婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

文字の大きさ
9 / 28

9

しおりを挟む
「ひぃぃっ! ごめんなさいぃぃ!」


早朝のキッチンに、リリィ様の悲鳴と、何かが盛大に割れる音が響き渡りました。


私は優雅にモーニングティーを飲みながら、新聞(数日遅れで届いた王都のゴシップ紙)から目を上げました。


「……今度は何をやりましたの?」


「お、お皿が……手から滑り落ちて……自害しましたぁ……」


「お皿は自害しません」


キッチンを覗くと、足元に散らばる白い破片と、涙目で震えるリリィ様。


そして、その背後には鬼の形相で腕を組むエプロン姿の男、レオンハルト様が立っていました。


「貴様……」


地獄の底から響くような低い声。


「皿洗いの基本は『優しさ』だと言ったはずだ。なぜ親の仇のようにスポンジを握りしめる?」


「だってぇ、汚れが落ちないからぁ……」


「力で解決しようとするな。洗剤の泡立ちと湯の温度を利用しろ。剣術と同じだ、力めば隙ができる」


「家事のレベルが高すぎて分かりませんんん!」


リリィ様は泣きながら、それでもレオンハルト様の無言の圧力に屈し、震える手で箒を手に取りました。


ここ数日、我が家では奇妙な光景が日常化していました。


居候となったリリィ様に対し、レオンハルト様が「家事の鬼教官」として君臨しているのです。


「いいか、次は洗濯だ。シーツの皺を伸ばす時は、手首のスナップを効かせろ」


「はいぃ! サー・イエッサー!」


「声が小さい! そんな軟弱な干し方では、生乾きの臭いがつくぞ!」


「ひぃぃぃ!」


庭先では、軍隊の訓練さながらの洗濯干しが行われています。


私は窓辺でその様子を眺め、ほぅと息をつきました。


「……平和ね」


リリィ様は王宮では「何もできない可愛らしいお人形」でしたが、ここでは「生きるために必死な雑用係」として急速に進化しています。


レオンハルト様の指導は厳しいですが、理にかなっているため、彼女の家事スキルは着実に向上していました。


(これで、私は家事から完全に解放される……!)


完璧な人材育成計画。


私が満足げに頷いていると、指導を終えたレオンハルト様が、額の汗を拭いながら戻ってきました。


「スカーレット。リリィの教育は順調だ。あと三日もすれば、基本的な家事はマスターするだろう」


「素晴らしい手腕ですわ、教官殿」


「そこでだ。……今日は、街へ買い出しに行かないか?」


「買い出し、ですか?」


「ああ。居候が増えたせいで、食材の減りが早い。それに、リリィの着替えや日用品も必要だろう」


確かに、リリィ様はずっと私のジャージ姿です。さすがに不憫ではあります。


「分かりました。では、行きましょうか」


私が立ち上がろうとすると、庭でへたり込んでいたリリィ様が顔を上げました。


「わ、私も行きますぅ! 新しい服選ばせてくださぁい!」


「ダメだ」


レオンハルト様が即答しました。


「貴様には課題が残っている。風呂場のカビ取りと、廊下の雑巾掛けだ。私が帰るまでに終わらせておけ」


「そんなぁぁ! 鬼ぃ! 悪魔ぁ!」


「何か言ったか?」


「い、いえ! 喜んで励みますぅ!」


リリィ様は涙ながらに風呂場へと走っていきました。


(……少し可哀想かしら?)


まあ、彼女もタダ飯を食うわけにはいかないと納得しているようですし、良しとしましょう。


「では、行くぞスカーレット。馬車を出す」


レオンハルト様は、心なしかウキウキとした足取りで私をエスコートしました。


***


ルベル渓谷の麓にある街は、観光地としても知られており、石畳の綺麗なメインストリートには多くの店が並んでいました。


私たちは馬車を降り、通りを歩きます。


「人が多いですね」


「ああ。スリが出るかもしれん。……はぐれないように」


レオンハルト様はそう言うと、自然な動作で私の手を取りました。


「……レオンハルト様。私は子供ではありません。迷子にはなりませんわ」


「私が迷子になるかもしれん」


「騎士団長が一本道で迷子にならないでください」


「心が迷子になる」


「意味が分かりません」


文句を言いつつも、私は手を振り払いませんでした。


彼の手は大きく、温かく、そしてゴツゴツとしていて、守られているという安心感が心地よかったからです。


すれ違う人々が、私たちを見て振り返ります。


「見て、素敵なカップル」


「旦那様、すごく強そうね。奥様も綺麗だわ」


「新婚旅行かしら?」


ささやき声が聞こえるたびに、レオンハルト様は鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌を良くし、私は帽子を目深に被って顔を隠しました。


