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ガタガタと激しく揺れる馬車のなか、私は膝を抱えて丸まっていた。
窓の外を流れる景色は、牙の森の陰鬱な緑から、次第に整地された王道へと変わっていく。
だが、私の心に安らぎはない。
(……ピンク。さっき、道端にピンク色の花が咲いていたわ。あれは絶対にフローラ様の伏兵よ。あるいは、あのお花自体が彼女の目や耳になっているのかも……)
そんな妄想に取り憑かれるほど、私の精神は削られていた。
「……ターリア様。そんなに震えて……。やはり、無理をさせてしまいましたか」
隣に座るアルベルト様が、痛ましげな表情で私を見つめている。
「……震え? ああ、これはいつものことだから気にしないで。私の標準装備みたいなものよ」
「標準装備……。なんと過酷な人生を歩んでこられたのか。常に命の危険に晒され、神経を研ぎ澄ませていなければ生き残れなかったのですね」
(……いや、ここ半年の話なんだけどね。あの子が聖女として現れてからの)
アルベルト様は、私の震える手をそっと包み込んだ。
彼の掌は大きく、温かい。本来なら、ここで「きゃっ」と顔を赤らめて恋が始まる場面なのだろう。
だが、今の私にとっては「フローラ様という重戦車から私を隠してくれる物理的な盾」としてしか認識できていない。
「ターリア様。貴女は先ほどから、一度も後ろを振り返りませんね」
「……振り返ったら、そこに彼女がいるかもしれないじゃない。そんなの、心臓が止まっちゃうわよ」
「……フッ。やはり、貴女は強い。過去を切り捨て、ただ前だけを見据えて進む。その潔さ、眩しいほどです」
(……違うの。後ろを見るのが死ぬほど怖いだけなの)
アルベルト様は、ふっと視線を落とし、少しだけ声を低くした。
「……一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「なあに?」
「貴女がそれほどまでに怯え……いえ、警戒しているのは。やはり、ユリウス王子のことが忘れられないからですか?」
私は、思わず「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ユリウス様? ……ああ、あの婚約者だった人? ええと、誰だっけ、そんな名前の人もいたわね」
「……忘れた振りをなさるのですか。貴女のその鋭い瞳に宿る陰り。それは、愛した男に裏切られ、別の女へと心変わりされた悲しみではないのですか?」
アルベルト様の瞳には、憐憫の情が浮かんでいる。
「違うわよ! これっぽっちも、一ミリも、一ナノメートルも悲しくないわよ! むしろ、あの王子様には『よくぞ彼女を引き受けてくれた!』って感謝のメダルを授与したいくらいだわ!」
私は身を乗り出して力説した。
ユリウス様がフローラ様を愛しているなら、それでいい。末永く、彼女を私から遠ざけておいてほしい。それが私の唯一の願いだ。
だが、アルベルト様は深く溜息をつき、首を振った。
「……強がりを。自分の心を殺し、相手の幸せを願う。その献身的な愛……。なんと痛ましく、気高いのでしょう」
「……聞いてる? 私の話、ちゃんと日本語……じゃなくて、この国の言葉で届いてる?」
「届いていますとも。貴女の魂の叫びが。……安心してください。私が、その凍てついた心を溶かしてみせます」
(……ダメだ。この人、重症だわ)
アルベルト様は、私の手を握る力を強めた。
「私は当初、貴女のことを『救うべき弱き令嬢』だと思っていました。ですが、今は違います」
「……どう違うの?」
「貴女は、私が生涯をかけて仕えるべき『主』であり、そして……守り抜きたい一人の女性だ」
アルベルト様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
整った顔立ち、誠実そうな瞳。普通ならここで目を閉じる場面だ。
だが、私の脳裏を過ったのは、この感動的なシーンの背後の窓を「素手でぶち破って」入ってくる、フローラ様の満面の笑みだった。
「……待って! 今、窓の外で何かが動いたわ!!」
私はアルベルト様を力いっぱい突き飛ばし、座席の下に潜り込んだ。
「ターリア様!? ……くっ、刺客か!」
アルベルト様は即座に剣を抜き、窓の外を確認する。
「……いえ、何もいません。ただの風で木々が揺れただけのようです」
「……嘘よ。あの子は風に化けることもできるはずだわ。空気を圧縮して、弾丸にして飛ばしてくるかもしれない!」
「……空気の圧縮? 伝説の古龍でもなければ不可能な技ですが……。……なるほど、貴女はそれほどの超常的な力を相手に戦ってきたのですね」
アルベルト様は、床で震える私を見下ろし、敬虔な祈りを捧げるように片膝をついた。
「貴女をそこまで追い詰める『聖女』とやら。もし現れたならば、このアルベルトが、全魔力を注ぎ込んで対抗しましょう。例えこの身が砕け散ろうとも」
「……死なないでね、アルベルト様。あなたが死んだら、私の盾がいなくなっちゃうんだから」
「……っ! 『私がいなくなっては困る』と……。そのお言葉、この命に代えてもお守りします!」
……ああ、もういいわ。
誤解でも、勘違いでも、何でもいい。
この最強の騎士様が、私のために命を張ってくれるというのなら、私は喜んで「悲劇のヒロイン」でも「不屈の闘士」でも演じてみせるわ。
私は、おそるおそる座席の下から這い出し、アルベルト様の胸に顔を埋めた。
(……うん、この筋肉の厚み。これなら、フローラ様の平手打ちを三発くらいは耐えてくれるはず!)
