婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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「ただいま戻りました」


私が公爵邸の重厚な扉を開けると、エントランスホールにはすでに父と母、そして使用人一同が整列していました。


まるで出陣式のような重々しい雰囲気です。


無理もありません。王宮での夜会は、社交界における戦場。そこで何が起きたか、早馬ですでに情報は届いているのでしょう。


父であるヴァレンタイン公爵が、沈痛な面持ちで一歩前へ出ました。


「スカーレットよ……」


「お父様、申し訳ありません。貴族としての務めを――」


「よくぞ! よくぞ生きて帰ってきた!!」


父は私の言葉を遮り、クマのように大きな体で私を抱きしめました。


「うぐっ、苦しい、です……」


「王太子殿下から『婚約破棄』の急報が届いた時は、我が耳を疑ったぞ! まさかあの激務の監獄から、五体満足で釈放される日が来ようとは!」


父はボロボロと男泣きしています。


その背後では、母が扇で顔を隠しながら、感極まった声を上げました。


「ああ、よかったわ……。あの子、最近は目の下に隈を作って、寝言で『予算承認印を……』と呟くほど追い詰められていたものね」


「旦那様、奥様! お嬢様のご帰還、心よりお祝い申し上げます!」


執事長が号令をかけると、メイドたちが一斉にクラッカーを鳴らしました。


パーン! パーン!


色とりどりの紙吹雪が舞う中、私は呆然と立ち尽くします。


「……あの、皆様? 普通は『家名の恥だ』とか『この役立たず』とか、そういう反応をするものでは?」


「何を言うか!」


父が涙を拭いながら力説しました。


「我がヴァレンタイン家は、何よりも『健康と健全な労働環境』を重んじる家柄だ! 次期王妃という名のブラック労働を強いられる娘を見るのが、どれほど辛かったか……!」


「そうよスカーレット。わたくしたち、何度も王家に『娘の労働基準法違反では?』と抗議文を送ろうとしたのよ?」


なんと。


私が知らないところで、実家と王家の間で労使交渉が行われかけていたとは。


「ですがお父様。婚約破棄された以上、公爵家への風当たりも強くなるのでは?」


「ふはは! 心配無用!」


父は懐から分厚い帳簿を取り出しました。


「お前が王太子殿下の代わりに立て直した事業の利益配分、および独自の投資によって、我が家の資産は向こう三百年は遊んで暮らせるほど潤沢だ! 王家からの支援など不要! むしろ王家の方が我が家に頭を下げて借金している状態なのだからな!」


さすが私の父。抜かりがありません。


「つまり……私は、これより自由の身ということでよろしいのですか?」


「もちろんだとも! スカーレット、お前はもう誰に気兼ねすることなく、好きなだけ寝て、好きなだけ遊べばいいのだ!」


「お父様……!」


私は感動に打ち震えました。


ここには理解者しかいない。まさに理想の職場、いや実家です。


「では、お言葉に甘えまして。明日より予てからの計画通り、西の別荘にて長期療養(スローライフ)に入らせていただきます」


「うむ。西の別荘は温泉も出るし、気候も良い。ゆっくり静養してきなさい」


「ありがとうございます。出発は明朝、夜明け前を予定しておりますので、今夜はすぐに休ませていただきます」


「そんなに急ぐのか?」


母が心配そうに尋ねました。


私は一瞬、あの男――レオンハルト団長の顔を思い浮かべました。


『絶対に逃がさない』


あの不穏な宣言。そして『隣に別荘を買った』というストーカーまがいの行動。


グズグズしていれば、彼に補足され、平穏な睡眠ライフを脅かされる危険性が極めて高いのです。


「ええ、まあ……少しばかり、厄介な『追手』がいまして」


「追手だと!? 王太子か!?」


「いえ、もっとタチの悪い、物理的に最強の壁です」


「?」


両親は首を傾げましたが、私は詳しくは説明せず、挨拶もそこそこに自室へと引き上げました。


自室のベッドに飛び込んだ瞬間、至福の柔らかさが私を包み込みます。


(ああ……最高)


明日の朝には、ここを発つ。


そして二度と、王都の土は踏まない。


さようなら、書類の山。さようなら、ワガママな元婚約者。


そしてさようなら、勘違い騎士団長。


私は泥のような、しかし幸福な眠りへと落ちていきました。


***


翌朝。


まだ空が薄暗い、午前四時。


私は誰にも見送られることなく、忍びのように屋敷の裏口から抜け出しました。


身につけているのは、動きやすい旅人の服に、顔を隠すための深いフード。


荷物は最小限。残りは全て、すでに現地へ郵送済みです。


(完璧ね)


静まり返った屋敷の庭を、足音を忍ばせて進みます。


父たちの派手な見送りを受けると目立ってしまいますし、何よりレオンハルト団長に見つかるリスクが高まります。


彼が「迎えに来る」と言ったのは、おそらく社交辞令か、あるいは常識的な時間(午前十時頃)の話でしょう。


こんな早朝、しかも裏門に張り込んでいるほど、騎士団長も暇ではないはずです。


裏門の鉄柵が見えてきました。


あそこを抜ければ、手配しておいた辻馬車が待っている手筈です。


勝利の予感に、私の足取りは自然と軽くなりました。


ガチャリ。


裏門の鍵を、慣れた手つきで開けます。


錆びついた蝶番が、キーッとかすかな音を立てて開きました。


さあ、自由への第一歩――!


