婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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夜の帳が下り、ルベル渓谷は深い静寂に包まれていました。


昼間の騒動が嘘のように、虫の音だけが響いています。


リリィ様は「もう無理ですぅ……筋肉痛で体が動きません……」と泣き言を漏らしながら、夕食後すぐに泥のように眠ってしまいました。


私もベッドに入ったのですが、どうにも寝付けません。


原因は明白。昼間のレオンハルト様の言葉や、守ろうとしてくれた背中が、瞼の裏に焼き付いて離れないからです。


(……喉が渇いたわ)


私はベッドを抜け出し、キッチンへ向かいました。


水を一杯飲んで落ち着こう。そう思ってリビングを通ろうとした時。


「――眠れないのか?」


バルコニーの方から、低い声が聞こえました。


驚いて振り返ると、窓辺の椅子に腰掛け、月を見上げていたレオンハルト様と目が合いました。


彼は片手にワイングラスを持ち、月明かりに銀髪を輝かせています。


まるで一枚の絵画のような美しさに、私は一瞬、息を呑みました。


「……レオンハルト様こそ。ご自分の要塞へ戻られたのでは?」


「君が眠るまでは、近くにいようと思ってな」


彼は優しく微笑み、隣の椅子を目で示しました。


「少し、付き合わないか? 良い酒がある」


「……一杯だけですよ」


私は誘われるまま、彼の隣に座りました。


夜風が心地よく頬を撫でます。


注がれた赤ワインは、深いルビー色をしていました。一口飲むと、芳醇な香りが鼻腔をくすぐります。


「……昼間は、ありがとうございました」


私はグラスを見つめながら、素直に礼を言いました。


「貴方がいなければ、殿下を追い返すのに苦労したでしょうから」


「いや。君の『請求書攻撃』こそ見事だった。あんなに顔面蒼白になった王太子を見たのは初めてだ」


レオンハルト様はクツクツと笑いました。


「だが、油断はできない。彼は執念深い。特に、自分の所有物だと思っていたものを失った時はな」


「所有物……。ええ、まさにその通りですわ」


私は自嘲気味に笑いました。


「殿下にとって私は、便利な道具であり、飾りでした。愛されていたわけでも、一人の人間として見られていたわけでもない。……それが分かっていたから、私は感情を殺して『完璧な歯車』に徹していたのです」


そうです。


可愛げのない鉄の女。それが私の処世術でした。


期待しなければ傷つかない。淡々とこなせば、いつか終わる。


そう言い聞かせてきたのです。


「だから……分からないのです」


私は顔を上げ、レオンハルト様を見つめました。


「なぜ、貴方なのですか?」


「うん?」


「貴方は国一番の騎士団長。家柄も容姿も完璧で、王女殿下や他国の姫君からも引く手あまたでしょう。それなのに、なぜ私のような『可愛げのない元婚約者』に、そこまで執着なさるのです?」


「……まだ、信じられないか?」


「信じられません。同情や、一時的な気の迷いなら分かります。でも、貴方のそれは……重すぎます」


別荘を買う。家事をする。王太子に逆らう。


常軌を逸しています。


レオンハルト様はワインを一口飲み、少し遠い目をしました。


「スカーレット。君は覚えているか? 三年前の冬、王立図書館の奥にある『開かずの資料室』でのことを」


「資料室……?」


記憶を辿ります。


確かあの頃は、大寒波による不作で、地方の村々が飢饉に苦しんでいました。


しかし、前例がないという理由で予算が下りず、私は過去数百年の文献をひっくり返して対策を探していたのです。


「……ええ、覚えています。埃っぽくて、寒くて、カビ臭い部屋でした」


「あの日、私は巡回中にその部屋の前を通りかかった。深夜二時だ。明かりが漏れていたので覗いてみると……君がいた」


レオンハルト様は、懐かしそうに語り始めました。


「君は、高級なドレスの裾を埃まみれにして、床に座り込んでいた。髪はボサボサで、眼鏡もズレていた。片手には冷え切ったサンドイッチを持ち、もう片手で必死にページを捲っていた」


