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「――食事の時間だって? ナンセンスだね」
王宮の小ダイニングルーム。
今夜は、ガレリア帝国のルーカス皇太子を歓迎するための(という名目の)晩餐会が開かれていました。
しかし、主賓であるルーカス殿下は、テーブルに並べられたカトラリーを見て鼻を鳴らしました。
「人間が一生のうち、食事に費やす時間は平均で約四年分だと言われている。四年だよ、スカーレット! これだけの時間があれば、新しい法案が何千本作れると思う?」
「……確かに、計算上はそうですわね」
私は頷きました。
食事は生命維持に不可欠ですが、調理、摂食、片付けの時間は、純粋な生産活動という観点から見ればロスと言えなくもありません。
「だから僕は、帝国でこれを開発させたんだ」
ルーカス殿下は、懐から銀色のケースを取り出しました。
中には、無機質な灰色のブロック状の物体と、怪しげなカプセルが入っています。
「『完全栄養食・ガレリアバー』だ。これ一本で、成人が一日に必要なカロリーと栄養素を全て摂取できる。食事時間はわずか三十秒。味は……まあ、粘土と段ボールを混ぜたような味だが、栄養価は完璧だ」
「粘土と段ボール……」
「君にもあげよう。これを齧りながら議論を続けようじゃないか。さあ、口を開けて」
彼が灰色のブロックを差し出してきました。
究極の効率化。
私の理性が「それは正しい」と叫ぶ一方で、私の本能(胃袋)が「全力で逃げろ」と警鐘を鳴らしています。
その時でした。
「お待たせしました」
重厚な扉が開き、ワゴンを押した男が入ってきました。
コックコートに身を包み、長い髪を後ろで束ねた、国一番の騎士団長。
レオンハルト・アイゼン様です。
「本日のメインディッシュをお持ちしました」
「……なんだい、君が運ぶのか? 使用人は?」
ルーカス殿下が眉をひそめました。
「私が作ったので、私が運ぶのが筋でしょう」
「は? 騎士団長が料理?」
「趣味です。……それに、私の婚約者の体調管理は、私の専管事項ですので」
レオンハルト様は優雅にシルバーの蓋(クローシュ)を開けました。
ふわぁっ、と白い湯気が立ち上ります。
一瞬にして、ダイニングルームが芳醇な香りで満たされました。
「本日のメニューは、『特製ビーフシチュー・王宮風』です」
「……!」
私の目が釘付けになりました。
飴色になるまで炒められた玉ねぎの甘い香り。赤ワインとフォン・ド・ヴォーでじっくり煮込まれた濃厚なソース。そして、スプーンで触れるだけで解けそうなほど柔らかい牛肉の塊。
「サイドディッシュには、旬の温野菜のバターソテー。パンは、先ほど焼き上げたばかりの自家製ライ麦パンです」
レオンハルト様は、私の目の前に皿を置きました。
「さあ、スカーレット。熱いうちに召し上がれ」
「……いただきます」
私はスプーンを手に取りました。
ルーカス殿下の「灰色のブロック」と、レオンハルト様の「黄金色のシチュー」。
比較検討するまでもありません。
一口食べると、濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、身体の芯まで温かさが染み渡っていきました。
「……んっ……」
思わず、変な声が出そうになりました。
美味しい。ただ美味しいだけでなく、疲れた脳と体に、優しさが直接注入されるような感覚。
「どうだ? 味は濃すぎないか?」
レオンハルト様が、心配そうに顔を覗き込みました。
「……完璧です。以前、別荘で作ってくださった時よりも、さらに深みが増していますわ」
「君が最近、公務で疲れているようだったからな。野菜を多めにして、消化に良い隠し味を入れておいた」
彼は満足げに微笑み、私のグラスに水を注ぎ足しました。
その流れるような気遣い。
「……ふん」
面白くなさそうな声が聞こえました。
ルーカス殿下が、自分の持っている栄養バーと、私が食べているシチューを見比べています。
「非効率だね。たかだか一食のために、何時間かけたんだい?」
「仕込みを含めれば六時間です」
レオンハルト様は即答しました。
「六時間!? 正気か!? その時間があれば、軍事演習が一回できるぞ!」
「ええ。ですが、その六時間で、彼女がこうして幸せそうに笑ってくれるなら、安いものです」
「……!」
レオンハルト様は、ルーカス殿下を真っ直ぐに見据えました。
「皇太子殿下。貴方の仰る効率性は正しい。国家運営において、無駄を省くことは重要です」
「なら……」
「ですが、家庭においてはどうでしょうか? 効率だけで作られた食事、効率だけの会話、効率だけの関係……。そこに『帰りたい』と思える場所はありますか?」
レオンハルト様は、私の肩に手を置きました。
「スカーレットは、外では完璧な宰相です。誰よりも効率を求め、誰よりも働いている。……だからこそ、家に帰った時くらい、非効率なほどの手間暇をかけて、甘やかされてもいいはずだ」
