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「スカーレットォォォ! 行かないでくれぇぇ!」
王宮の裏門で、この世の終わりのような叫び声が響き渡りました。
叫んでいるのは、私の後任(代理)として大量の決裁書類を押し付けられた、ヴィクター氏です。
「君がいないと、この国の行政が止まる! いや、私が過労で止まる! 頼む、せめて半日は働いてから行ってくれ!」
彼は必死に馬車の車輪にしがみついていましたが、私は無慈悲に窓を閉めました。
「ヴィクター。貴方ならできます。優秀な弁護士でしょう?」
「弁護士と総理大臣は職種が違う! これは契約違反だ!」
「追加報酬として、私の秘蔵の『脱税テクニック集(合法)』を差し上げますから」
「……チッ。今回だけだぞ」
ヴィクター氏は舌打ちをして手を離しました。現金な男です。
「行ってらっしゃいませ、お姉様! お土産は『温泉まんじゅう』でお願いしますぅ!」
リリィ様がハンカチを振っています。
「では、出発進行!」
御者台のレオンハルト様(新郎兼御者)が鞭を鳴らし、私たちのハネムーン用馬車は軽快に走り出しました。
目指すは、西の辺境。ルベル渓谷。
私たちが初めて「契約」ではなく「心」を通わせた、あの思い出の別荘地です。
***
道中は、驚くほど平和でした。
追手も来なければ、皇太子の襲撃もなく、ただ美しい景色と、レオンハルト様の淹れてくれるコーヒーがあるだけ。
「……静かですね」
私は馬車の中で、ポツリと呟きました。
「ああ。君の『トラブル誘引体質』も、休暇を取ったらしい」
「失礼な。トラブルの方が勝手に寄ってくるのです」
そんな軽口を叩き合いながら、三日後。私たちは懐かしの別荘に到着しました。
そこは、何も変わっていませんでした。
私の可愛らしいレンガ造りのコテージ。
そして、道路を挟んだ向かいに鎮座する、レオンハルト様の厳つい「要塞別荘」。
「ふふっ。あの日、ここで貴方がビーフシチューを作りに来たのが、全ての始まりでしたわね」
「そうだな。あの時は必死だった。『どうやってこの鉄の女の胃袋を掴むか』と、作戦会議を十回は開いた」
「十回も? 暇人ですこと」
私たちは笑いながら、コテージの鍵を開けました。
中は少し埃っぽくなっていましたが、家具も食器も当時のまま。
「さあ、スカーレット。君はソファで座っていてくれ。掃除と荷解きは私がやる」
レオンハルト様はジャケットを脱ぎ、腕まくりをしました。
「ハネムーンくらい、家事代行を頼んでもよかったのでは?」
「いや。君のために働くのが、私の至上の喜びだと言っただろう?」
彼は鼻歌交じりに箒を手に取りました。
最強の騎士団長が、楽しそうに床を掃く姿。
これこそが、私にとっての「絶景」かもしれません。
私はお言葉に甘えて、ロッキングチェアに座り、郵便受けに入っていた手紙の束を確認することにしました。
ほとんどはダイレクトメールや、村人たちからの感謝状でしたが、その中に一通、異質な封筒が混ざっていました。
紙質はゴワゴワとした安物。
消印は、北の最果て「極寒開拓村」。
そして差出人の欄には、震えるような字で『村長J』と書かれています。
「……J?」
嫌な予感がします。
私はペーパーナイフで封を開けました。
中から出てきたのは、涙の跡……ではなく、なぜか泥と汗の匂いがする便箋でした。
『拝啓、スカーレット宰相閣下。……いや、今はアイゼン公爵夫人か』
書き出しからして、以前のポエム調とは違います。
『私は今、北の果てで雪かきをしている。朝起きて雪をかき、昼飯を食って雪をかき、寝る前に雪をかく。そんな毎日だ』
ジュリアン殿下(元)の手紙でした。
私は眉をひそめました。てっきり「寒い、辛い、帰りたい」という恨み言が延々と綴られていると思ったのですが。
『最初は地獄だと思った。だが、スカーレットよ。聞いてくれ。……雪かきは、素晴らしい』
「は?」
『雪は嘘をつかない。かけばかくほど道ができる。成果が目に見えるのだ。書類仕事のように「検討します」などという曖昧な返事はない。やるか、やらないか。その単純明快さが、今の私には心地よい』
なんだか悟りを開いています。
『それに、筋肉がついた。以前の私は見せかけの筋肉だったが、今は本物の「使える筋肉」だ。村の婆さんたちが「村長、いい背中だ」と褒めてくれる。……リリィや君には一度も褒められたことがなかったが、婆さんたちの言葉は温かい』
あのアホな王太子が、お婆ちゃん子になっている……?
