悪役令嬢の契約期間が終了です!優雅に高飛びします!

ちゅんりー

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「僕との契約? なんのことかな、リリアンナ嬢」

至近距離で囁かれたルーカスの声に、リリアンナの心拍数は跳ね上がった。

ただし、それは恋のときめきではなく、予期せぬトラブルに対する警戒アラートだ。

「とぼけないでください、宰相閣下。貴方様ほどの古狸……失礼、切れ者が、この事態を把握していないはずがありません」

「おやおや、人聞きの悪い。僕はただ、可愛い甥っ子の門出を祝いに来ただけだよ」

ルーカスは悪びれもせず、楽しげに目を細める。

その笑顔は、獲物を前にした猫のように無邪気で、残酷だ。

リリアンナは瞬時に計算する。

この男を論破してここを通るのに要する時間と、別ルートへ迂回する時間。

どちらがより効率的か──。

しかし、彼女の思考は、背後からの怒声によって遮断された。

「リリアンナ! まだ話は終わっていないぞ!」

ドカドカと足音を立てて戻ってきたのは、先ほど請求書を突きつけられたフレデリック王子だ。

彼は真っ赤な顔で、リリアンナの肩を掴もうと手を伸ばす。

だが、リリアンナは最小限の動きでそれを回避した。

「殿下、お触りになるなら追加料金が発生しますが?」

「金の話はやめろ! 貴様、反省していないのか!」

「反省?」

リリアンナは小首を傾げる。

「しておりますよ。十年間の拘束時間に対し、初期設定の単価が安すぎたと猛省しております。次回からはもっと強気な価格設定にするべきだと、痛感しているところです」

「そうじゃない! 僕への愛とか、十年の思い出とか、そういう情緒的な話をしているんだ!」

「情緒でパンは買えません」

即答。

清々しいほどの即答に、周囲のギャラリーから「おお……」と感嘆の声が漏れる。

フレデリック王子は言葉を詰まらせ、わなわなと震えた。

「き、貴様……仮にも公爵令嬢だろう! その優雅なドレスを着て、恥ずかしくないのか!」

「ドレス?」

リリアンナは自分の身を見下ろした。

深紅のベルベットに、華美な金糸の刺繍。

悪役令嬢としての威圧感を出すためだけに作られた、重くて暑苦しい特注品だ。

「ああ、そうでした。ご指摘ありがとうございます」

リリアンナはポン、と手を打つと、いきなりドレスの肩口に手をかけた。

「おい、何を──」

「業務終了ですので、制服を返却いたします」

ジャリッ、と布の裂けるような音が響いた。

会場中が悲鳴を上げそうになった瞬間、リリアンナの体がくるりと回転する。

すると、重厚な深紅のドレスが、まるで脱皮するように彼女の体から滑り落ちた。

「──ふう。やっと肩の凝りから解放されました」

ドレスの下から現れたのは、下着姿──ではない。

動きやすさを重視した、シンプルなパンツスタイルの乗馬服だった。

しかも、腰には革のベルトポーチ(全財産入り)まで装着している。

「な、なんだその格好は!?」

「帰宅用の私服ですが、何か? これなら馬で走っても裾が絡まりませんし、塀を乗り越えるのも容易です」

リリアンナは足元のヒールも脱ぎ捨て、懐から取り出したペタンコの革靴に履き替える。

その手際の良さは、まさに熟練の早業だった。

「ちょ、ちょっと待ってください師匠!」

人垣をかき分けて、ミナが目を輝かせながら飛び出してきた。

「今の早着替え、どうなっているんですか!? 留め具の構造が知りたいです! 筋肉の動きだけで外しましたよね!?」

「ええ。背筋に力を入れるとホックが弾け飛ぶ仕組みになっています。あとで設計図を送りますわ」

「ありがとうございます! 一生ついていきます!」

「ミナ! 感心している場合か!」

フレデリック王子が叫ぶが、リリアンナはもう彼を見ていなかった。

彼女はポーチから懐中時計を取り出し、時間を確認する。

「おっと、無駄話をしている間に退社予定時刻を三分も過ぎてしまいました。これ以上の残業は、私のポリシーに反します」

リリアンナは床に脱ぎ捨てたドレス──もとい『悪役令嬢の抜け殻』を指差す。

「そのドレスは処分しておいてください。リサイクル料は請求書に含まれておりますので」

「待て! 逃げる気か!」

「人聞きが悪いですね。定時退社です」

リリアンナはキッパリと言い放ち、出口へと足を向けた。

そこには、未だに壁に寄りかかったままのルーカスがいる。

彼は一部始終を見て、腹を抱えて笑っていた。

「くっ……あははは! 最高だね君は! まさか夜会の会場で『脱皮』する令嬢がいるとは!」

「お楽しみいただけたなら何よりです、閣下。では、そこをどいていただけますか?」

「嫌だと言ったら?」

「強行突破します」

リリアンナの目が、スッと細められた。

その本気の殺気を感じ取ったのか、ルーカスは「おっと」と両手を挙げて道を空ける。

「どうぞ。君の邪魔はしないよ。……今は、ね」

意味深な言葉を背中に受けながら、リリアンナは足早に会場を出た。

背後でフレデリック王子が「衛兵! 衛兵を呼べ! あの女を捕まえろ!」と喚いているのが聞こえる。

だが、遅い。

リリアンナは回廊を駆け抜け、あらかじめ手配しておいた裏口へと向かう。

(ここまでは計算通り!)

心臓が早鐘を打つ。

恐怖ではない。これから始まる自由への期待だ。

王宮の裏庭に出ると、闇に紛れるように一台の馬車が停まっていた。

御者台には誰もいない。

経費削減のため、リリアンナ自身が手配した無人の馬車──ではなく、馬だけを用意してある。

「よし、いい子ね」

彼女は慣れた手つきで馬に飛び乗った。

令嬢らしからぬ見事な騎乗姿勢だ。

「さようなら、私の黒歴史! こんにちは、スローライフ!」

リリアンナは手綱を振るい、夜の王都へと駆け出した。

風が頬を撫でる。

星空が広がる。

この十年間、常に『誰かに見られること』を意識して生きてきた彼女にとって、闇夜を疾走する解放感は何物にも代えがたいものだった。

目指すは隣国との国境付近、地図にも載らないような小さな村。

そこで誰にも知られず、畑を耕し、本を読み、静かに暮らすのだ。

(完璧です。慰謝料も確保したし、身の回りの荷物は先に送ってある。あとは逃げ切るだけ!)

リリアンナは勝利を確信し、馬の速度を上げた。

……しかし、彼女は一つだけ誤算をしていた。

それは、この国で最も厄介な男、ルーカス・フォン・グランツという存在が、一度興味を持った玩具をそう簡単に手放すはずがないということ。

そして、彼女の『完璧な逃亡計画』の書類が、なぜか宰相の執務机の上に置かれていたことだ。

王宮のバルコニーから、遠ざかる馬の蹄音を聞きながら、ルーカスはワイングラスを揺らしていた。

「逃がさないよ、リリアンナ」

彼は楽しげに呟き、月に向かってグラスを掲げる。

「君の請求書、まだ『宰相への精神的慰謝料』が含まれていないだろう?」

その瞳は、逃亡者を追い詰める狩人のように妖しく輝いていた。

こうして、悪役令嬢リリアンナの、優雅で壮絶な『高飛び』が幕を開けたのである。
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