「ああ……ターリア様……」
アルベルト様が私を優しく抱きしめる。
彼の心臓の鼓動が、私の耳に心地よく響く。
……が、その時。
馬車の天井から、トントン、という軽やかな音が響いた。
「あら、お熱いですわねぇ」
「……ヒィイイイイイイイ!!」
私は、アルベルト様の服の中に頭を突っ込んで絶叫した。
「な、なにごとだ!? 上か!」
アルベルト様が天井を睨みつけるが、そこには何もいない。
ただ、天井の隅に――。
これまたピンク色の小さなリボンが、画鋲で丁寧に留められていた。
「……追いつかれた。もうダメだわ。アルベルト様、私を食べて。食べて隠して!!」
「落ち着いてください! 食べるのは無理です!」
王都の『聖域の塔』。
そこへ辿り着くのが先か、私の心臓がフローラ様の恐怖で破裂するのが先か。
史上最高に噛み合わない逃避行は、いよいよ佳境を迎えようとしていた。
窓の外を流れる景色は、牙の森の陰鬱な緑から、次第に整地された王道へと変わっていく。
だが、私の心に安らぎはない。
(……ピンク。さっき、道端にピンク色の花が咲いていたわ。あれは絶対にフローラ様の伏兵よ。あるいは、あのお花自体が彼女の目や耳になっているのかも……)
そんな妄想に取り憑かれるほど、私の精神は削られていた。
「……ターリア様。そんなに震えて……。やはり、無理をさせてしまいましたか」
隣に座るアルベルト様が、痛ましげな表情で私を見つめている。
「……震え? ああ、これはいつものことだから気にしないで。私の標準装備みたいなものよ」
「標準装備……。なんと過酷な人生を歩んでこられたのか。常に命の危険に晒され、神経を研ぎ澄ませていなければ生き残れなかったのですね」
(……いや、ここ半年の話なんだけどね。あの子が聖女として現れてからの)
アルベルト様は、私の震える手をそっと包み込んだ。
彼の掌は大きく、温かい。本来なら、ここで「きゃっ」と顔を赤らめて恋が始まる場面なのだろう。
だが、今の私にとっては「フローラ様という重戦車から私を隠してくれる物理的な盾」としてしか認識できていない。
「ターリア様。貴女は先ほどから、一度も後ろを振り返りませんね」
「……振り返ったら、そこに彼女がいるかもしれないじゃない。そんなの、心臓が止まっちゃうわよ」
「……フッ。やはり、貴女は強い。過去を切り捨て、ただ前だけを見据えて進む。その潔さ、眩しいほどです」
(……違うの。後ろを見るのが死ぬほど怖いだけなの)
アルベルト様は、ふっと視線を落とし、少しだけ声を低くした。
「……一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「なあに?」
「貴女がそれほどまでに怯え……いえ、警戒しているのは。やはり、ユリウス王子のことが忘れられないからですか?」
私は、思わず「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ユリウス様? ……ああ、あの婚約者だった人? ええと、誰だっけ、そんな名前の人もいたわね」
「……忘れた振りをなさるのですか。貴女のその鋭い瞳に宿る陰り。それは、愛した男に裏切られ、別の女へと心変わりされた悲しみではないのですか?」
アルベルト様の瞳には、憐憫の情が浮かんでいる。
「違うわよ! これっぽっちも、一ミリも、一ナノメートルも悲しくないわよ! むしろ、あの王子様には『よくぞ彼女を引き受けてくれた!』って感謝のメダルを授与したいくらいだわ!」
私は身を乗り出して力説した。
