悪役令嬢の契約期間が終了です!優雅に高飛びします!

ちゅんりー

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王都の夜道を、一頭の馬が疾走する。

その背で、リリアンナは勝利の笑みを噛み殺していた。

夜風が心地よい。

背後から追っ手の気配はない。

(完璧です。あの腹黒宰相閣下に目をつけられたのは計算外でしたが、物理的に距離をとってしまえばこちらのもの)

彼女が目指すのは、王都の一等地にあるエッシェンバッハ公爵邸──実家だ。

そこに立ち寄るのは、家族との涙の別れをするためではない。

旅の資金(現金)と、着替えを確保するためである。

「ハイッ! もう少しよ!」

リリアンナは馬を飛ばし、巨大な鉄柵の門をすり抜けた。

屋敷の庭に馬を乗り入れ、玄関前に滑り込むように停止する。

使用人たちが驚いた様子もなく、淡々と出迎えた。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

「旦那様と奥様は?」

「サロンにてお待ちです」

「話が早くて助かるわ」

リリアンナは手綱を使用人に放り投げ、屋敷の中へと駆け込んだ。

廊下を早歩きで進みながら、彼女は頭の中で計算する。

滞在時間は十分以内。

金庫から現金を回収し、あらかじめまとめておいた荷物を持って、裏口から出る。

これで高飛びの準備は完了だ。

「お父様、お母様! 戻りました!」

勢いよくサロンの扉を開ける。

そこには、優雅に紅茶を嗜む両親の姿があった。

父である公爵は、新聞から顔を上げもせずに言った。

「早かったな。予定より三分遅いが」

「道が混んでおりましたので。それより、報告があります」

「うむ。契約は?」

「無事、満了いたしました。こちらが成果物です」

リリアンナは懐から、王子にサインさせた『請求書の控え』と『契約終了証明書』を取り出し、テーブルに叩きつけた。

それを見た瞬間、母である公爵夫人の目が、宝石のように輝く。

「まあ! 素晴らしいわリリアンナ! 見てあなた、この請求額! 慰謝料に加えて、精神的苦痛の割り増しまで取れているわ!」

「でかしたぞ。さすがは我が娘だ。これで領地の借金……いや、事業拡大の資金繰りが一気に解決する」

父が満足げに頷き、母がうっとりと書類を眺める。

そこには、「娘が傷ついたかもしれない」という心配や、「婚約破棄されて可哀想」という情など、微塵も存在しない。

エッシェンバッハ家は、代々『感情』よりも『勘定』を重んじる家系なのだ。

リリアンナのドライな性格は、間違いなくこの両親譲りだった。

「お褒めに預かり光栄です。では、私はこれにて」

「どこへ行くつもりだ?」

「契約通り、ほとぼりが冷めるまで田舎へ引退します。慰謝料の半分は私の取り分として頂きますので、あしからず」

「半分? 強気だな。まあいい、お前の働きにはそれだけの価値がある」

父があっさりと許可を出したため、リリアンナは安堵の息を吐いた。

理解のある家族でよかった。

これで心置きなく高飛びができる。

「では、荷物を取ってまいります。……あ、そうだ。もし王家から問い合わせがあっても、『娘はショックで寝込んでいます』と嘘をついておいてくださいね」

リリアンナがウィンクをすると、母がおっとりと口を開いた。

「あら、リリアンナ。嘘はいけないわ」

「え?」

「王家の方なら、もういらしているもの」

母の視線が、部屋の奥──窓際のソファに向けられる。

リリアンナは凍りついた。

ゆっくりと、油の切れたブリキ人形のような動きで首を回す。

そこには。

「やあ。お帰り、リリアンナ嬢」

最高級のソファに深々と腰掛け、我が家のようにくつろぐ男の姿があった。

銀色の髪が、暖炉の火に照らされて揺れる。

片眼鏡の奥の瞳が、面白そうに三日月型に歪んでいる。

宰相、ルーカス・フォン・グランツ。

彼の手には、なぜかエッシェンバッハ家の帳簿が握られていた。

「な……ッ!?」

リリアンナの口から、淑女らしからぬ声が漏れる。

「な、なんで……なんでここにいるんですか!?」

「なんで、とは心外だな。君が馬でパカパカ走っている間に、僕は転移魔法で先回りさせてもらっただけだよ」

「魔法……ッ! 公私混同も甚だしいですわ!」

「これは公務だよ。国家の重要人物(君)の逃亡を阻止する、立派な公務だ」

ルーカスは悪びれもせず、パタンと帳簿を閉じた。

そして、リリアンナの両親に向かって優雅に微笑む。

「公爵、奥方。美味しい紅茶を感謝する。──さて、先ほどの話の続きだが」

「は、はい! なんでしょうか閣下!」

父が直立不動で答える。

娘に対する態度とは打って変わって、権力者に対するへりくだりが見事だった。

