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王立学園の卒業記念パーティーは、華やかさと喧噪に包まれていた。
色とりどりのドレスが舞い、楽団が優雅なワルツを奏でる。
だが、その空気は一人の青年の叫び声によって、瞬時に凍りついた。
「リリアンナ・フォン・エッシェンバッハ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
ホールの中央で声を張り上げたのは、この国の第一王子フレデリックだ。
金髪碧眼、絵に描いたような王子様だが、その顔は怒りに歪んでいる。
彼の隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミナが寄り添っていた。
周囲の令嬢たちが扇子で口元を隠し、さざ波のようにざわめく。
「まあ、ついに……」
「あの方、いつもミナ様を虐げていらっしゃいましたものね」
「あんなに恐ろしい目つきをされるご令嬢ですもの、当然の報いですわ」
視線が一斉に突き刺さる先には、一人の少女が佇んでいた。
リリアンナ・フォン・エッシェンバッハ。
公爵家の長女であり、その鋭い吊り目と愛想のない表情から『氷の悪女』と恐れられている存在だ。
彼女は、婚約破棄を突きつけられたというのに、眉一つ動かしていなかった。
それどころか、扇子の陰で懐中時計をチラリと確認し、小さく息を吐いている。
(ふむ。予定時刻より三分押し、ですか。殿下にしては巻きで頑張りましたね)
リリアンナにとって、この瞬間は『悲劇』ではない。
待ちに待った『業務終了』の合図だった。
彼女は優雅な所作で扇子を閉じ、パチンと小気味よい音を立てる。
そして、凍りついた空気を物ともせず、凛とした声を響かせた。
「──承知いたしました」
あまりにあっさりとした返答に、フレデリック王子の口が半開きになる。
「……は?」
「フレデリック殿下よりの婚約破棄の申し出、謹んでお受けいたします。これにて、我々の婚約関係は白紙に戻りました」
リリアンナは一切の淀みなく言い切ると、ドレスの隠しポケットから分厚い封筒を取り出した。
王子の呆気にとられた顔を無視し、彼女は事務的な手つきで封筒を開封する。
中から出てきたのは、涙を誘う手紙でもなければ、愛を乞う詩でもない。
数枚にわたる、羊皮紙の束だった。
「な、なんだそれは。往生際悪く縋りつくための手紙か? 今さら泣きついたところで……」
「いいえ、殿下。ご安心ください」
リリアンナはニッコリと微笑んだ。
ただし、それは愛しい人に向ける笑みではなく、商談相手に見せる営業用スマイルだ。
「これは、請求書です」
「せ、せいきゅう……しょ?」
「はい。本日の婚約破棄を持ちまして、私と王家との間で交わされていた『悪役令嬢業務』の契約が満了いたしました。つきましては、これまでの未払い分および、本日の演出料、ならびに慰謝料を一括で請求させていただきます」
シン、と会場が静まり返る。
楽団の演奏さえも止まってしまった。
フレデリック王子は、まるで異国の言語を聞いたかのような顔をしている。
「業務……? 演出料……? 何を言っているんだ、貴様は」
「おや、忘れてしまわれたのですか? ……ああ、失礼いたしました。殿下は鳥頭、いえ、過去を振り返らない前向きなご性格でしたね」
リリアンナは羊皮紙を一枚めくり、指先でトントンと叩く。
「十年前、私と殿下の婚約が結ばれた際、王妃様と宰相閣下立ち合いのもと、ある密約が交わされました。それは『将来、殿下が真実の愛を見つけた際、私が円滑に身を引くこと』、そして『それまでの間、殿下の恋を盛り上げるための障害役、すなわち悪役を演じること』です」
「なっ……」
「私はその契約に基づき、忠実に業務を遂行してまいりました。目つきを鋭くするための表情筋トレーニング、殿下のお相手を引き立てるための嫌味の語彙力強化、そして本日のような断罪劇での立ち回り。すべては、この瞬間のために積み重ねてきた努力の結晶なのです」
リリアンナの言葉は、あまりに堂々としていた。
周囲の生徒たちも、ポカンと口を開けている。
「嘘だ……! そんな契約、僕は聞いていない!」