ユリウス様がフローラ様を愛しているなら、それでいい。末永く、彼女を私から遠ざけておいてほしい。それが私の唯一の願いだ。
だが、アルベルト様は深く溜息をつき、首を振った。
「……強がりを。自分の心を殺し、相手の幸せを願う。その献身的な愛……。なんと痛ましく、気高いのでしょう」
「……聞いてる? 私の話、ちゃんと日本語……じゃなくて、この国の言葉で届いてる?」
「届いていますとも。貴女の魂の叫びが。……安心してください。私が、その凍てついた心を溶かしてみせます」
(……ダメだ。この人、重症だわ)
アルベルト様は、私の手を握る力を強めた。
「私は当初、貴女のことを『救うべき弱き令嬢』だと思っていました。ですが、今は違います」
「……どう違うの?」
「貴女は、私が生涯をかけて仕えるべき『主』であり、そして……守り抜きたい一人の女性だ」
アルベルト様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
整った顔立ち、誠実そうな瞳。普通ならここで目を閉じる場面だ。
だが、私の脳裏を過ったのは、この感動的なシーンの背後の窓を「素手でぶち破って」入ってくる、フローラ様の満面の笑みだった。
「……待って! 今、窓の外で何かが動いたわ!!」
私はアルベルト様を力いっぱい突き飛ばし、座席の下に潜り込んだ。
「ターリア様!? ……くっ、刺客か!」
アルベルト様は即座に剣を抜き、窓の外を確認する。
「……いえ、何もいません。ただの風で木々が揺れただけのようです」
「……嘘よ。あの子は風に化けることもできるはずだわ。空気を圧縮して、弾丸にして飛ばしてくるかもしれない!」
「……空気の圧縮? 伝説の古龍でもなければ不可能な技ですが……。……なるほど、貴女はそれほどの超常的な力を相手に戦ってきたのですね」
アルベルト様は、床で震える私を見下ろし、敬虔な祈りを捧げるように片膝をついた。
「貴女をそこまで追い詰める『聖女』とやら。もし現れたならば、このアルベルトが、全魔力を注ぎ込んで対抗しましょう。例えこの身が砕け散ろうとも」
「……死なないでね、アルベルト様。あなたが死んだら、私の盾がいなくなっちゃうんだから」
「……っ! 『私がいなくなっては困る』と……。そのお言葉、この命に代えてもお守りします!」
……ああ、もういいわ。
誤解でも、勘違いでも、何でもいい。
この最強の騎士様が、私のために命を張ってくれるというのなら、私は喜んで「悲劇のヒロイン」でも「不屈の闘士」でも演じてみせるわ。
私は、おそるおそる座席の下から這い出し、アルベルト様の胸に顔を埋めた。
(……うん、この筋肉の厚み。これなら、フローラ様の平手打ちを三発くらいは耐えてくれるはず!)
「ああ……ターリア様……」
アルベルト様が私を優しく抱きしめる。
彼の心臓の鼓動が、私の耳に心地よく響く。
……が、その時。
馬車の天井から、トントン、という軽やかな音が響いた。
「あら、お熱いですわねぇ」
「……ヒィイイイイイイイ!!」
私は、アルベルト様の服の中に頭を突っ込んで絶叫した。
「な、なにごとだ!? 上か!」
アルベルト様が天井を睨みつけるが、そこには何もいない。
ただ、天井の隅に――。
これまたピンク色の小さなリボンが、画鋲で丁寧に留められていた。
「……追いつかれた。もうダメだわ。アルベルト様、私を食べて。食べて隠して!!」
「落ち着いてください! 食べるのは無理です!」
王都の『聖域の塔』。
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