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第二話

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「やーん、寝坊! 駅まで送ってー!」
「ったくしょうがねぇな。早くしろよ」
 衣装が入ったガーメントバッグと、楽屋道具と楽譜を入れたキャリーケースも抱えて助手席へ乗り込んでくる。
 片手にはブラシを持ったままで、シートベルトを締めてすぐ左右の耳を交互に抱えて丁寧にブラシを滑らせる。俯くうなじには事故を防ぐためのプロテクトシールが貼られていた。
「痛っ」
「どうした」
「太腿の下、何か刺さった。……ピアスだ」
ウサギの手の上にころんとキャッチのないピアスが転がった。
「何人目の妹のものかは、もはやわからん。捨ててくれ」
「そのどこまでも冷静に『妹』って言い張る根性だけは素晴らしいと思うよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
軽快にハンドルを操り、改札の真ん前まで車を乗りつけてやると、ウサギは「ありがとっ」と言って助手席から飛び出した。
「俺、今日は当直。しっかり鍵を掛けていい子にしてろよ」
「ふうん。妹さんによろしく」
「違うっつってんだろ、そのでかい耳でよく聞きやがれ、ウサギ!」
「僕の耳は音楽を聴くために鍛えてるんだもーん。じゃあね」
バタンとドアを閉めるとぴょんぴょん飛び跳ねるようにして改札へ駆け込んで行き、すぐエスカレーターに乗ってその姿は見えなくなった。
 黒豹もロータリーを半周して抜け、勤務先の大学病院へ向かう。
 アルファの体力だからこなせているだけで、研究と臨床の両輪はなかなかのハードワークだ。それでも患者さんの人生の一助になりたい、その一心で白衣を着る。
 机の上に積み上げられた診断書にサインしつつ、受け持ち患者の電子カルテと一晩分の看護記録を見て、回診の順番を組み立て、タイミングを計る。
「朝カンファ始めまーす」
声が掛かって、飲みかけのコーヒーを片手に立ち上がった。



 ピアニストと言っても、世界を飛び歩くほどの規模ではなく、オメガの体力に見合う範囲内で、赤ちゃんとお母さんのためのコンサートや、お昼のロビーコンサート、結婚披露宴の生演奏、レストランやバーのライブ演奏などの仕事を請け負っている。
 今日は小学校でのミニコンサートで、子どもたちが飽きないよう、途中で楽しく歌ったり、踊ったり、手拍子したりする曲もプログラムに組み込んだ。
 学校でのコンサートのあとは給食をごちそうになれるのも楽しみの一つで、今回は三年生の教室へ案内されて、あらためて自己紹介をする。
「ピアニストのウサギといいます。みんなと同じようにちゃんと人間らしい名前もあるんだけど、一緒に住んでいる黒豹に、毎朝毎晩本当の名前を忘れそうになるくらい『ウサギ!』って呼ばれているので、ウサギって名乗っています」
 ニコニコ挨拶をして「4班の席へどうぞ」と案内してもらい、子どもたちを見渡す。獣人の子が一人いて、つい親しみのこもった眼差しを向けつつ、子どもたちに声を掛ける。
「ピアノって習ったことある? 楽器のお稽古に通う人って、今は少ないのかな?」
「僕、三味線習ってる!」
「お三味線? かっこいいねぇ!」
最初はこちらのペースで会話できるが、すぐに子どもたちから質問が飛ぶ。
「先生、何歳?」
「二四歳。先生じゃないけど」
「結婚してる?」
「してないよ」
「オメガなのに、アルファがいないの?」
「い、いないねぇ」
「いい匂いしないの?」
「どうなんだろう? 自分ではわからないから」
「早く結婚したほうがいいのにね。赤ちゃん産むのも育てるのも体力が必要だから、若いほうがいいんだよ!」
「そっか。そうかもしれないねー」
ウサギは笑顔で牛乳パックのストローを噛み潰した。



 そして結局、その苛立ちは黒豹に向く。
「なんで小学三年生にそんなアドバイスされなきゃなんないわけ? 結婚? 出産? 子育て? はんっ! 僕にそんなことできると思ってんのか!」
風呂上がりのリビングルームでパイル地のショートパンツからまだ湿っている白くて丸いしっぽとほっそりとした脚を出し、ターバンで垂れ耳の水分を吸い取りながら缶チューハイをグビグビ飲む。
「はいはい」
「はいはいってどういうこと? それはさぁ、僕が結婚に向いてないって言いたいの? 家事とか出産とか子育てとかできない奴って思ってるってこと?」
 同じく風呂上がりの黒豹はTシャツにハーフパンツ姿で床にあぐらをかき、ローテーブルの上に置いたノートパソコンを打つ手を止めて、水滴がついたハーフリムの眼鏡越しにウサギを見た。
「少なくとも炊飯器と食洗機と風呂の湯沸かしのボタンを押す、生協から届いた食材を冷蔵庫に入れる以外の家事は壊滅的だろうが。てめぇのパンツくらい、てめぇで洗え!」
「やればできるもん。やらないだけで。黒豹のほうが先に洗って干してくれてるだけじゃん」
黒豹は静かに息を吸って、吐いて、何も言わずに缶ビールを飲んだ。
「お前の出産や育児はお前のペースで決めればいいだろう。結婚だって自分のタイミングで決めればいい。他人にとやかく言われる筋合いはない。少なくとも俺は当面結婚しなくていい。今だって明日の抄読会の準備が終わってないのにこんな愚痴に付き合わされて。これがうるせえと怒鳴り飛ばすこともできない情の移ったつがいだの小さくて泣きわめく子どもだのが相手になったら、俺はマジでストレス溜め込みすぎて死ぬ」
「アルファのくせに、ストレス耐性なさすぎ」
「てめぇ、オメガのくせにって言われるのはこれだけ文句言うくせに、なんでそうやってすぐアルファのくせにとか言い出すんだよ、俺と六年も一緒に暮らしてて、アルファにどんな幻想抱いてんだ?!」
「さすがに六年も一緒に暮らしてたら、エロオヤジだという以外の認識はないけどねー。大学入学と同時に物件探しした挙げ句、突き指して診察してくれた整形外科のお医者さんのお家で暮らすって決まったときは、ちょーっとドキドキしちゃったけどー。一発目の屁音を聞いた瞬間に現実を知ったからもう全然平気!」
「屁をこいて何が悪い。腸がきちんと動いている証拠だ。屁が出なくて口から便臭がしたらイレウス疑ったほうがいいぞ」
黒豹の長いしっぽを持ち上げ、空気を切り裂くような爆音を轟かせると、ノックアウトされて床に倒れるウサギに向かって顔を突き出した。
「とりあえず俺に今日中にこのジャーナルを読ませろ! そして三分以内のパワポにまとめさせろ!」
 ノートパソコンに向かい、次々に論文を読み捨てていく黒豹の背中に寄り掛かって、ウサギは楽譜を何冊も広げる。
 同じ作曲家の同じ曲の楽譜だが、出版社が違っている。
「相変わらず楽譜だけ見て。そんなの何が面白いんだ?」
「校訂。表現に関する指示や指使いの違いを見るんだ。作曲者に近い人が校訂してるほうが信頼度は高いけど、現代の校訂も新解釈で悪くない。指使いによって音は変わるけど、自分の手の大きさに合うかどうかっていう問題もあるから、正解は一つじゃない。それを見比べて探っていく」
互いの背中には呼吸する膨らみと体温だけが伝わって、夜は更けていく。
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