「……忘れてください。最悪の姿ですわ」


私は顔を覆いました。公爵令嬢としてあるまじき醜態です。


「いや、美しかった」


彼はきっぱりと言いました。


「その時の君は、誰に見せるためでもなく、ただ『誰かを救いたい』という一心で戦っていた。……その横顔を見た時、私は動けなくなったんだ」


「……」


「そして朝方、君はついに解決策を見つけた。『あった……!』と小さな声を上げて、ボロボロの顔で、本当に嬉しそうに笑ったんだ」


レオンハルト様の手が伸びてきて、私の頬に触れました。


その指先は熱く、私の心臓の鼓動を早めます。


「その笑顔を見た瞬間、私の心臓は射抜かれた。……ああ、この人は『氷の令嬢』なんかじゃない。誰よりも熱い情熱を持った、優しい女性なんだと」


「……買い被りです」


私は震える声で反論しました。


「私はただ、仕事だから……」


「仕事で、あんなに泣きそうな顔で喜べるか? 君は、他人のために本気で怒り、本気で悲しみ、本気で喜べる人だ」


彼の顔が近づきます。


アイスブルーの瞳が、熱を帯びて揺らめいていました。


「スカーレット。私は、完璧な公爵令嬢としての君に惚れたんじゃない。……泥だらけで、不器用で、頑張り屋の君に惚れたんだ」


「……っ」


言葉が出ませんでした。


今まで、誰も見てくれなかった部分。


隠して、押し殺して、誰にも理解されないと諦めていた「本当の私」。


それを、この人はずっと見ていてくれたのですか?


「三年間、ずっと片想いだった。君は王太子の婚約者だったから、遠くから見守ることしかできなかった」


彼の吐息がかかる距離。


「だが、今は違う。君は自由だ。……だから、もう遠慮はしない」


「レオンハルト、様……」


「好きだ、スカーレット。……愛している」


その言葉は、甘い毒のように私の全身に回りました。


心臓が痛いほど脈打ち、顔が沸騰しそうです。


業務的な契約でも、政治的な取引でもない。


純粋で、熱烈な、一人の男性からの求愛。


免疫のない私には、刺激が強すぎました。


「……ず、狡いですわ」


私は目を伏せ、かろうじて声を絞り出しました。


「そんな風に言われたら……計算が、狂ってしまいます」


「計算?」


「一人の穏やかな老後、という人生設計が……貴方のせいで、崩壊してしまいそうです」


私の言葉に、レオンハルト様は目を見開き、そして破顔しました。


「それは朗報だ。私の人生設計に、君を組み込む余地ができたということだな?」


「……検討中です。まだ、決裁は下せません」


「ふっ、厳しいな。だが、審査のテーブルに乗っただけでも前進か」


彼は私の手を取り、その甲に口づけを落としました。


チュッ、という小さな音が、静寂の中に響きます。


「待っているよ。君が私に『合格印』をくれるまで、何度でも口説き落とすつもりだ」


「……せいぜい頑張ってくださいませ。私の審査基準は厳しいですよ?」


精一杯の強がり。


でも、私の手は彼の手を振り払うことなく、むしろその温もりを求めて微かに握り返していました。


月明かりの下、氷の騎士と鉄の女の距離は、確実に縮まっていました。


ただ、私たち(特に私)は忘れていたのです。


この甘い空気のすぐ外側に、まだ解決していない「現実的な問題(王太子と法務大臣)」が迫っていることを。


「……おや?」


ふと、レオンハルト様が視線を森の方へ向け、目を細めました。


「どうなさいました?」


「いや……今、森の奥で鳥が騒いだ気がしてな」


「鳥? 夜行性のフクロウでしょうか」


「だといいが。……少し、嫌な予感がする」


彼は立ち上がり、鋭い視線で闇を見据えました。


その横顔は、先ほどまでの恋する男の顔から、再び「騎士団長」の顔に戻っていました。


私の心臓のドキドキとは別の意味で、胸がざわつきました。


まだ、終わっていない。


王太子ジュリアン。彼がただ引き下がるはずがない。


静寂な夜の向こう側で、次なる波乱の幕が上がろうとしていました。
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