『食い物も美味い。ジャガイモと塩だけのスープだが、労働の後に食うと、王宮のフルコースより染みるんだ。……君が言っていた「労働の対価」という意味が、ようやく分かった気がする』
私は手紙を持つ手が止まりました。
彼は彼なりに、自分の居場所を見つけたようです。
王宮という煌びやかで複雑な場所よりも、単純な肉体労働の世界の方が、彼には合っていたのでしょう。
『追伸。リリィには「元気でやれ」と伝えてくれ。……あと、もし可能なら、補給物資として「湿布」と「プロテイン」を送ってほしい。筋肉痛が治らない』
「……ふふっ」
私は思わず吹き出しました。
「どうした、スカーレット? 楽しそうだな」
掃除を終えたレオンハルト様が、ハーブティーを持ってきてくれました。
「ええ。北の国から、面白い報告書が届いたのです」
私は手紙を彼に見せました。
レオンハルト様は目を通し、驚いたように目を丸くしました。
「……あの殿下が、『雪かきは素晴らしい』だと?」
「人は変われるようですわ。あるいは、元々彼には『木こり』や『開拓者』の才能があったのかもしれません」
「筋肉について熱く語っているな。……これは、ルーカス皇太子と気が合うかもしれん」
「筋肉と効率。確かに相性は良さそうですわね」
私たちは顔を見合わせて笑いました。
かつて私を婚約破棄し、国を混乱させた元凶。
でも今は、遠い空の下で、雪と格闘しながら逞しく生きている。
「……許してあげても、いいかもしれませんね」
「湿布を送ってやるか?」
「ええ。公費ではなく、私のポケットマネーで最高級の湿布を送ってあげましょう。それが、元教育係としての最後の務めですわ」
私は立ち上がり、窓を開けました。
ルベル渓谷の風が、心地よく吹き抜けます。
「レオンハルト様」
「ん?」
「私、今、とても幸せです」
私は素直な気持ちを口にしました。
仕事は大変だし、敵は多いし、夫は過保護すぎるけれど。
それでも、全ての歯車がカチリと噛み合って、誰もが自分の人生を歩き始めている。
「……奇遇だな。私もだ」
レオンハルト様は後ろから私を抱きしめました。
「君とこうして、何もしない贅沢な時間を過ごせる。……これ以上の幸せはない」
「ふふ。でも、湿布の手配はしないといけませんわ」
「それは後でいい。今は……」
彼は私の首筋にキスを落としました。
「ハネムーンの続きを、始めようか」
甘い声に、私は抗う術を持ちません。
「……お手柔らかにお願いしますわ、旦那様」
窓の外では、小鳥たちが祝福するように歌っていました。
北の雪国でも、きっと元王太子がクシャミをしながら、元気に雪をかいていることでしょう。
私の物語における「悪役」はいなくなりました。
残っているのは、少し騒がしくて、愛おしい日常だけです。
王宮の裏門で、この世の終わりのような叫び声が響き渡りました。
叫んでいるのは、私の後任(代理)として大量の決裁書類を押し付けられた、ヴィクター氏です。
「君がいないと、この国の行政が止まる! いや、私が過労で止まる! 頼む、せめて半日は働いてから行ってくれ!」
彼は必死に馬車の車輪にしがみついていましたが、私は無慈悲に窓を閉めました。
「ヴィクター。貴方ならできます。優秀な弁護士でしょう?」
「弁護士と総理大臣は職種が違う! これは契約違反だ!」
「追加報酬として、私の秘蔵の『脱税テクニック集(合法)』を差し上げますから」
「……チッ。今回だけだぞ」
ヴィクター氏は舌打ちをして手を離しました。現金な男です。
「行ってらっしゃいませ、お姉様! お土産は『温泉まんじゅう』でお願いしますぅ!」
リリィ様がハンカチを振っています。
「では、出発進行!」
御者台のレオンハルト様(新郎兼御者)が鞭を鳴らし、私たちのハネムーン用馬車は軽快に走り出しました。
目指すは、西の辺境。ルベル渓谷。
私たちが初めて「契約」ではなく「心」を通わせた、あの思い出の別荘地です。
***
道中は、驚くほど平和でした。
追手も来なければ、皇太子の襲撃もなく、ただ美しい景色と、レオンハルト様の淹れてくれるコーヒーがあるだけ。
「……静かですね」
私は馬車の中で、ポツリと呟きました。
「ああ。君の『トラブル誘引体質』も、休暇を取ったらしい」
「失礼な。トラブルの方が勝手に寄ってくるのです」
そんな軽口を叩き合いながら、三日後。私たちは懐かしの別荘に到着しました。
そこは、何も変わっていませんでした。
私の可愛らしいレンガ造りのコテージ。
そして、道路を挟んだ向かいに鎮座する、レオンハルト様の厳つい「要塞別荘」。
「ふふっ。あの日、ここで貴方がビーフシチューを作りに来たのが、全ての始まりでしたわね」
「そうだな。あの時は必死だった。『どうやってこの鉄の女の胃袋を掴むか』と、作戦会議を十回は開いた」
「十回も? 暇人ですこと」
私たちは笑いながら、コテージの鍵を開けました。