「お宅の娘さん、非常に優秀だ。計算高いし、肝が据わっているし、何より金に汚い。……実に、我が宰相府に必要な人材だと思わないか?」

「おっしゃる通りでございます! 娘の唯一の長所は、金勘定と腹黒さですので!」

「お父様!?」

リリアンナが抗議の声を上げるが、父は止まらない。

「殿下の婚約者としては愛想がなさすぎましたが、閣下の部下としてなら、これ以上ない働きをするでしょう! どうぞ、煮るなり焼くなり、こき使ってください!」

「お父様、娘を売りましたね!? 今、明確に売りましたよね!?」

「人聞きが悪い。ヘッドハンティングだ」

ルーカスが立ち上がり、ゆったりとした足取りでリリアンナに近づいてくる。

その圧迫感に、リリアンナは一歩、また一歩と後ずさりをした。

背中が扉にぶつかる。

逃げ場はない。

「さあ、リリアンナ嬢。再就職のお祝いだ」

ルーカスはリリアンナの目の前まで来ると、壁に手をついて彼女を閉じ込めた。

いわゆる壁ドンだが、その距離が近すぎる。

吐息がかかるほどの距離で、彼は甘く、低く囁いた。

「君には、僕の『私的補佐官』になってもらおうか」

「……お断りします」

リリアンナは冷や汗を流しながらも、気丈に睨み返す。

「私は田舎でスローライフを送るんです。朝は小鳥のさえずりで目覚め、昼は家庭菜園、夜は読書。そういう穏やかな生活が待っているんです」

「ほう。それは素晴らしい」

「わかっていただけましたか?」

「だが、君の慰謝料請求書には不備がある」

ルーカスは懐から、先ほどリリアンナが王子に突きつけた羊皮紙の写しを取り出した。

「ここだ。『その他、王家に対する一切の債権を放棄する』とあるが……君は一つ、大きな借りを残しているよね?」

「借り? そんな覚えはありません」

「あるさ。──十年前、君が王子の婚約者になった日。僕の靴を踏んで、『あら、ごめんなさい。目つきが悪くて足元が見えませんでしたの』と言い放ったことを」

リリアンナの記憶の引き出しが、ガタガタと音を立てて開いた。

(……あ)

思い出した。

あれは十年前。

まだ悪役令嬢としてのキャラ作りが定まっていなかった頃。

生意気盛りのリリアンナは、若き日のルーカス(当時から腹黒そうだった)に、マウントを取ろうとして足を踏んだのだ。

「あれは……不可抗力です」

「故意だったね。僕は痛みに敏感なんだ」

嘘だ。この男は絶対にMではない。ドSだ。

「その時の治療費と、十年分の利子。さらに精神的苦痛への慰謝料。……計算すると、君が王子からふんだくった金額と、ちょうど同額くらいになるかな」

「なっ……!?」

リリアンナは絶句した。

この男、言いがかりをつけて金を巻き上げる気だ。

しかも、その手口が自分と全く同じである。

「支払いは現金でもいいが、君の手持ちじゃ足りないだろう? だから、体で払ってもらうことにした」

「ご、語弊のある言い方をしないでください!」

「『労働』で返せと言っているんだよ。……さあ、どうする? このまま逮捕されて牢屋で暮らすか、僕の下で働いて借金を返すか」

究極の二択を突きつけられ、リリアンナは唇を噛んだ。

両親を見ると、二人とも「頑張れよ」と親指を立てている。

(この家族、後で絶対に絶縁してやる……!)

リリアンナは深呼吸をし、覚悟を決めたふりをして──。

「……わかりました」

がっくりと肩を落とす。

「観念します。閣下の補佐官でも何でもやりますわ」

「賢明な判断だ」

ルーカスが満足げに目を細め、壁に手をついたまま力を抜いた。

その一瞬の隙を、リリアンナは見逃さなかった。

「──なんて言うと思いましたか! バーカ!」

リリアンナは叫ぶと同時に、ドレス(乗馬服)のポケットから『閃光玉』を取り出し、地面に叩きつけた。

カッ!

強烈な光が部屋を満たす。

「ぐっ……!?」

さすがのルーカスも、これには目を覆った。

「お父様、お母様! 私の慰謝料は隠し金庫にありますから、勝手に使わないでくださいね! 行ってきます!」

「リリアンナ!?」

「逃げたぞ!」

光が収まると、そこにリリアンナの姿はなかった。

開け放たれた窓と、揺れるカーテンだけが残されている。

ルーカスは目をしばたたかせ、やがて低く笑い出した。

「……はは。閃光玉まで持ち歩いているとはね」

彼は窓辺に歩み寄り、夜の闇を見下ろす。

そこには、再び馬に飛び乗り、脱兎のごとく駆け去るリリアンナの姿があった。

「いいだろう。鬼ごっこの再開だ」

ルーカスは窓枠に足をかけ、楽しげに宣言する。

「精々逃げ惑うといい。──捕まえた時の楽しみが増えるだけだからな」

宰相閣下の目が、完全に狩りのモードに入っていることを、逃げるリリアンナはまだ知らない。
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