろ、そう言いかけた時だった。

 パンッ

 一発、銃の音が鳴り響く。
 その音は、全ての者の気を引き、嫌な空気をも一転させる。
 ガヤガヤと騒いでいた群衆も静まり返る。
 誰も一言も発しない。いや、発せない。
 そして。

「さあ、茶番は終わりだ」

 伍賀さんは振り上げていた拳銃を下ろす。
 俺が気づかないうちにスライドを引き、引き金を引いたのは、もちろん伍賀さん。
 彼の顔はいつも以上に引き締まっていた。
 拳銃の矛先は、俺に向けられる。
「伍賀さん……」
 目が点になる。
「次に撃つ弾は小秋ちゃん特製でね。らしいんだ」
 俺に銃口を向けたまま、伍賀さんは話を続ける。
「要はあれだ。我々の存在を一発で無に帰してくれる特効薬だな」
「俺を、消すんですか?」
 声を振り絞る。
「高島藤次を名乗ったこと。どんな理由であれ、隊員傷害事件を本物に罪を犯させる、又は指示をする。立派な犯罪でしょ? この時の為に用意してくれた弾なんだから、ね」
「前もって用意するほど、かなり前から俺のことを高島藤次じゃないと疑ってたってことですか」
 もう笑うしかなかった。
 伍賀さんらしくない。
 大好きな孫にあんなことをされて、なに一つ口を挟まないどころか、無実な俺を殺すときた。
 あの伍賀さんが。
 生前も同じ部隊にいたのに。
「そういえば、広次クン」
 伍賀さんは静かな眼差しのまま俺を見ていた。
「藤次と同じ部隊になったことは、一度もないよ」
「は?」
「広次クンとなら、あるけどね」
(弟も、海軍航空隊に……?)
 初めて知った話だった。
「へー。広次も航空隊に入ってたのか。知らなかったな」
「…………」
 伍賀さんが俺を見ずに〝藤次〟を見ていた。
 もう伍賀さんにとっての高島藤次は俺ではないのは明白だった。
「痛ッ!」
 突然、〝藤次〟が叫んだ。
 と同時に、九藤さんが俺の方へ駆け寄ってくる。
 〝藤次〟は腕を抑えている。
 どうやら獰猛な女性に噛まれたらしい。
「状況が上手く飲み込めなくて、分かんないけど、わたしにとっての高島さんはこっちだから!」
 俺の前に立つ。
 それはまるで〝藤次〟から俺を守るように。思い上がりかもしれないけど、そんな風に思えた。
「九藤さん……?」
「わたしが知ってる高島さんは、人を傷つけたり、気持ち悪い手つきで触ったりしない! いつも相手のことを思ってる人!」
 泣き叫んでいるようにも聞こえる。
 九藤さんの言葉がすんなりと心に入ってきた。
「みんなはどうしてあっちの高島さんがいいの?」
「ちせ、どちらが良いとか悪いとかじゃない」
 伍賀さんは続けて口を開いた。
「まあ、確かに手グセは悪いよなー。じゃなくて。この世界に来て、最初から入れ替わってたんだよ。本物の藤次はどうすればいい?」
「それは……」
 九藤さんは口籠る。
「俺に居場所を返してよ。そしたら、頭の中の声も消えると思うんだ」
 〝藤次〟は笑う。俺に向かって、今までで一番の笑顔を。
。胸が、心が。高島藤次は二人もいらない。お前が広次ではなく、藤次だと言い張るんなら、お前は死ね。俺に藤次を返してくれ」
 血だらけの手で、胸元を抑える。
「お前が俺にやらせた罪も、お前が死ぬことで償われるだろう?」
 俺を見てきた。
 首が取れるくらい、首を横に振る。
「俺は最初から高島藤次として、この世界にいたッ。成り代わろうともしていない! 〝藤次〟に仲間を殺せと指示してもない! 信じてくれ!!」
 懇願するように九藤さんの目を見た。
 そして、九藤さんはくるりと身を翻し、膝を折った。
 目と目が合う。
「わたしは、人に成り代わるのは良くないことだと思う。でも」
 彼女の目に宿る芯の強さ。
「この高島さんが、今までここにいた高島さんで、人を傷つける人じゃない」
 九藤さんは俺の瞳を見つめ、そして微笑んだ。
「それに、高島さんの目を見ていたら分かるよ。嘘なんかついてない、て」
 そして、ゆっくりと俺の頭を撫でる。
 控えめに撫でているが、俺は恥ずかしくて視線を少し落とした。
「事情があるんだよ。一方的に話を聞かずに責めるなんて、責められた方が辛いよ」
 彼女の目にうっすらと涙が溜まる。
 きっと経験してきたことなんだ。
「事情? 本物の自分がいるのに、気づけば俺に成り代わっている人間がいる。居場所を奪っている人間がいる。そこにどんな事情があるってんだ? 許せるわけがないだろう!」
 〝藤次〟が抱える気持ちを叫んだ。
 居場所を奪っていると言われて、俺は気付く。
 自分が偽物である自覚はない。
 俺という人間の居場所は、確実に俺が築き上げもの。そこに嘘も偽りも糞もない。
 もう、俺が高島藤次でなくてもいい。
 だが、俺の居場所を奪うことは許さない。
