婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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王都を出発して五日目。


私たちの馬車は、ついに目的の地――西の辺境、ルベル渓谷にある別荘地へと到着しました。


ここは王都の喧騒とは無縁の、緑豊かな保養地です。


澄んだ空気、遠くに聞こえる川のせせらぎ、そして何より、視界を遮る書類の山がない絶景。


「着いた……! ここが私の聖地(サンクチュアリ)……!」


私は馬車を降り、大きく伸びをしました。


目の前にあるのは、亡き祖母が遺してくれた小さな別荘です。


レンガ造りの可愛らしい平屋で、庭にはハーブが植えられ、屋根には風見鶏が回っています。


少し古びてはいますが、それがかえって「スローライフ」の趣を感じさせます。


「完璧です。ここで私は、朝は小鳥の囀りで目覚め、昼は庭で読書をし、夜は暖炉の前で編み物をするのです」


脳内で完璧なスケジュールを組み立て、私は感極まって涙ぐみました。


ようやく、私の戦いは終わったのです。


「……ふむ。悪くない立地だ」


背後から、低い声が聞こえました。


振り返ると、そこには腕を組んで私の別荘を査定するように見上げる、レオンハルト様がいました。


「ですが、セキュリティが甘すぎるな。塀は低いし、窓ガラスは薄い。これでは暴漢どころか、野良犬も侵入し放題だ」


「ここには暴漢も野良犬もいません。いるのはリスと小鳥だけです」


私は冷たく言い放ち、彼を指差しました。


「それよりレオンハルト様。貴方の別荘はどこですの? 『隣』とおっしゃっていましたが」


私の別荘の周囲は森です。


隣と言っても、貴族の別荘地ですから、数百メートルは離れているのが普通でしょう。


しかし、レオンハルト様は親指でクイッと真横を指しました。


「あれだ」


「……はい?」


彼が指差した先。


私の可愛らしいレンガの家の、道路を挟んだ向かい側。


そこに、異様な威圧感を放つ建造物が鎮座していました。


高さ五メートルはある石積みの防壁。


その上に設置された、監視塔のような突起物。


入り口には鉄格子のような重厚な門があり、その前では屈強な騎士たちが警棒を持って巡回しています。


「……要塞?」


私は思わず呟きました。


「別荘だ」


「いいえ、あれはどう見ても前線基地です。対魔獣用の軍事施設です」


「君を守るためには、最低限この程度の設備は必要だ」


「誰から!? もはや王太子軍との戦争を想定していませんか!?」


私のツッコミなど意に介さず、レオンハルト様は満足げに頷きました。


「安心してくれ、スカーレット。あの監視塔からは、君の別荘の玄関と庭が二十四時間体制で視認できる」


「プライバシーの侵害です!」


「もちろん、君の寝室や浴室は見えない角度に調整してある」


「当たり前です! そういう問題ではありません!」


私の安らかな隠居生活の向かいに、こんな物騒な施設が建ってしまったなんて。


これでは、朝起きてカーテンを開けたら、武装した騎士と目が合う生活になってしまいます。


「はあ……。まあいいです。敷地内に入ってこなければ、文句は言いません」


私は頭を抱えながら、荷物を持って自分の別荘へと向かいました。


「スカーレット、荷運びを手伝おうか?」


「結構です! 自分の城の整理くらい、自分でやります!」


私は逃げるように玄関の扉を開け、中に飛び込みました。


***


数時間後。


私は別荘の中で、床に大の字になっていました。


「……疲れた」


長期間使われていなかった別荘は、予想以上に埃だらけでした。


掃除、換気、荷解き、ベッドメイク。


使用人がいれば一瞬で終わる作業も、一人でやると重労働です。


お腹が空きました。


時計を見ると、もう夕暮れ時です。


(食材……買い忘れたわ)


王都から持ってきたのは乾パンと干し肉だけ。


近くの村まで買い出しに行く気力は、今の私には残っていません。


「……今日の夕飯は、非常食のビスケットで済ませましょう」


私が侘しい決断をして、硬いビスケットを齧ろうとした、その時でした。


コンコン。


玄関のドアが、控えめにノックされました。


「?」


こんな時間に誰でしょう。村の人でしょうか。


私が扉を開けると、そこには。


真っ白なエプロンを着けた、最強の騎士団長が立っていました。


「こんばんは、スカーレット」


「……こんばんは。何のコスプレですか?」


「ご近所の挨拶回りだ」


彼はそう言って、片手に持っていた鍋を掲げました。


いい匂いがします。


反則的なほど、食欲をそそる匂いです。


「作りすぎたから、お裾分けだ」


「……ベタな手口ですね」


「中身は『特製ビーフシチュー』だ。最高級の赤ワインで三日煮込んだ肉が入っている」


「……っ」


私の喉がゴクリと鳴りました。


手元の乾いたビスケットと、目の前のトロトロのビーフシチュー。


勝負になりません。


「それと、焼き立てのパンと、新鮮なサラダもある」


「……」


「デザートには、冷やした果物も用意した」


「……入りなさい」


私は扉を全開にしました。


プライドよりも空腹が勝った瞬間です。


「お邪魔する」


レオンハルト様は嬉しそうに店内に入ってきました。


狭いダイニングキッチンに彼が入ると、それだけで部屋が埋まったような圧迫感があります。


彼は慣れた手つきでテーブルに料理を並べ始めました。


「君は座っていてくれ。すぐに用意する」


「あの、お客様にやらせるわけには……」


「私は客ではない。君の『お隣さん』兼『専属シェフ』になりたい男だ」


彼はウィンクをして、キッチンへ向かいました。


その背中――エプロンの紐が筋肉に食い込んでいる背中――を見ながら、私は呆れると同時に、感心してしまいました。


(この人、本当に何でもできるのね)


