婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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平和な夜でした。


窓の外では虫たちが静かに合唱し、暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てています。


私はお気に入りのロッキングチェアに座り、ハーブティーの香りを楽しみながら、膝の上で編み棒を動かしていました。


「……これよ」


私は深く息を吸い込みました。


「私が求めていたのは、この静寂。この安らぎ。誰にも邪魔されず、数字にも追われない時間……」


「そうか。それはよかった」


向かいのソファで、レオンハルト様がニコニコと私を見ていました。


彼は当然のように私の家でくつろぎ、私が編んでいるマフラー(本当は腹巻きにする予定ですが、彼には言っていません)を見守っています。


「……レオンハルト様。そろそろご自分の要塞へお帰りになっては?」


「まだ夜の八時だ。君が寝るまでが私の『警備時間』だ」


「警備対象の半径三メートル以内に居座る警備員はいません」


呆れつつも、私はこの状況に慣れ始めていました。


彼がいると、不思議と部屋が温かいのです。それに、彼が淹れる紅茶は悔しいほど美味しい。


このまま穏やかに夜が更けていくのだと、そう思っていました。


――ドンドンドンドン!!


突然、玄関の扉が激しく叩かれました。


静寂が一瞬で粉砕されます。


「な、何事ですか!?」


私が編み棒を落としそうになった瞬間、レオンハルト様の目が鋭くなりました。


彼は音もなく立ち上がり、腰の剣に手をかけます。


「下がっていろ、スカーレット。……この時間に非常識なノック。山賊か、あるいは魔獣か」


「魔獣はノックしませんわ」


「では山賊だな。……私の愛の巣を邪魔する不届き者は、微塵切りにしてやる」


「愛の巣ではありませんし、微塵切りはやめてください。玄関が汚れます」


ドンドンドン!


「開けてぇぇぇ! お願いぃぃぃ! 私よぉぉぉ!」


扉の向こうから聞こえてきたのは、野太い山賊の声ではなく、悲鳴のような、どこか聞き覚えのある甘ったるい声でした。


私は眉をひそめました。


この声、まさか。


「……レオンハルト様、剣を収めてください。どうやら、もっと厄介な『珍客』のようです」


私が慎重に鍵を開け、扉を少し開くと。


ズルッ。


何かが足元に雪崩れ込んできました。


泥だらけのドレス、乱れきったピンクブロンドの髪、そして涙と鼻水でグシャグシャになった顔。


「スカーレット様ぁぁぁ……っ!」


そこにいたのは、王太子殿下の「真実の愛」の相手にして、私を追い出した張本人。


男爵令嬢リリィ様でした。


「リ、リリィ様!? なぜここに!?」


彼女は私の足にしがみつき、ボロ雑巾のように泣きじゃくりました。


「助けてぇぇ! もう無理ぃぃ! あそこは地獄よぉぉ!」


「はあ……?」


「殿下が、ジュリアン様がぁ! 『愛しているなら私の苦しみを分かち合え』って、毎日分厚い哲学書を読ませてくるのぉ! 漢字(かんじ)も読めないのにぃぃ!」


「……」


「『予算の計算くらいできないのか!』って怒鳴るし! 『スカーレットはできたぞ』って比べるし! 私、お飾りのお姫様になりたかっただけなのに、なんで公務員試験みたいなことさせられなきゃいけないのぉぉ!」


