婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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太陽が西の山並みに沈みかける頃、私たちの乗った馬車は最初の宿場町に到着しました。


王都から離れること半日。


石畳は舗装されていない土の道に変わり、行き交う人々も煌びやかな貴族ではなく、素朴な旅人や商人ばかりです。


「ここが、下界……いえ、俗世……!」


私は馬車の窓に張り付き、目を輝かせました。


立ち並ぶ屋台、赤提灯のような灯り、そして肉が焼ける香ばしい匂い。


公爵令嬢として箱入り娘ならぬ「箱入り社畜」だった私にとって、この活気ある風景は異世界そのものです。


「スカーレット、窓から顔を出すな。危ない」


隣の保護者――もとい、レオンハルト団長が、私の肩を掴んで引き戻しました。


「危なくありませんわ。それよりレオンハルト様、今夜の宿はあそこがいいです!」


私が指差したのは、通り沿いにある木造の大きな宿屋『クマの休息亭』。


一階が酒場になっており、ガヤガヤと楽しげな笑い声が漏れています。


「あそこか? ……セキュリティに問題がありそうだ。壁も薄い。隣のいびきが聞こえるぞ」


「それがいいのです! 『喧騒の中で眠る』というシチュエーションこそ、真の安眠へのスパイスなのですから」


「……君の睡眠へのこだわりは、少々歪んでいるな」


レオンハルト様は呆れたように肩を竦めましたが、私の強い希望(という名の眼力)に折れたのか、御者に馬車を停めさせました。


私たちは馬車を降り、宿の扉をくぐります。


カランカラン、と軽快なベルの音。


「いらっしゃい! お食事? それともお泊まり?」


恰幅の良い女将さんが、カウンターから声をかけてきました。


私は一歩前に出て、颯爽と交渉を開始しようとしました。


「宿泊を希望します。部屋は二つ、もっとも静かな――」


「一部屋だ。一番広い部屋を頼む」


私の声を遮り、背後からレオンハルト様が重厚なバリトンボイスを響かせました。


さらに、彼はカウンターの上に金貨を一枚、チャリンと置きます。


女将さんの目の色が、金貨の輝きに合わせて変わりました。


「あ、あら~! 騎士様と……まあ、お綺麗な奥様! 一部屋ですね、ありがとうございます!」


「ちょっと待ってください! 誰が奥様ですか!」


私は慌てて抗議しました。


「私たちは夫婦ではありません! ただの……そう、偶然道中で一緒になっただけの、他人です!」


「ははは、照れるなよハニー」


「ハニー!?」


レオンハルト様が私の腰をぐいと抱き寄せました。


その腕の力強さと、至近距離で見下ろす甘い瞳に、店内の女性客から黄色い悲鳴が上がります。


「すまない、女将。妻とは喧嘩中でな。旅の疲れで機嫌が悪いんだ」


「まあまあ、新婚さんならよくあることよ。喧嘩するほど仲が良いって言うしねえ」


女将さんは生温かい目で見守っています。


誤解です。これは喧嘩ではなく、一方的な被害届の提出事案です。


私はレオンハルト様の腕の中で、必死に抵抗を試みました。


「嘘はやめてください! 部屋は二つです! シングル二つ! なんなら別館でも構いません!」


「残念だがスカーレット。この時間、空き部屋は一つしかないそうだ」


「女将さんにはまだ聞いていません!」


「いや、私の『勘』がそう言っている」


「騎士団長の勘を私物化しないでください!」


私は女将さんに詰め寄りました。


「女将さん、本当ですか? 本当に一部屋しか空いていないのですか?」


女将さんはチラリとレオンハルト様(と、カウンターの金貨)を見やり、それからニコリと笑いました。


「ごめんなさいねえ奥様。今日は商隊が多くて、本当に最後の一部屋なのよ。でも一番いいダブルベッドのお部屋だから、仲直りにはぴったりよ?」


買収されている!