「……誤解が広まっています」


「事実になる予定だから問題ない」


「予定は未定です」


私たちは雑貨屋に入り、リリィ様の服(丈夫で汚れが目立たないエプロンドレス数着)と、洗剤などの消耗品を購入しました。


次に市場へ向かい、野菜や肉を吟味します。


「今夜は何が食べたい?」


レオンハルト様が、カゴを持ちながら聞いてきました。完全に「休日のパパ」の顔です。


「そうですね……。リリィ様が頑張っているようですし、何か彼女の好物でも作ってあげましょうか」


「君は甘いな。……まあ、アメとムチは必要か」


「彼女、甘いお菓子に目がないそうですよ。果物を多めに買いましょう」


私が赤いリンゴを手に取った時でした。


「――おい、聞いたか? 王都の話」


隣の露店から、行商人たちの話し声が聞こえてきました。


私はピクリと耳をそばだてました。


「ああ、なんでも王太子殿下が『乱心』したとか」


「乱心?」


「騎士団を引き連れて、西へ向かったって噂だぞ。『逃げた婚約者を連れ戻す』とか叫んでたらしい」


「うわぁ、怖えなぁ……」


心臓が、ドクンと跳ねました。


王太子が、西へ。


つまり、ここへ向かっている。


私はリンゴを取り落としそうになりましたが、横から伸びてきたレオンハルト様の手が、それをしっかりと受け止めました。


「……スカーレット」


彼は低い声で私の名を呼びました。


その目は、先ほどまでの穏やかな「パパ」の目ではなく、鋭い「騎士団長」の目に戻っていました。


「心配するな。想定の範囲内だ」


「ですが……殿下が直接来るなんて。公務はどうしているのですか? 国を放り出して?」


「今の彼は、正常な判断ができていないのだろう。……それに、彼がここに来るということは、君の価値をようやく理解したということでもある」


レオンハルト様は私の肩を抱き寄せ、守るように身を寄せました。


「だが、遅すぎる。君はもう、私の保護下にある」


「レオンハルト様……」


「買い物を続けよう。今夜はアップルパイにしようか。リリィも喜ぶだろう」


彼は努めて明るく振る舞ってくれましたが、繋いだ手の力は、先ほどよりも強くなっていました。


***


帰り道。


馬車の中で、私は窓の外を流れる景色を眺めながら、複雑な思いを抱いていました。


ジュリアン殿下。


幼い頃から共に過ごし、支えてきた相手。


彼がそこまで追い詰められ、国政を放り出してまで私を追ってくるなんて。


(……私が甘やかしてしまったせい、でもあるのかしら)


私が何でも先回りして処理してしまったから、彼は「自分が無能であること」に気づく機会を奪われてしまったのかもしれません。


「後悔しているか?」


レオンハルト様が、私の心を見透かしたように尋ねました。


「……いいえ」


私は首を振りました。


「私は、今の生活が気に入っています。静かで、美味しくて、……貴方がいてくれる生活が」


言ってしまってから、顔が熱くなりました。


レオンハルト様は目を見開き、それから耳まで真っ赤にして、口元を手で覆いました。


「……今の言葉は、録音しておきたかった」


「一回しか言いません」


「スカーレット。……帰ったら、要塞の防備を強化する。アリ一匹、王太子一匹たりとも通さない」


「王太子を虫みたいに数えないでください」


私たちは屋敷に戻りました。


玄関を開けると、ピカピカに磨かれた廊下と、雑巾がけをして力尽きたリリィ様が床で寝息を立てていました。


「……ふふっ」


その無防備な姿を見て、私は自然と笑みがこぼれました。


このささやかで騒がしい日常を、誰にも壊させはしない。


私は心の中で、赤ペンではなく、見えない剣を構えました。


来るなら来なさい、元婚約者。


私が叩き込んだ「帝王学」の最終試験、ここで行って差し上げましょう。


――その頃。


街の入り口には、王家の紋章を掲げた馬車と、殺気立った騎士たちの集団が到着していました。


「スカーレット……どこだ……! 私のスカーレット……!」


やつれ果て、狂気を帯びた目のジュリアン王太子が、西の空を睨みつけていました。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

居場所を失った令嬢と結婚することになった男の葛藤

しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢ロレーヌは悪女扱いされて婚約破棄された。 父親は怒り、修道院に入れようとする。 そんな彼女を助けてほしいと妻を亡くした28歳の子爵ドリューに声がかかった。 学園も退学させられた、まだ16歳の令嬢との結婚。 ロレーヌとの初夜を少し先に見送ったせいで彼女に触れたくなるドリューのお話です。

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

婚約破棄された令嬢、気づけば王族総出で奪い合われています

ゆっこ
恋愛
 「――よって、リリアーナ・セレスト嬢との婚約は破棄する!」  王城の大広間に王太子アレクシスの声が響いた瞬間、私は静かにスカートをつまみ上げて一礼した。  「かしこまりました、殿下。どうか末永くお幸せに」  本心ではない。けれど、こう言うしかなかった。  王太子は私を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。  「お前のような地味で役に立たない女より、フローラの方が相応しい。彼女は聖女として覚醒したのだ!」

美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ 

さら
恋愛
 会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。  ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。  けれど、測定された“能力値”は最低。  「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。  そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。  優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。  彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。  人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。  やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。  不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています

22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」 そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。 理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。 (まあ、そんな気はしてました) 社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。 未練もないし、王宮に居続ける理由もない。 だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。 これからは自由に静かに暮らそう! そう思っていたのに―― 「……なぜ、殿下がここに?」 「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」 婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!? さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。 「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」 「いいや、俺の妻になるべきだろう?」 「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」

処理中です...