「――おはよう、スカーレット」


「ひぃっ!?」


門を開けた先に、山がありました。


いえ、山のように巨大な男が、腕を組んで仁王立ちしていました。


朝霧の中に浮かび上がる、銀色の甲冑と、爽やかすぎる笑顔。


レオンハルト・アイゼン騎士団長。


彼は片手になぜか、湯気の立つ水筒を持っていました。


「な、ななな、なぜここに!?」


私の悲鳴に近い問いかけに、彼は悪びれもせずに答えます。


「迎えに来ると言っただろう?」


「時間は言っていません! 今はまだ午前四時ですよ!?」


「ああ。君のことだ、どうせ夜明け前にこっそり発つつもりだろうと予測してな。三時から待機していた」


「三時!?」


この男、いつ寝ているのでしょうか。


というか、完全に私の行動パターンを読まれています。


「まさか、一睡もしていないのでは……?」


「昨夜は興奮して眠れなくてな」


「遠足前の子供ですか!」


思わずツッコミを入れると、彼は嬉しそうに目を細めました。


「さあ、乗ってくれ。私の馬車はクッション性がいい。移動中も快適に眠れるぞ」


彼が指差した先には、昨日見た豪華な馬車ではなく、長距離移動用に改造されたと思われる、頑丈で大きな黒塗りの馬車が停まっていました。


しかも、御者台には精鋭と思われる騎士が二名、直立不動で待機しています。


「あの、私は一人で気ままな旅を……」


「道中は山賊も出る。危険だ」


「私、これでも護身術は嗜んでおりまして」


「山賊より恐ろしい『熊』も出る」


「熊……」


「さらに、君を連れ戻そうとする『王太子の私兵』も出るかもしれん」


彼は一歩、私に近づきました。


その圧迫感は、確かに熊よりも脅威です。


「スカーレット。君がどうしても一人で行くと言うなら、止めはしない」


「ほ、本当ですか?」


「ああ。ただし、私は偶然同じ目的地に向かう旅人として、君の馬車の真後ろを、ピッタリと追走することになるが」


「それ、煽り運転と言いますのよ」


嫌がらせのレベルが違います。


辻馬車の後ろに、王宮騎士団長の馬車が張り付いてくる恐怖。御者が泣いて逃げ出す未来しか見えません。


私は深く、深く溜息をつきました。


ここで押し問答をして時間を浪費すれば、屋敷の者が起きてきたり、王都の門番に見咎められたりする可能性があります。


何より、この男の頑固さは、昨日の壁ドンで嫌というほど理解しました。


「……分かりました。負けましたわ」


私がフードを脱いで白旗を上げると、レオンハルト様はパァッと顔を輝かせました。


「賢明な判断だ。歓迎する」


彼は恭しく手を差し伸べ、私を馬車へとエスコートします。


その手つきは、まるで壊れ物を扱うように丁寧で、憎らしいほどスマートでした。


馬車の中に入ると、そこは確かに快適空間でした。


足が伸ばせる広さ、ふかふかの座席、そして毛布や枕まで完備されています。


さらに、小さなテーブルには温かい紅茶と、焼き立てのパンのバスケットが。


「朝食を用意させた。君はパン派だろう?」


「……なぜそれを?」


「以前、夜会で『米よりパンの方が片手で食べながら書類が見れる』と言っていたからな」


「私の発言、マニアックすぎませんか?」


彼は私の皮肉をスルーし、対面の席――ではなく、またしても当然のように私の隣に座りました。


「な、なぜ隣に?」


「道が悪くて揺れるからだ。支える必要がある」


「まだ動いてませんけど!?」


私の抗議も虚しく、馬車は静かに動き出しました。


薄明かりの中、遠ざかっていく公爵邸と王都の街並み。


本来なら、孤独で自由な一人旅の始まりだったはずです。


それがなぜか、国最強の騎士団長との「同伴旅行」になってしまいました。


隣からは、微かに柑橘系の香水と、革の匂いが漂ってきます。


そして、太腿が触れ合うほどの距離感。


(……落ち着かない)


私はパンを齧りながら、窓の外を睨みつけました。


これから西の国境まで、馬車で五日間の旅。


この調子で五日間も密室に二人きり?


私の「スローライフ」は、始まる前から前途多難な様相を呈していました。


「寒くないか? 毛布をかけよう」


「結構です!」


「そう言うな。寝顔が見たい」


「本音が漏れてますよ!」


賑やかな馬車は、朝日が昇る街道を西へとひた走ります。


こうして、私の「退職後の優雅な一人旅」改め、「騎士団長と行く、逃避行という名の新婚旅行(仮)」が幕を開けたのでした。
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