リリィ様は、ある意味で非常に正直な不満をぶちまけました。


私は唖然とし、それからこめかみを押さえました。


なるほど。


私が担っていた業務が、そのまま彼女にスライドしたわけですか。


「……とりあえず、離れていただけますか? 泥がつきます」


「いやぁぁ! 追い出さないでぇ! 帰ったら過労死させられるぅ!」


「チッ……」


背後で、レオンハルト様が盛大な舌打ちをしました。


彼は氷点下の視線でリリィ様を見下ろしています。


「おい、小娘。スカーレットが迷惑している。さっさと王都へ帰れ」


「ひぃっ! こ、殺し屋!?」


リリィ様はレオンハルト様の顔を見て悲鳴を上げ、さらに強く私にしがみつきました。


「違うわ、騎士団長よ! レオンハルト様、威嚇しないでください。小動物がショック死します」


私は溜息をつき、リリィ様の襟首を摘んで引き剥がしました。


「とにかく、中へ。このまま玄関で騒がれては近所迷惑です」


***


浴室を貸し、私の着古したジャージ(部屋着)を着せられたリリィ様は、温かいハーブティーを飲んでようやく落ち着きを取り戻しました。


「……ふぅ。生き返った心地ですぅ」


彼女はソファで丸くなりながら、ズズッと鼻をすすりました。


「それで? リリィ様。貴女は王太子妃になるために、私を追い落としたのではなくて?」


私が単刀直入に尋ねると、彼女は首をブンブンと横に振りました。


「違いますぅ! 私、ただジュリアン様が『君は可愛い、何もせず笑っていてくれればいい』って言うから、楽な生活ができると思って……!」


「……」


「そしたら、スカーレット様がいなくなった途端、あの人変わっちゃって……。毎日イライラしてるし、デートもないし、会えば愚痴か仕事の話ばっかり……。あんなの、私の求めていた『王子様』じゃないですぅ」


なんという浅はかさ。


なんという利己的な理由。


本来なら激怒すべきところでしょうが、あまりの潔さに、怒る気力も失せました。


彼女は「悪女」ではありませんでした。ただの「楽をしたい一般人」だったのです。


「それで、耐え切れずに逃げてきたと?」


「はいぃ……。実家に帰ったら連れ戻されるし、行くあてがなくて……。そうしたら、噂でスカーレット様がここにいるって聞いて」


リリィ様は、濡れた子犬のような目(ただし計算高い)で私を見上げました。


「スカーレット様、私を置いてください! 何でもしますからぁ!」


「お断りだ」


即答したのは、私ではなくレオンハルト様でした。


彼は私の隣に座り、リリィ様を敵対視しています。


「ここはスカーレットの安息の地だ。貴様のような騒がしい羽虫を置くスペースはない」


「ううっ、殺し屋さんが怖いよぉ……」


「誰が殺し屋だ」


「待ってください、レオンハルト様」


私はふと、ある計算をしました。


リリィ様は、確かに浅はかで、能力も低く、泣き虫です。


しかし、「王太子の追手から隠れる」という目的において、彼女をここに置いておくことは、実はメリットがあるのではないか?


もし彼女を追い返せば、彼女は王都に戻り、殿下に私の居場所を詳しく白状するでしょう。


そうなれば、殿下本人がここに乗り込んでくるリスクが高まります。


逆に、ここで彼女を保護(監視)しておけば、殿下は「リリィもスカーレットもいない」状態で完全に詰む。


さらに、彼女は家事はできませんが、雑用くらいなら……。


「リリィ様」


「は、はいぃ!」


「貴女、草むしりはできますか?」


「え? く、草むしり? やったことないですけど……雑草を抜けばいいんですよね?」


「では、お茶汲みは?」


「それなら自信あります! お茶菓子を食べるのも得意です!」


「……食べる方はどうでもいいです」


私は一つ頷きました。


「分かりました。しばらくの間、ここに滞在することを許可します」


「本当ですかぁ!?」


「スカーレット!?」


レオンハルト様が驚愕の声を上げました。


「正気か? 元・恋敵だぞ? しかもこの娘、絶対に足手まといになるぞ」


「レオンハルト様。敵は近くに置いて監視せよ、という兵法がありましてよ」


私は彼にだけ聞こえる声で囁きました。


「それに、彼女を王都に返せば、殿下が復活してしまうかもしれません。彼を再起不能にするためには、ヒロイン(精神安定剤)を奪っておくのが一番の復讐ですわ」


私の冷徹な計算を聞き、レオンハルト様はポカンとした後、ニヤリと笑いました。


「……なるほど。君は本当に、性格が悪くて最高だな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


私はリリィ様に向き直りました。


「ただし、条件があります。ここでは『お客様』扱いはしません。自分の食い扶持は自分で稼ぐこと。具体的には、庭の草むしり、風呂掃除、そして私の肩揉みを担当していただきます」


「やります! 公務員の仕事より百倍マシですぅ!」


リリィ様は泣いて喜びました。


こうして、私の静かな別荘に、新たな住人が加わりました。


合理主義者の元悪役令嬢。


過保護なストーカー騎士団長。


そして、労働から逃げてきたポンコツヒロイン。


「さあ、リリィ。まずはその汚れた服を洗濯してきなさい。洗濯板の使い方は教えてあげますから」


「はいぃ! スカーレットお姉様!」


「お姉様はやめてください」


賑やかすぎる夜が、ようやく更けていきます。


この奇妙な同居生活が、意外にも上手くいってしまうことを、私はまだ知りませんでした。


そして王都の殿下が、いよいよ精神崩壊のカウントダウンを始めていることも。
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