剣を振るえば国一番。


事務処理能力も高く(私の添削の意図を一瞬で理解していましたし)、家事まで完璧。


欠点は、私に対する愛が重すぎることと、思考回路がたまに暴走することくらいでしょうか。


「さあ、召し上がれ」


並べられた料理は、高級レストラン顔負けのクオリティでした。


私は一口食べて、思わず天を仰ぎました。


「……美味しい」


「そうか。よかった」


向かいの席に座ったレオンハルト様は、やはり自分では食べず、頬杖をついて私を見ています。


「レオンハルト様も召し上がらないのですか?」


「私は君が食べる姿だけで満腹だ」


「燃費がいいですね」


私はパンをシチューに浸しながら、ふと気になっていたことを尋ねました。


「あの、レオンハルト様。一つ聞いても?」


「なんだ? 愛の告白以外なら何でも答えよう。告白なら、食後にじっくり聞く」


「違います。……なぜ、ここまでしてくださるのですか?」


私は箸(フォーク)を止めました。


「貴方は国の要人です。私のような『元・公爵令嬢』の世話を焼くために、長期休暇を取って、こんな辺境まで来るなんて……メリットがなさすぎます」


ただの同情や、一時の恋愛感情でできることではありません。


あの要塞のような別荘の建設費だけでも、莫大な金額のはずです。


レオンハルト様は、少しだけ真面目な顔になりました。


「スカーレット。君は自分のことを『可愛げのない女』だと思っているな?」


「事実ですから。王太子殿下にも、社交界でもそう言われてきました」


「私は、そうは思わない」


彼は静かに言いました。


「三年前。王宮の書庫で、君が一人で泣きながら、それでも必死に法典を読み漁っているのを見た」


「……え?」


「当時、地方の飢饉対策について、誰も有効な手立てを出せず、王太子殿下も匙を投げていた時だ。君は連日徹夜して、過去の判例から『備蓄米の放出特例』を見つけ出し、法案を通した」


心当たりがありすぎて、私は言葉に詰まりました。


あれは本当に辛かった。誰も助けてくれず、死人が出るかもしれないプレッシャーの中で、孤独に戦った案件です。


「君が解決したおかげで、数万の民が救われた。……だが、その功績は全て王太子殿下のものとされた」


「……それは、次期王妃としての務めでしたから」


「君は一言も文句を言わず、ボロボロの顔で、それでも『解決してよかった』と笑って、書庫の机で突っ伏して寝てしまった」


レオンハルト様は、懐かしむように目を細めました。


「その寝顔を見た時だ。私が、君に落ちたのは」


「寝顔……」


「ああ。世界で一番、美しい寝顔だった。……同時に思ったのだ。『この人が、安心して眠れる場所を作りたい』と」


食堂の空気が、シンと静まり返りました。


シチューの湯気だけが、二人の間で揺らめいています。


「だからスカーレット。ここにあるのは、君への同情ではない。私の人生をかけた、君への『安眠提供計画』だ」


彼は真剣な眼差しで、とんでもないことを言いました。


安眠提供計画。


その響きは、私の心の琴線に、これ以上ないほど触れました。


愛している、と言われるよりも。


守ってやる、と言われるよりも。


「安心して眠れる場所」


今の私にとって、これ以上の口説き文句があるでしょうか。


私の顔が、カッと熱くなるのが分かりました。


「……っ、バカバカしいですわ」


私は照れ隠しに、わざとぶっきらぼうに言いました。


「そんな理由で、あんな要塞を建てたのですか。呆れました」


「呆れてもいい。だが、帰れとは言わせないぞ」


「……言いませんよ」


私は小さく呟きました。


「シチューが美味しいので。……明日も、作りに来てくれるなら、許可します」


それは、私なりの精一杯のデレ(妥協)でした。


レオンハルト様は、一瞬目を見開き、それから花が咲くように笑いました。


「喜んで。明日はオムレツにしようか」


「卵は半熟でお願いします」


「了解だ、ハニー」


「だから、その呼び方は禁止です!」


こうして、私の別荘での初日は暮れていきました。


向かいには軍事要塞。


キッチンには最強の騎士団長。


理想の「孤独なスローライフ」とはだいぶ違いますが、満腹で、温かくて、守られている安心感のある夜。


(まあ……悪くない、かも)


私は久しぶりに、悪夢を見ることなく、深い眠りにつくことができたのでした。
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