庶民の味方だと思っていた宿屋が、早くも権力と財力に屈しました。


「ほら見ろ。仕方がないな」


レオンハルト様は「やれやれ」といった顔で――しかし口元は緩みっぱなしで――鍵を受け取りました。


「さあ、行こうか。ハニー」


「……その呼び方、あとで請求書に上乗せしますからね」


私は恨めしげに彼を睨みつけながら、階段を上る羽目になりました。


***


通された部屋は、確かに「一番いい部屋」らしく、広々としていました。


しかし、部屋の中央に鎮座するのは、キングサイズのダブルベッドが一台のみ。


逃げ場なし。


「……どうやって寝るおつもりで?」


私は腕組みをして、ベッドと彼を交互に見ました。


「私が床で寝よう」


レオンハルト様は、意外にも紳士的な提案をしました。


「君に指一本触れるつもりはない。……許可なくはな」


「後半の付け足しが不穏ですが、床で寝ていただけるなら文句はありません」


「だが、君が『寂しいから一緒に寝て』と懇願するなら、拒むほど私も鬼ではないぞ」


「天地がひっくり返ってもあり得ませんのでご安心を」


私は荷物を置くと、すぐに一階の食堂へと降りました。


旅の楽しみといえば、現地の食事です。


食堂は多くの旅人で賑わっていました。私たちは隅のテーブル席に着きます。


「ご注文は?」


「この店のオススメを全部」


「スカーレット、そんなに食べられるのか?」


「ストレスからの解放は、食欲増進に直結するのです」


運ばれてきたのは、猪肉のシチュー、川魚のハーブ焼き、そして山盛りの黒パン。


どれも洗練された宮廷料理とは違い、素朴で野性味あふれる料理ばかりです。


私はスプーンを手に取り、シチューを一口。


「……美味しい!」


濃厚な肉の旨味と、野菜の甘みが口いっぱいに広がります。


「王宮のスープは、毒味の過程で冷めきっていることが多かったですから……熱々の料理がこんなに美味しいなんて」


感動のあまり、次々と口に運びます。


ふと視線を感じて顔を上げると、向かいの席でレオンハルト様が、頬杖をついて私を見つめていました。


自分の食事にはほとんど手をつけず、ただひたすらに、私が食べる様子を眺めているのです。


「……なんですか?」


「いや。君がそんなに幸せそうに食べる姿は、初めて見たと思ってな」


彼は目を細め、どこか眩しそうに言いました。


「夜会ではいつも、作り笑いか、無表情だったから」


「それは……仕事中でしたから」


「今の顔の方が、ずっといい」


不意打ちの褒め言葉。


私はスプーンを落としそうになりました。


「っ……口説かないでください。食事の味が分からなくなります」


「事実を述べただけだ。口元にソースがついているぞ」


彼は自然な動作で手を伸ばし、私の口元の汚れを親指で拭い取りました。


そして、あろうことか、その指を自分の口へ。


「!!??」


私の顔が沸騰しました。


周囲の客たちが「ヒューッ!」と口笛を吹きます。


「お熱いねえ!」


「兄ちゃん、やるな!」


「ち、違います! これは衛生観念の欠如です!」


私が弁明しようと立ち上がった瞬間、店内にどよめきが走りました。


「おい見ろ、ありゃあ……」


入り口の方を見ると、薄汚れたフードを被った男たちが数人、ぞろぞろと入ってくるところでした。


その腰には剣や短剣がぶら下がっています。


明らかにカタギの旅人ではありません。


店の空気が一瞬で張り詰めました。


(わあ、ならず者。王道展開ですね)


私が妙に冷静に分析していると、男たちの一人がこちらに気づき、ニヤつきながら近づいてきました。


「へえ、上玉がいるじゃねえか。なあ姉ちゃん、そんな堅苦しそうな兄ちゃんより、俺たちと飲まないか?」


男の手が、私の肩に伸びてきます。


私はフォークを構え、関節を狙う計算を瞬時に行いました。


が、それよりも早く。


ドゴォッ!!


凄まじい音が響き、男の体が軽々と宙を舞いました。


「……あ?」


男は数メートル先の壁に激突し、ズルズルと崩れ落ちます。


食堂内が静まり返りました。


私の隣には、いつの間にか立ち上がったレオンハルト様が、氷点下の瞳で残りの男たちを見下ろしています。


「私の連れに、何の用だ?」


声のトーンは低いのに、そこに含まれる殺気は食堂の温度を五度くらい下げていました。


「ひ、ひぃっ!」


「あ、兄貴が一撃で……!?」


「騎士だ! 本職の騎士様だぞ、逃げろ!」


男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していきました。


一瞬の出来事。


レオンハルト様は殺気を霧散させると、何事もなかったかのように席に戻り、私のグラスに水を注ぎ足しました。


「虫が飛んでいたので払っておいた。食事を続けよう」


「……虫にしては随分と大きかったようですが」


「害虫には変わりない」


彼はサラリと言いました。


周囲の客たちは、呆気にとられた後、ワッと歓声を上げました。


「すげえぞ兄ちゃん!」


「奥様を守るナイト様だ!」


「よっ、ご馳走様!」


拍手喝采の中、私は真っ赤になってパンを齧るしかありませんでした。


(なによ、格好いいじゃない……)


悔しいですが、心拍数が少し上がってしまったのは事実です。


これは吊り橋効果です。絶対にそうです。


「さあ、お腹もいっぱいになったことだし、部屋に戻ろうか。ハニー」


「……その呼び方は禁止です!」


私たちは部屋に戻りました。


そして問題の就寝タイム。


宣言通り、レオンハルト様は床に毛布を敷いて横になりました。


私はふかふかのダブルベッドを独占し、掛け布団に潜り込みます。


「おやすみなさい、スカーレット。良い夢を」


「おやすみなさい、レオンハルト様。……床、痛くないですか?」


「問題ない。野営に比べれば天国だ」


「そうですか。……その、ありがとうございました。さっき」


私は布団から目だけを出して、小さく礼を言いました。


「別に。君を守るのは、私の役目だと言っただろう」


暗闇の中で、彼の優しい声が響きます。


私は胸の奥がムズムズするのを感じながら、目を閉じました。


(変な人。……でも、悪い気はしない、かも)


王宮での激務の日々にはなかった、奇妙な安心感。


私は予想以上に早く、深い眠りへと落ちていきました。


――翌朝、目が覚めた時。


なぜか私がベッドから転がり落ちており、床で寝ていたはずのレオンハルト様の腕の中にしがみついていた、という大失態に気づくまでは、完璧な夜でした。
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