「殿下が五歳の時、書類の端にサインをなさいましたよ。『お菓子あげるから名前書いて』と言われて」
「それは詐欺だろ!?」
「いいえ、契約は契約です」
リリアンナは冷徹に切り捨て、羊皮紙を王子の目の前に突きつけた。
そこには、恐ろしいほど細かく金額が記載されていた。
「では、内訳をご説明いたします。まず、基本悪役手当が十年分。これは物価変動を考慮し、年利五パーセントを加算しております」
「金利が高い!」
「次に、特殊技能手当。これには『食堂で足を出して転ばせる(未遂)』『教科書への落書き(代筆)』などの細かい業務が含まれます。特に、こちらの『殿下の自作ポエムを笑顔で褒める』という業務に関しましては、精神的苦痛が甚大でしたので、危険手当として三割増しとなっております」
「僕の詩を危険物扱いするな!」
フレデリック王子の顔が真っ赤に染まる。
だがリリアンナは止まらない。
彼女にとって、これは愛憎劇ではなく、未収金の回収業務なのだ。
「さらに、本日の『婚約破棄イベント』における演出協力費です。殿下の見せ場を作るため、わざわざ目立つ位置に立ち、照明の角度まで計算して罵倒を受け止めました。これには深夜・休日手当も加算されます」
「……き、貴様、本当に金のことしか頭にないのか」
「公爵家の娘として、経済観念は必須ですので」
リリアンナは澄まし顔で言い放つと、最後に一番下の数字を指差した。
「そして、こちらが今回の婚約破棄に伴う慰謝料です。一方的な破棄宣言による私の社会的信用の低下、および再婚活動への支障に対する補填となります」
その金額を見た瞬間、フレデリック王子の目が飛び出そうになった。
「はあぁぁぁ!? なんだこのふざけた桁は! 国家予算か!?」
「妥当な金額です。なにしろ私は、十年間という貴重な青春時代を、殿下のような……いえ、殿下のお守りに費やしたのですから」
リリアンナは言葉を濁したが、その瞳は雄弁に『この馬鹿』と語っていた。
隣にいたミナが、おずおずと口を開く。
「あ、あの……リリアンナ様? じゃあ、私への嫌がらせも、全部お仕事だったんですか?」
「ええ、そうですわミナ様。貴女が階段で躓いた時、絶妙なタイミングでクッションを投げたのも私。貴女のハンカチが風に飛ばされた時、殿下の進行方向に風魔法で誘導したのも私です」
「す、すごい……! 魔法ってあんな精密操作ができるんですね!」
「そこそこ練習しましたから。貴女が素直に引っかかってくださるので、仕事がやりやすくて助かりました」
リリアンナが感謝を述べると、ミナはなぜか頬を染めて「えへへ」と照れている。
状況が読めないヒロインに、フレデリック王子は頭を抱えた。
「ま、待て。待ってくれ。つまり貴様は、僕のことなどこれっぽっちも好きではなかったと?」
「はい」
即答だった。
食い気味と言ってもいい速さだった。
「好きどころか、殿下の女性の趣味の悪さと、壊滅的な色彩感覚、そして国民の税金で変な像を建てようとする浪費癖には、常々辟易しておりました」
「ぐふっ……」
精神的なダメージを受けた王子がよろめく。
しかしリリアンナは、倒れそうになる彼を支えたりはしない。
代わりに、請求書を彼の胸ポケットに素早くねじ込んだ。
「支払期限は一週間後となっております。王家御用達の銀行振込で結構ですので、遅延なきようお願いいたします。万が一遅れた場合は、遅延損害金が発生しますのでご注意ください」
仕事を終えた職人の顔で、リリアンナは一礼する。
その所作は洗練されており、皮肉なことに、どの令嬢よりも高貴で美しかった。
「それでは殿下、ミナ様。末長くお幸せに。私はこれにて失礼いたします」
「お、おい! 待て!」
王子の静止を振り切り、リリアンナは踵を返した。
(やった……! 終わった! 終わりましたわ!)
背を向けた瞬間、彼女の表情筋は歓喜で緩みきっていた。
十年。長かった。
来る日も来る日も、鏡の前で「ふふふ、お黙りなさい」と練習した日々。
王子の寒い詩集を読まされ、感想文を提出させられた日々。
それもこれも、すべてはこの日のため。
多額の慰謝料と手当、そして何より『自由』を手に入れるためだ。
(これで引退です。田舎に引っ込んで、可愛い猫と美味しいお茶に囲まれたスローライフが私を待っています!)
