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「ひぃぃっ! ごめんなさいぃぃ!」
早朝のキッチンに、リリィ様の悲鳴と、何かが盛大に割れる音が響き渡りました。
私は優雅にモーニングティーを飲みながら、新聞(数日遅れで届いた王都のゴシップ紙)から目を上げました。
「……今度は何をやりましたの?」
「お、お皿が……手から滑り落ちて……自害しましたぁ……」
「お皿は自害しません」
キッチンを覗くと、足元に散らばる白い破片と、涙目で震えるリリィ様。
そして、その背後には鬼の形相で腕を組むエプロン姿の男、レオンハルト様が立っていました。
「貴様……」
地獄の底から響くような低い声。
「皿洗いの基本は『優しさ』だと言ったはずだ。なぜ親の仇のようにスポンジを握りしめる?」
「だってぇ、汚れが落ちないからぁ……」
「力で解決しようとするな。洗剤の泡立ちと湯の温度を利用しろ。剣術と同じだ、力めば隙ができる」
「家事のレベルが高すぎて分かりませんんん!」
リリィ様は泣きながら、それでもレオンハルト様の無言の圧力に屈し、震える手で箒を手に取りました。
ここ数日、我が家では奇妙な光景が日常化していました。
居候となったリリィ様に対し、レオンハルト様が「家事の鬼教官」として君臨しているのです。
「いいか、次は洗濯だ。シーツの皺を伸ばす時は、手首のスナップを効かせろ」
「はいぃ! サー・イエッサー!」
「声が小さい! そんな軟弱な干し方では、生乾きの臭いがつくぞ!」
「ひぃぃぃ!」
庭先では、軍隊の訓練さながらの洗濯干しが行われています。
私は窓辺でその様子を眺め、ほぅと息をつきました。
「……平和ね」
リリィ様は王宮では「何もできない可愛らしいお人形」でしたが、ここでは「生きるために必死な雑用係」として急速に進化しています。
レオンハルト様の指導は厳しいですが、理にかなっているため、彼女の家事スキルは着実に向上していました。
(これで、私は家事から完全に解放される……!)
完璧な人材育成計画。
私が満足げに頷いていると、指導を終えたレオンハルト様が、額の汗を拭いながら戻ってきました。
「スカーレット。リリィの教育は順調だ。あと三日もすれば、基本的な家事はマスターするだろう」
「素晴らしい手腕ですわ、教官殿」
「そこでだ。……今日は、街へ買い出しに行かないか?」
「買い出し、ですか?」
「ああ。居候が増えたせいで、食材の減りが早い。それに、リリィの着替えや日用品も必要だろう」
確かに、リリィ様はずっと私のジャージ姿です。さすがに不憫ではあります。
「分かりました。では、行きましょうか」
私が立ち上がろうとすると、庭でへたり込んでいたリリィ様が顔を上げました。
「わ、私も行きますぅ! 新しい服選ばせてくださぁい!」
「ダメだ」
レオンハルト様が即答しました。
「貴様には課題が残っている。風呂場のカビ取りと、廊下の雑巾掛けだ。私が帰るまでに終わらせておけ」
「そんなぁぁ! 鬼ぃ! 悪魔ぁ!」
「何か言ったか?」
「い、いえ! 喜んで励みますぅ!」
リリィ様は涙ながらに風呂場へと走っていきました。
(……少し可哀想かしら?)