「レオンハルト様……」
私の胸が熱くなりました。
そうです。
私が求めていたのは、仕事を一緒にするパートナーではなく、仕事から私を引き剥がし、「もう頑張らなくていい」と言ってくれる存在だったのです。
「……無駄こそが、最高の贅沢であり、休息だということですか」
「その通りです」
レオンハルト様は胸を張りました。
「私は彼女の『心の充電器』になりたい。そのためなら、六時間でも十二時間でも、喜んでキッチンに立ちましょう」
かっこいい。
エプロン姿なのに、今まで見たどの騎士姿よりも、今の彼が一番格好良く見えました。
ルーカス殿下は、しばらく無言でシチューを見つめていましたが、やがて「はぁ」と大きな溜息をつきました。
「……参ったな。こちらの負けだ」
彼は灰色のブロックをケースにしまいました。
「確かに、今の彼女の顔を見れば一目瞭然だ。僕の理論では、その表情は引き出せない」
ルーカス殿下は、少し悔しそうに、でも清々しい顔で笑いました。
「いい男じゃないか、騎士団長。筋肉担当だなんて言って悪かったよ。君は『幸福担当』だね」
「光栄です」
「よし、スカーレット! 今回の求婚は取り下げる!」
ルーカス殿下は立ち上がりました。
「ただし、諦めたわけじゃないよ。もし彼が君を泣かせるようなことがあれば、即座に帝国軍を率いて奪いに来るからね。……その時は、この栄養バーを山ほど食わせてやる」
「それは一番の脅しですわ」
私はクスクスと笑いました。
「まあ、僕もせっかくだから、その『非効率な味』とやらを試させてもらおうかな」
「どうぞ。殿下の分も用意してあります」
レオンハルト様がもう一皿、シチューをサーブしました。
ルーカス殿下はそれを一口食べ、目を見開きました。
「……美味いな」
「でしょう?」
「チッ……悔しいが、完敗だ。これでは、帝国の食文化改革案も見直しが必要だな」
その夜の晩餐会は、外交交渉の場から、和やかな食事会へと変わりました。
「効率」の帝国皇太子と、「幸福」の王国騎士団長。
正反対の二人が、シチューを囲んで「スカーレットがいかに素晴らしいか」を語り合うという、私にとっては少し恥ずかしく、でも最高に幸せな時間が過ぎていきました。
胃袋を掴まれたのは私でしたが、結果として、隣国との関係も(胃袋を通じて)良好なものになりそうです。
レオンハルト様の「愛妻料理外交」、恐るべしです。
王宮の小ダイニングルーム。
今夜は、ガレリア帝国のルーカス皇太子を歓迎するための(という名目の)晩餐会が開かれていました。
しかし、主賓であるルーカス殿下は、テーブルに並べられたカトラリーを見て鼻を鳴らしました。
「人間が一生のうち、食事に費やす時間は平均で約四年分だと言われている。四年だよ、スカーレット! これだけの時間があれば、新しい法案が何千本作れると思う?」
「……確かに、計算上はそうですわね」
私は頷きました。
食事は生命維持に不可欠ですが、調理、摂食、片付けの時間は、純粋な生産活動という観点から見ればロスと言えなくもありません。
「だから僕は、帝国でこれを開発させたんだ」
ルーカス殿下は、懐から銀色のケースを取り出しました。
中には、無機質な灰色のブロック状の物体と、怪しげなカプセルが入っています。
「『完全栄養食・ガレリアバー』だ。これ一本で、成人が一日に必要なカロリーと栄養素を全て摂取できる。食事時間はわずか三十秒。味は……まあ、粘土と段ボールを混ぜたような味だが、栄養価は完璧だ」
「粘土と段ボール……」
「君にもあげよう。これを齧りながら議論を続けようじゃないか。さあ、口を開けて」
彼が灰色のブロックを差し出してきました。
究極の効率化。
私の理性が「それは正しい」と叫ぶ一方で、私の本能(胃袋)が「全力で逃げろ」と警鐘を鳴らしています。
その時でした。
「お待たせしました」
重厚な扉が開き、ワゴンを押した男が入ってきました。
コックコートに身を包み、長い髪を後ろで束ねた、国一番の騎士団長。
レオンハルト・アイゼン様です。
「本日のメインディッシュをお持ちしました」
「……なんだい、君が運ぶのか? 使用人は?」
ルーカス殿下が眉をひそめました。
「私が作ったので、私が運ぶのが筋でしょう」
「は? 騎士団長が料理?」
「趣味です。……それに、私の婚約者の体調管理は、私の専管事項ですので」
レオンハルト様は優雅にシルバーの蓋(クローシュ)を開けました。
ふわぁっ、と白い湯気が立ち上ります。
一瞬にして、ダイニングルームが芳醇な香りで満たされました。
「本日のメニューは、『特製ビーフシチュー・王宮風』です」
「……!」
私の目が釘付けになりました。
飴色になるまで炒められた玉ねぎの甘い香り。赤ワインとフォン・ド・ヴォーでじっくり煮込まれた濃厚なソース。そして、スプーンで触れるだけで解けそうなほど柔らかい牛肉の塊。