リリアンナの足取りは、羽が生えたように軽い。
彼女は会場の出口へと向かう。
その先に、とんでもない『追加イベント』が待ち構えているとも知らずに。
重厚な扉に手をかけた、その時だった。
「──おや。随分と鮮やかな手際だね、リリアンナ嬢」
頭上から降ってきたのは、低く、艶のある男の声。
背筋がゾクリと震えるような、甘くて危険な響き。
リリアンナは反射的に足を止め、視線を上げた。
そこにいたのは、出口を塞ぐように壁に寄りかかる、長身の男。
夜会服を完璧に着こなし、片眼鏡の奥で楽しげに目を細めている。
この国の宰相であり、王弟でもあるルーカス・フォン・グランツ。
国一番の切れ者であり、そしてリリアンナが最も苦手とする『腹黒魔王』その人だった。
「……宰相閣下」
「やあ。感動したよ。まさかあの馬鹿な甥っ子から、あそこまで毟り取るとはね」
ルーカスはクスクスと笑いながら、リリアンナに一歩近づく。
その一歩だけで、逃げ場がないと悟らせるような威圧感があった。
(まずい。非常にまずいです)
リリアンナの野生の勘が警鐘を鳴らす。
この男に関わると、ろくなことにならない。
「お褒めに預かり光栄です。ですが、私は急いでおりますので」
「急いでどこへ? 高飛びかな?」
「まさか。傷心旅行です」
「傷心? 君が? はは、面白い冗談だ」
ルーカスはリリアンナの逃げ道を塞ぐように、扉に手をついた。
いわゆる『壁ドン』だが、そこにときめきは一切ない。
あるのは、獲物を追い詰めた肉食獣の気配だけだ。
「君のような優秀な人材を、みすみす野に放つわけにはいかないな」
「……退職届は受理されたはずですが?」
「王家との契約はね。でも、僕との契約はまだだろう?」
至近距離で覗き込まれる、紫水晶のような瞳。
リリアンナは引きつりそうになる笑顔を必死に保ちながら、心の中で絶叫した。
(残業なんてお断りですーッ!!)
彼女のセカンドライフへの道は、どうやら前途多難な幕開けとなりそうだった。
色とりどりのドレスが舞い、楽団が優雅なワルツを奏でる。
だが、その空気は一人の青年の叫び声によって、瞬時に凍りついた。
「リリアンナ・フォン・エッシェンバッハ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
ホールの中央で声を張り上げたのは、この国の第一王子フレデリックだ。
金髪碧眼、絵に描いたような王子様だが、その顔は怒りに歪んでいる。
彼の隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミナが寄り添っていた。
周囲の令嬢たちが扇子で口元を隠し、さざ波のようにざわめく。
「まあ、ついに……」
「あの方、いつもミナ様を虐げていらっしゃいましたものね」
「あんなに恐ろしい目つきをされるご令嬢ですもの、当然の報いですわ」
視線が一斉に突き刺さる先には、一人の少女が佇んでいた。
リリアンナ・フォン・エッシェンバッハ。
公爵家の長女であり、その鋭い吊り目と愛想のない表情から『氷の悪女』と恐れられている存在だ。
彼女は、婚約破棄を突きつけられたというのに、眉一つ動かしていなかった。
それどころか、扇子の陰で懐中時計をチラリと確認し、小さく息を吐いている。
(ふむ。予定時刻より三分押し、ですか。殿下にしては巻きで頑張りましたね)
リリアンナにとって、この瞬間は『悲劇』ではない。
待ちに待った『業務終了』の合図だった。
彼女は優雅な所作で扇子を閉じ、パチンと小気味よい音を立てる。
そして、凍りついた空気を物ともせず、凛とした声を響かせた。
「──承知いたしました」
あまりにあっさりとした返答に、フレデリック王子の口が半開きになる。
「……は?」
「フレデリック殿下よりの婚約破棄の申し出、謹んでお受けいたします。これにて、我々の婚約関係は白紙に戻りました」
リリアンナは一切の淀みなく言い切ると、ドレスの隠しポケットから分厚い封筒を取り出した。
王子の呆気にとられた顔を無視し、彼女は事務的な手つきで封筒を開封する。