まあ、彼女もタダ飯を食うわけにはいかないと納得しているようですし、良しとしましょう。
「では、行くぞスカーレット。馬車を出す」
レオンハルト様は、心なしかウキウキとした足取りで私をエスコートしました。
***
ルベル渓谷の麓にある街は、観光地としても知られており、石畳の綺麗なメインストリートには多くの店が並んでいました。
私たちは馬車を降り、通りを歩きます。
「人が多いですね」
「ああ。スリが出るかもしれん。……はぐれないように」
レオンハルト様はそう言うと、自然な動作で私の手を取りました。
「……レオンハルト様。私は子供ではありません。迷子にはなりませんわ」
「私が迷子になるかもしれん」
「騎士団長が一本道で迷子にならないでください」
「心が迷子になる」
「意味が分かりません」
文句を言いつつも、私は手を振り払いませんでした。
彼の手は大きく、温かく、そしてゴツゴツとしていて、守られているという安心感が心地よかったからです。
すれ違う人々が、私たちを見て振り返ります。
「見て、素敵なカップル」
「旦那様、すごく強そうね。奥様も綺麗だわ」
「新婚旅行かしら?」
ささやき声が聞こえるたびに、レオンハルト様は鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌を良くし、私は帽子を目深に被って顔を隠しました。
「……誤解が広まっています」
「事実になる予定だから問題ない」
「予定は未定です」
私たちは雑貨屋に入り、リリィ様の服(丈夫で汚れが目立たないエプロンドレス数着)と、洗剤などの消耗品を購入しました。
次に市場へ向かい、野菜や肉を吟味します。
「今夜は何が食べたい?」
レオンハルト様が、カゴを持ちながら聞いてきました。完全に「休日のパパ」の顔です。
「そうですね……。リリィ様が頑張っているようですし、何か彼女の好物でも作ってあげましょうか」
「君は甘いな。……まあ、アメとムチは必要か」
「彼女、甘いお菓子に目がないそうですよ。果物を多めに買いましょう」
私が赤いリンゴを手に取った時でした。
「――おい、聞いたか? 王都の話」
隣の露店から、行商人たちの話し声が聞こえてきました。
私はピクリと耳をそばだてました。
「ああ、なんでも王太子殿下が『乱心』したとか」
「乱心?」
「騎士団を引き連れて、西へ向かったって噂だぞ。『逃げた婚約者を連れ戻す』とか叫んでたらしい」
「うわぁ、怖えなぁ……」
心臓が、ドクンと跳ねました。
王太子が、西へ。
つまり、ここへ向かっている。
私はリンゴを取り落としそうになりましたが、横から伸びてきたレオンハルト様の手が、それをしっかりと受け止めました。
「……スカーレット」
彼は低い声で私の名を呼びました。
その目は、先ほどまでの穏やかな「パパ」の目ではなく、鋭い「騎士団長」の目に戻っていました。
「心配するな。想定の範囲内だ」
「ですが……殿下が直接来るなんて。公務はどうしているのですか? 国を放り出して?」
「今の彼は、正常な判断ができていないのだろう。……それに、彼がここに来るということは、君の価値をようやく理解したということでもある」
レオンハルト様は私の肩を抱き寄せ、守るように身を寄せました。
「だが、遅すぎる。君はもう、私の保護下にある」
「レオンハルト様……」
「買い物を続けよう。今夜はアップルパイにしようか。リリィも喜ぶだろう」
彼は努めて明るく振る舞ってくれましたが、繋いだ手の力は、先ほどよりも強くなっていました。
***
帰り道。
馬車の中で、私は窓の外を流れる景色を眺めながら、複雑な思いを抱いていました。
ジュリアン殿下。
幼い頃から共に過ごし、支えてきた相手。
彼がそこまで追い詰められ、国政を放り出してまで私を追ってくるなんて。
(……私が甘やかしてしまったせい、でもあるのかしら)
私が何でも先回りして処理してしまったから、彼は「自分が無能であること」に気づく機会を奪われてしまったのかもしれません。
「後悔しているか?」
レオンハルト様が、私の心を見透かしたように尋ねました。
「……いいえ」
私は首を振りました。
「私は、今の生活が気に入っています。静かで、美味しくて、……貴方がいてくれる生活が」