「どんなことを言われたって、なにも知らない! もし本当に高島藤次がお前なのだとしても、俺が広次なのか、どうして高島藤次の姿をしてるのか、本当は何者なのか、全部分からないんだ!!」
 俺は、思ったことを口に出した。これが全てだ。
「この人はなにも覚えていないのに、どうしてこの人が全ての原因みたいな言い方をするの? なにもしてない。みんなと同じように訓練したり、ご飯食べたり、寝てるだけなのに、自分の意思で悪い事をしたわけじゃない」
 九藤さんが俺の仲間である群衆に訴える。
 俺達を囲むように立つ群衆は、少しばかり鋭い視線を緩めた。
 九藤さんは俺の首元にネックレスの紐に気づくと、すっと綺麗な青い石を服から出した。
「わたしが知ってる高島さんは、この人。わたしが初めてプレゼントを贈った、この人だよ」
 この贈り物の気持ちを強く感じる。
 嬉しいと、率直に思った。
「茶番は終わりだって、言ったよね」
 伍賀さんは溜め息混じりに言った。
 その目は酷く冷たい。氷のように、石のように、無機質だった。
 そして、伍賀さんは俺に向けて、再び銃口を向ける。
「お願い! 撃たないで!! わたしのおじいちゃんなんでしょ!? 孫のお願いを聞いてよ!! 撃ったら駄目!!」
 九藤さんは立ち上がり、両手を広げる。
(俺は、なにをしているのだろう)
 必死になって九藤さんは伍賀さんに拳銃を下ろすように訴えている。
(女性に、なにをさせているんだ)
 双眸から大粒な涙を流す彼女の肩に、ぽんっと手を置いた。
 彼女は俺を見た。
 瞬きをする度にぽろぽろと雫を落としながら。
「ありがとう」
「なにを、言ってるの……?」
「俺さ、どうしてこの世界に来たのか、分からないんだ」
 九藤さんは黙って俺の話を聞いてくれる。
「生前の未練や想いを果たすことで、この世界から消えて、前に進むことができる」
 伍賀さんは黙ったまま、また銃を持つ手を降ろしてくれた。呆れたように溜め息をしながら。
「でも、俺は生前の未練もないし、強い想いも抱いてない。何故ここに来たのかも分からなければ、前に進むきっかけがなにかも分からない」
「それはまだ気づいてないんだよ!」
 彼女の目は、死なないでくれと訴えているように見えた。
「俺が本当は何者なのかさえも分からない。それなら一層のこと伍賀さんをと思う」
 そう言って微笑むと、九藤さんは俯いて、俺のシャツをぎゅっと握りしめてきた。
「意味分からない。死んじゃうんだよ?」
「一度は死んでるけどね」
「いなくなっちゃうんだよ?」
「そうだね」
「みんな、寂しいよ」
「本当にそうかな?」
「あまり話とかできなかったけど、やっぱり誰かが死ぬのは嫌! 目の前で死ぬとか、もっと嫌!! やめてよ……諦めないでよ」
 しがみ付くように、彼女は俺を放そうとしない。
 俺は、怖がらせないように、そっと頭の上に手を乗せた。
「その言葉は、自分自身に言ってあげてね」
 彼女はハッとした様子で俺を見上げていた。
「俺も貴女が死ぬのは見たくないよ」
「……」
「九藤さん、死のうと高い場所から飛び降りて、こっちに来たんでしょ?」
「……うん」
「こっちに来たばかりの九藤さんを驚かせてしまって、があったけど、貴女は謝罪の意を込めてこれをくれた」
 青い石を九藤さんに見せるように持つ。
「優しい君が死ぬところは、絶対に見たくないな、俺は」
「まだかーい」
 伍賀さんが気だるそうに言う。
「じゃあね」
 手を横に振る。
「待って!」
「大丈夫」
 一言言うと、九藤さんはまだ言いたそうな顔をしていた。
 だから、俺は彼女の肩をポンポンと二回叩いた。力を抜いて、と。
 俺は首元のボタンを開けながら、九藤さんより前に出る。
 襟がだらしない姿になり、伍賀さんは片眉を寄せた。
「最期で締めないところが、広次クンらしいな」
「苦しまずに逝かせてくださいね」
「ジジイは手先が震えるから、手元が狂っちゃうかも」
「またまた。ご冗談を」
 改めて銃口を向けられる。
 心臓が鳴る。
 緊張するのか、体も硬直する。
 喉が渇いた。
 口の中も唾が出てこなくて渇いている。
 死ぬのはこれで二回目。
 でも、戦って死ぬのと、ただ無抵抗で殺されるのは心の持ちようがかなり異なってくる。
 九藤さんの声が聞こえる。
 が、近寄ってくる気配はない。
 恐らく、隊員の誰かに拘束されているのかもしれない。だが、それで良い。弾が当たってしまわないように押さえてくれるのなら。
「じゃあな、広次クン」
 拳銃の引き金を引く人差し指が動く。
「広次、お前は自由で羨ましい」
 ずっと様子を見ていた〝藤次〟が呟くのを見逃さなかった。
 その声があまりにも本音を言っているように聞こえ、今まで見ていた〝藤次〟の姿に違和感が拭えない。
(兄、さん?)
 一発の発砲音が響き渡った。
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