中から出てきたのは、涙を誘う手紙でもなければ、愛を乞う詩でもない。
数枚にわたる、羊皮紙の束だった。
「な、なんだそれは。往生際悪く縋りつくための手紙か? 今さら泣きついたところで……」
「いいえ、殿下。ご安心ください」
リリアンナはニッコリと微笑んだ。
ただし、それは愛しい人に向ける笑みではなく、商談相手に見せる営業用スマイルだ。
「これは、請求書です」
「せ、せいきゅう……しょ?」
「はい。本日の婚約破棄を持ちまして、私と王家との間で交わされていた『悪役令嬢業務』の契約が満了いたしました。つきましては、これまでの未払い分および、本日の演出料、ならびに慰謝料を一括で請求させていただきます」
シン、と会場が静まり返る。
楽団の演奏さえも止まってしまった。
フレデリック王子は、まるで異国の言語を聞いたかのような顔をしている。
「業務……? 演出料……? 何を言っているんだ、貴様は」
「おや、忘れてしまわれたのですか? ……ああ、失礼いたしました。殿下は鳥頭、いえ、過去を振り返らない前向きなご性格でしたね」
リリアンナは羊皮紙を一枚めくり、指先でトントンと叩く。
「十年前、私と殿下の婚約が結ばれた際、王妃様と宰相閣下立ち合いのもと、ある密約が交わされました。それは『将来、殿下が真実の愛を見つけた際、私が円滑に身を引くこと』、そして『それまでの間、殿下の恋を盛り上げるための障害役、すなわち悪役を演じること』です」
「なっ……」
「私はその契約に基づき、忠実に業務を遂行してまいりました。目つきを鋭くするための表情筋トレーニング、殿下のお相手を引き立てるための嫌味の語彙力強化、そして本日のような断罪劇での立ち回り。すべては、この瞬間のために積み重ねてきた努力の結晶なのです」
リリアンナの言葉は、あまりに堂々としていた。
周囲の生徒たちも、ポカンと口を開けている。
「嘘だ……! そんな契約、僕は聞いていない!」
「殿下が五歳の時、書類の端にサインをなさいましたよ。『お菓子あげるから名前書いて』と言われて」
「それは詐欺だろ!?」
「いいえ、契約は契約です」
リリアンナは冷徹に切り捨て、羊皮紙を王子の目の前に突きつけた。
そこには、恐ろしいほど細かく金額が記載されていた。
「では、内訳をご説明いたします。まず、基本悪役手当が十年分。これは物価変動を考慮し、年利五パーセントを加算しております」
「金利が高い!」
「次に、特殊技能手当。これには『食堂で足を出して転ばせる(未遂)』『教科書への落書き(代筆)』などの細かい業務が含まれます。特に、こちらの『殿下の自作ポエムを笑顔で褒める』という業務に関しましては、精神的苦痛が甚大でしたので、危険手当として三割増しとなっております」
「僕の詩を危険物扱いするな!」
フレデリック王子の顔が真っ赤に染まる。
だがリリアンナは止まらない。
彼女にとって、これは愛憎劇ではなく、未収金の回収業務なのだ。
「さらに、本日の『婚約破棄イベント』における演出協力費です。殿下の見せ場を作るため、わざわざ目立つ位置に立ち、照明の角度まで計算して罵倒を受け止めました。これには深夜・休日手当も加算されます」
「……き、貴様、本当に金のことしか頭にないのか」
「公爵家の娘として、経済観念は必須ですので」
リリアンナは澄まし顔で言い放つと、最後に一番下の数字を指差した。
「そして、こちらが今回の婚約破棄に伴う慰謝料です。一方的な破棄宣言による私の社会的信用の低下、および再婚活動への支障に対する補填となります」
その金額を見た瞬間、フレデリック王子の目が飛び出そうになった。
「はあぁぁぁ!? なんだこのふざけた桁は! 国家予算か!?」
「妥当な金額です。なにしろ私は、十年間という貴重な青春時代を、殿下のような……いえ、殿下のお守りに費やしたのですから」
リリアンナは言葉を濁したが、その瞳は雄弁に『この馬鹿』と語っていた。
隣にいたミナが、おずおずと口を開く。
「あ、あの……リリアンナ様? じゃあ、私への嫌がらせも、全部お仕事だったんですか?」