言ってしまってから、顔が熱くなりました。
レオンハルト様は目を見開き、それから耳まで真っ赤にして、口元を手で覆いました。
「……今の言葉は、録音しておきたかった」
「一回しか言いません」
「スカーレット。……帰ったら、要塞の防備を強化する。アリ一匹、王太子一匹たりとも通さない」
「王太子を虫みたいに数えないでください」
私たちは屋敷に戻りました。
玄関を開けると、ピカピカに磨かれた廊下と、雑巾がけをして力尽きたリリィ様が床で寝息を立てていました。
「……ふふっ」
その無防備な姿を見て、私は自然と笑みがこぼれました。
このささやかで騒がしい日常を、誰にも壊させはしない。
私は心の中で、赤ペンではなく、見えない剣を構えました。
来るなら来なさい、元婚約者。
私が叩き込んだ「帝王学」の最終試験、ここで行って差し上げましょう。
――その頃。
街の入り口には、王家の紋章を掲げた馬車と、殺気立った騎士たちの集団が到着していました。
「スカーレット……どこだ……! 私のスカーレット……!」
やつれ果て、狂気を帯びた目のジュリアン王太子が、西の空を睨みつけていました。
早朝のキッチンに、リリィ様の悲鳴と、何かが盛大に割れる音が響き渡りました。
私は優雅にモーニングティーを飲みながら、新聞(数日遅れで届いた王都のゴシップ紙)から目を上げました。
「……今度は何をやりましたの?」
「お、お皿が……手から滑り落ちて……自害しましたぁ……」
「お皿は自害しません」
キッチンを覗くと、足元に散らばる白い破片と、涙目で震えるリリィ様。
そして、その背後には鬼の形相で腕を組むエプロン姿の男、レオンハルト様が立っていました。
「貴様……」
地獄の底から響くような低い声。
「皿洗いの基本は『優しさ』だと言ったはずだ。なぜ親の仇のようにスポンジを握りしめる?」
「だってぇ、汚れが落ちないからぁ……」
「力で解決しようとするな。洗剤の泡立ちと湯の温度を利用しろ。剣術と同じだ、力めば隙ができる」
「家事のレベルが高すぎて分かりませんんん!」
リリィ様は泣きながら、それでもレオンハルト様の無言の圧力に屈し、震える手で箒を手に取りました。
ここ数日、我が家では奇妙な光景が日常化していました。
居候となったリリィ様に対し、レオンハルト様が「家事の鬼教官」として君臨しているのです。
「いいか、次は洗濯だ。シーツの皺を伸ばす時は、手首のスナップを効かせろ」
「はいぃ! サー・イエッサー!」
「声が小さい! そんな軟弱な干し方では、生乾きの臭いがつくぞ!」
「ひぃぃぃ!」
庭先では、軍隊の訓練さながらの洗濯干しが行われています。
私は窓辺でその様子を眺め、ほぅと息をつきました。
「……平和ね」
リリィ様は王宮では「何もできない可愛らしいお人形」でしたが、ここでは「生きるために必死な雑用係」として急速に進化しています。
レオンハルト様の指導は厳しいですが、理にかなっているため、彼女の家事スキルは着実に向上していました。
(これで、私は家事から完全に解放される……!)
完璧な人材育成計画。
私が満足げに頷いていると、指導を終えたレオンハルト様が、額の汗を拭いながら戻ってきました。
「スカーレット。リリィの教育は順調だ。あと三日もすれば、基本的な家事はマスターするだろう」
「素晴らしい手腕ですわ、教官殿」
「そこでだ。……今日は、街へ買い出しに行かないか?」
「買い出し、ですか?」
「ああ。居候が増えたせいで、食材の減りが早い。それに、リリィの着替えや日用品も必要だろう」
確かに、リリィ様はずっと私のジャージ姿です。さすがに不憫ではあります。
「分かりました。では、行きましょうか」
私が立ち上がろうとすると、庭でへたり込んでいたリリィ様が顔を上げました。
「わ、私も行きますぅ! 新しい服選ばせてくださぁい!」
「ダメだ」
レオンハルト様が即答しました。
「貴様には課題が残っている。風呂場のカビ取りと、廊下の雑巾掛けだ。私が帰るまでに終わらせておけ」
「そんなぁぁ! 鬼ぃ! 悪魔ぁ!」
「何か言ったか?」
「い、いえ! 喜んで励みますぅ!」
リリィ様は涙ながらに風呂場へと走っていきました。
(……少し可哀想かしら?)