中は少し埃っぽくなっていましたが、家具も食器も当時のまま。
「さあ、スカーレット。君はソファで座っていてくれ。掃除と荷解きは私がやる」
レオンハルト様はジャケットを脱ぎ、腕まくりをしました。
「ハネムーンくらい、家事代行を頼んでもよかったのでは?」
「いや。君のために働くのが、私の至上の喜びだと言っただろう?」
彼は鼻歌交じりに箒を手に取りました。
最強の騎士団長が、楽しそうに床を掃く姿。
これこそが、私にとっての「絶景」かもしれません。
私はお言葉に甘えて、ロッキングチェアに座り、郵便受けに入っていた手紙の束を確認することにしました。
ほとんどはダイレクトメールや、村人たちからの感謝状でしたが、その中に一通、異質な封筒が混ざっていました。
紙質はゴワゴワとした安物。
消印は、北の最果て「極寒開拓村」。
そして差出人の欄には、震えるような字で『村長J』と書かれています。
「……J?」
嫌な予感がします。
私はペーパーナイフで封を開けました。
中から出てきたのは、涙の跡……ではなく、なぜか泥と汗の匂いがする便箋でした。
『拝啓、スカーレット宰相閣下。……いや、今はアイゼン公爵夫人か』
書き出しからして、以前のポエム調とは違います。
『私は今、北の果てで雪かきをしている。朝起きて雪をかき、昼飯を食って雪をかき、寝る前に雪をかく。そんな毎日だ』
ジュリアン殿下(元)の手紙でした。
私は眉をひそめました。てっきり「寒い、辛い、帰りたい」という恨み言が延々と綴られていると思ったのですが。
『最初は地獄だと思った。だが、スカーレットよ。聞いてくれ。……雪かきは、素晴らしい』
「は?」
『雪は嘘をつかない。かけばかくほど道ができる。成果が目に見えるのだ。書類仕事のように「検討します」などという曖昧な返事はない。やるか、やらないか。その単純明快さが、今の私には心地よい』
なんだか悟りを開いています。
『それに、筋肉がついた。以前の私は見せかけの筋肉だったが、今は本物の「使える筋肉」だ。村の婆さんたちが「村長、いい背中だ」と褒めてくれる。……リリィや君には一度も褒められたことがなかったが、婆さんたちの言葉は温かい』
あのアホな王太子が、お婆ちゃん子になっている……?
『食い物も美味い。ジャガイモと塩だけのスープだが、労働の後に食うと、王宮のフルコースより染みるんだ。……君が言っていた「労働の対価」という意味が、ようやく分かった気がする』
私は手紙を持つ手が止まりました。
彼は彼なりに、自分の居場所を見つけたようです。
王宮という煌びやかで複雑な場所よりも、単純な肉体労働の世界の方が、彼には合っていたのでしょう。
『追伸。リリィには「元気でやれ」と伝えてくれ。……あと、もし可能なら、補給物資として「湿布」と「プロテイン」を送ってほしい。筋肉痛が治らない』
「……ふふっ」
私は思わず吹き出しました。
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「ええ。北の国から、面白い報告書が届いたのです」
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レオンハルト様は目を通し、驚いたように目を丸くしました。
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「筋肉について熱く語っているな。……これは、ルーカス皇太子と気が合うかもしれん」
「筋肉と効率。確かに相性は良さそうですわね」
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私は立ち上がり、窓を開けました。
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「ん?」
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私は素直な気持ちを口にしました。
仕事は大変だし、敵は多いし、夫は過保護すぎるけれど。
それでも、全ての歯車がカチリと噛み合って、誰もが自分の人生を歩き始めている。
「……奇遇だな。私もだ」
レオンハルト様は後ろから私を抱きしめました。
「君とこうして、何もしない贅沢な時間を過ごせる。……これ以上の幸せはない」
「ふふ。でも、湿布の手配はしないといけませんわ」
「それは後でいい。今は……」
彼は私の首筋にキスを落としました。
「ハネムーンの続きを、始めようか」
甘い声に、私は抗う術を持ちません。
「……お手柔らかにお願いしますわ、旦那様」
窓の外では、小鳥たちが祝福するように歌っていました。
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