「ええ、そうですわミナ様。貴女が階段で躓いた時、絶妙なタイミングでクッションを投げたのも私。貴女のハンカチが風に飛ばされた時、殿下の進行方向に風魔法で誘導したのも私です」
「す、すごい……! 魔法ってあんな精密操作ができるんですね!」
「そこそこ練習しましたから。貴女が素直に引っかかってくださるので、仕事がやりやすくて助かりました」
リリアンナが感謝を述べると、ミナはなぜか頬を染めて「えへへ」と照れている。
状況が読めないヒロインに、フレデリック王子は頭を抱えた。
「ま、待て。待ってくれ。つまり貴様は、僕のことなどこれっぽっちも好きではなかったと?」
「はい」
即答だった。
食い気味と言ってもいい速さだった。
「好きどころか、殿下の女性の趣味の悪さと、壊滅的な色彩感覚、そして国民の税金で変な像を建てようとする浪費癖には、常々辟易しておりました」
「ぐふっ……」
精神的なダメージを受けた王子がよろめく。
しかしリリアンナは、倒れそうになる彼を支えたりはしない。
代わりに、請求書を彼の胸ポケットに素早くねじ込んだ。
「支払期限は一週間後となっております。王家御用達の銀行振込で結構ですので、遅延なきようお願いいたします。万が一遅れた場合は、遅延損害金が発生しますのでご注意ください」
仕事を終えた職人の顔で、リリアンナは一礼する。
その所作は洗練されており、皮肉なことに、どの令嬢よりも高貴で美しかった。
「それでは殿下、ミナ様。末長くお幸せに。私はこれにて失礼いたします」
「お、おい! 待て!」
王子の静止を振り切り、リリアンナは踵を返した。
(やった……! 終わった! 終わりましたわ!)
背を向けた瞬間、彼女の表情筋は歓喜で緩みきっていた。
十年。長かった。
来る日も来る日も、鏡の前で「ふふふ、お黙りなさい」と練習した日々。
王子の寒い詩集を読まされ、感想文を提出させられた日々。
それもこれも、すべてはこの日のため。
多額の慰謝料と手当、そして何より『自由』を手に入れるためだ。
(これで引退です。田舎に引っ込んで、可愛い猫と美味しいお茶に囲まれたスローライフが私を待っています!)
リリアンナの足取りは、羽が生えたように軽い。
彼女は会場の出口へと向かう。
その先に、とんでもない『追加イベント』が待ち構えているとも知らずに。
重厚な扉に手をかけた、その時だった。
「──おや。随分と鮮やかな手際だね、リリアンナ嬢」
頭上から降ってきたのは、低く、艶のある男の声。
背筋がゾクリと震えるような、甘くて危険な響き。
リリアンナは反射的に足を止め、視線を上げた。
そこにいたのは、出口を塞ぐように壁に寄りかかる、長身の男。
夜会服を完璧に着こなし、片眼鏡の奥で楽しげに目を細めている。
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「……宰相閣下」
「やあ。感動したよ。まさかあの馬鹿な甥っ子から、あそこまで毟り取るとはね」
ルーカスはクスクスと笑いながら、リリアンナに一歩近づく。
その一歩だけで、逃げ場がないと悟らせるような威圧感があった。
(まずい。非常にまずいです)
リリアンナの野生の勘が警鐘を鳴らす。
この男に関わると、ろくなことにならない。
「お褒めに預かり光栄です。ですが、私は急いでおりますので」
「急いでどこへ? 高飛びかな?」
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「傷心? 君が? はは、面白い冗談だ」
ルーカスはリリアンナの逃げ道を塞ぐように、扉に手をついた。
いわゆる『壁ドン』だが、そこにときめきは一切ない。
あるのは、獲物を追い詰めた肉食獣の気配だけだ。
「君のような優秀な人材を、みすみす野に放つわけにはいかないな」
「……退職届は受理されたはずですが?」
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