まあ、彼女もタダ飯を食うわけにはいかないと納得しているようですし、良しとしましょう。
「では、行くぞスカーレット。馬車を出す」
レオンハルト様は、心なしかウキウキとした足取りで私をエスコートしました。
***
ルベル渓谷の麓にある街は、観光地としても知られており、石畳の綺麗なメインストリートには多くの店が並んでいました。
私たちは馬車を降り、通りを歩きます。
「人が多いですね」
「ああ。スリが出るかもしれん。……はぐれないように」
レオンハルト様はそう言うと、自然な動作で私の手を取りました。
「……レオンハルト様。私は子供ではありません。迷子にはなりませんわ」
「私が迷子になるかもしれん」
「騎士団長が一本道で迷子にならないでください」
「心が迷子になる」
「意味が分かりません」
文句を言いつつも、私は手を振り払いませんでした。
彼の手は大きく、温かく、そしてゴツゴツとしていて、守られているという安心感が心地よかったからです。
すれ違う人々が、私たちを見て振り返ります。
「見て、素敵なカップル」
「旦那様、すごく強そうね。奥様も綺麗だわ」
「新婚旅行かしら?」
ささやき声が聞こえるたびに、レオンハルト様は鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌を良くし、私は帽子を目深に被って顔を隠しました。
「……誤解が広まっています」
「事実になる予定だから問題ない」
「予定は未定です」
私たちは雑貨屋に入り、リリィ様の服(丈夫で汚れが目立たないエプロンドレス数着)と、洗剤などの消耗品を購入しました。
次に市場へ向かい、野菜や肉を吟味します。
「今夜は何が食べたい?」
レオンハルト様が、カゴを持ちながら聞いてきました。完全に「休日のパパ」の顔です。
「そうですね……。リリィ様が頑張っているようですし、何か彼女の好物でも作ってあげましょうか」
「君は甘いな。……まあ、アメとムチは必要か」
「彼女、甘いお菓子に目がないそうですよ。果物を多めに買いましょう」
私が赤いリンゴを手に取った時でした。
「――おい、聞いたか? 王都の話」
隣の露店から、行商人たちの話し声が聞こえてきました。
私はピクリと耳をそばだてました。
「ああ、なんでも王太子殿下が『乱心』したとか」
「乱心?」
「騎士団を引き連れて、西へ向かったって噂だぞ。『逃げた婚約者を連れ戻す』とか叫んでたらしい」
「うわぁ、怖えなぁ……」
心臓が、ドクンと跳ねました。
王太子が、西へ。
つまり、ここへ向かっている。
私はリンゴを取り落としそうになりましたが、横から伸びてきたレオンハルト様の手が、それをしっかりと受け止めました。
「……スカーレット」
彼は低い声で私の名を呼びました。
その目は、先ほどまでの穏やかな「パパ」の目ではなく、鋭い「騎士団長」の目に戻っていました。
「心配するな。想定の範囲内だ」
「ですが……殿下が直接来るなんて。公務はどうしているのですか? 国を放り出して?」
「今の彼は、正常な判断ができていないのだろう。……それに、彼がここに来るということは、君の価値をようやく理解したということでもある」
レオンハルト様は私の肩を抱き寄せ、守るように身を寄せました。
「だが、遅すぎる。君はもう、私の保護下にある」
「レオンハルト様……」
「買い物を続けよう。今夜はアップルパイにしようか。リリィも喜ぶだろう」
彼は努めて明るく振る舞ってくれましたが、繋いだ手の力は、先ほどよりも強くなっていました。
***
帰り道。
馬車の中で、私は窓の外を流れる景色を眺めながら、複雑な思いを抱いていました。
ジュリアン殿下。
幼い頃から共に過ごし、支えてきた相手。
彼がそこまで追い詰められ、国政を放り出してまで私を追ってくるなんて。
(……私が甘やかしてしまったせい、でもあるのかしら)
私が何でも先回りして処理してしまったから、彼は「自分が無能であること」に気づく機会を奪われてしまったのかもしれません。
「後悔しているか?」
レオンハルト様が、私の心を見透かしたように尋ねました。
「……いいえ」
私は首を振りました。
「私は、今の生活が気に入っています。静かで、美味しくて、……貴方がいてくれる生活が」
言ってしまってから、顔が熱くなりました。
レオンハルト様は目を見開き、それから耳まで真っ赤にして、口元を手で覆いました。
「……今の言葉は、録音しておきたかった」
「一回しか言いません」
「スカーレット。……帰ったら、要塞の防備を強化する。アリ一匹、王太子一匹たりとも通さない」
「王太子を虫みたいに数えないでください」
私たちは屋敷に戻りました。
玄関を開けると、ピカピカに磨かれた廊下と、雑巾がけをして力尽きたリリィ様が床で寝息を立てていました。
「……ふふっ」
その無防備な姿を見て、私は自然と笑みがこぼれました。
このささやかで騒がしい日常を、誰にも壊させはしない。
私は心の中で、赤ペンではなく、見えない剣を構えました。
来るなら来なさい、元婚約者。
私が叩き込んだ「帝王学」の最終試験、ここで行って差し上げましょう。
――その頃。
街の入り口には、王家の紋章を掲げた馬車と、殺気立った騎士たちの集団が到着していました。
「スカーレット……どこだ……! 私のスカーレット……!」
やつれ果て、狂気を帯びた目のジュリアン王太子が、西の空を睨みつけていました。
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