「サイドディッシュには、旬の温野菜のバターソテー。パンは、先ほど焼き上げたばかりの自家製ライ麦パンです」
レオンハルト様は、私の目の前に皿を置きました。
「さあ、スカーレット。熱いうちに召し上がれ」
「……いただきます」
私はスプーンを手に取りました。
ルーカス殿下の「灰色のブロック」と、レオンハルト様の「黄金色のシチュー」。
比較検討するまでもありません。
一口食べると、濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、身体の芯まで温かさが染み渡っていきました。
「……んっ……」
思わず、変な声が出そうになりました。
美味しい。ただ美味しいだけでなく、疲れた脳と体に、優しさが直接注入されるような感覚。
「どうだ? 味は濃すぎないか?」
レオンハルト様が、心配そうに顔を覗き込みました。
「……完璧です。以前、別荘で作ってくださった時よりも、さらに深みが増していますわ」
「君が最近、公務で疲れているようだったからな。野菜を多めにして、消化に良い隠し味を入れておいた」
彼は満足げに微笑み、私のグラスに水を注ぎ足しました。
その流れるような気遣い。
「……ふん」
面白くなさそうな声が聞こえました。
ルーカス殿下が、自分の持っている栄養バーと、私が食べているシチューを見比べています。
「非効率だね。たかだか一食のために、何時間かけたんだい?」
「仕込みを含めれば六時間です」
レオンハルト様は即答しました。
「六時間!? 正気か!? その時間があれば、軍事演習が一回できるぞ!」
「ええ。ですが、その六時間で、彼女がこうして幸せそうに笑ってくれるなら、安いものです」
「……!」
レオンハルト様は、ルーカス殿下を真っ直ぐに見据えました。
「皇太子殿下。貴方の仰る効率性は正しい。国家運営において、無駄を省くことは重要です」
「なら……」
「ですが、家庭においてはどうでしょうか? 効率だけで作られた食事、効率だけの会話、効率だけの関係……。そこに『帰りたい』と思える場所はありますか?」
レオンハルト様は、私の肩に手を置きました。
「スカーレットは、外では完璧な宰相です。誰よりも効率を求め、誰よりも働いている。……だからこそ、家に帰った時くらい、非効率なほどの手間暇をかけて、甘やかされてもいいはずだ」
「レオンハルト様……」
私の胸が熱くなりました。
そうです。
私が求めていたのは、仕事を一緒にするパートナーではなく、仕事から私を引き剥がし、「もう頑張らなくていい」と言ってくれる存在だったのです。
「……無駄こそが、最高の贅沢であり、休息だということですか」
「その通りです」
レオンハルト様は胸を張りました。
「私は彼女の『心の充電器』になりたい。そのためなら、六時間でも十二時間でも、喜んでキッチンに立ちましょう」
かっこいい。
エプロン姿なのに、今まで見たどの騎士姿よりも、今の彼が一番格好良く見えました。
ルーカス殿下は、しばらく無言でシチューを見つめていましたが、やがて「はぁ」と大きな溜息をつきました。
「……参ったな。こちらの負けだ」
彼は灰色のブロックをケースにしまいました。
「確かに、今の彼女の顔を見れば一目瞭然だ。僕の理論では、その表情は引き出せない」
ルーカス殿下は、少し悔しそうに、でも清々しい顔で笑いました。
「いい男じゃないか、騎士団長。筋肉担当だなんて言って悪かったよ。君は『幸福担当』だね」
「光栄です」
「よし、スカーレット! 今回の求婚は取り下げる!」
ルーカス殿下は立ち上がりました。
「ただし、諦めたわけじゃないよ。もし彼が君を泣かせるようなことがあれば、即座に帝国軍を率いて奪いに来るからね。……その時は、この栄養バーを山ほど食わせてやる」
「それは一番の脅しですわ」
私はクスクスと笑いました。
「まあ、僕もせっかくだから、その『非効率な味』とやらを試させてもらおうかな」
「どうぞ。殿下の分も用意してあります」
レオンハルト様がもう一皿、シチューをサーブしました。
ルーカス殿下はそれを一口食べ、目を見開きました。
「……美味いな」
「でしょう?」
「チッ……悔しいが、完敗だ。これでは、帝国の食文化改革案も見直しが必要だな」
その夜の晩餐会は、外交交渉の場から、和やかな食事会へと変わりました。
「効率」の帝国皇太子と、「幸福」の王国騎士団長。
正反対の二人が、シチューを囲んで「スカーレットがいかに素晴らしいか」を語り合うという、私にとっては少し恥ずかしく、でも最高に幸せな時間が過ぎていきました。
胃袋を掴まれたのは私でしたが、結果として、隣国との関係も(胃袋を通じて)良好なものになりそうです。
レオンハルト様の「愛妻料理外交」、恐るべしです。
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